西暦一九六一年四月、ソビエト連邦のユーリイ・ガガーリン少佐によって初の有人宇宙飛行が成功して以来、人類は宇宙への関心を次第に高めていった。国々は競ってその技術力を宇宙開発の手段に反映し、やがて人類はその増えすぎた人口を宇宙へと移民させるようになり、地球の衛星軌道上には軒並みスペースコロニーが建設された。だが人工的に造られた構造物がそう長く維持できる筈もなく、寿命を迎えたコロニーは制御を失い、衛星軌道を外れて次々に地上へと落下して行った。
落下を免れたコロニーも機能を停止し、ただの巨大な浮遊物と化すのみであった。やがて人工構造物の限界を知った人類は、母なる地球の衛星である月に目を付けた。そこを足掛かりに、人類は太陽系のあまねく星々をテラ・フォーミングし、故郷を捨てて移住するようになった。が、その頃、母なる大地・地球は、相次ぐコロニー落着のため核の冬を迎え、知的生命の居住環境としては耐えられない状態になっていた。地球がその機能を元通り回復するには、何千・何万年と云う歳月を要するであろう……地質学者や宇宙開発事業団の重鎮は口を揃えてそう言った。
一方、火星を手始めに、地殻を持つ外惑星やその衛星などをテラ・フォーミングして移民した人類の子孫は、やがてこの大地も同じ運命を辿るだろう……そう考え至り、更なる外宇宙への進出に意欲を燃やした。しかし、宇宙の壁はとても高く、そして厚いものであった。恒星間移民船として開発された宇宙船も、そのエネルギーは無限であっても食料や水などの供給には限度がある。科学的に化合して作り出そうにも、その原子が無ければモノは生れ出ない。そうして主を失った無人の船は、宇宙の果てを目指して飛んで行くのであった……
それから幾千年経ったであろうか。地球から最も遠い極寒の地である冥王星を改造して細々と生き延びていた人類の子孫が、地球へと降り立った。そこは広大な海に僅かな陸地が浮かぶ、水の星となっていた。海洋生物が発達し、陸上に生きる者は皆無に等しい。だが、ヘルメットのバイザーを開けてみたら、どうだ! 清々しいまでの澄んだ空気が舞い込んで来るではないか。
陸上への移民はもはや適うべくもなくなったが、地球はその青さを、生命の息吹を取り戻したのだ。
この自然を二度と壊してはいけない。そう誓った移民団は再び地球を離れ、伝説の星として永久に封印する事とした。そして、地球と云う名は『人類の住処』という意味に取って代わり、伝説の星は全ての始まり、『ズィーロ』と名付けられた。
更に数千年の後、人類は、恒星の周りを一定期間で周回する星々の中で、知的生命の居住に耐える気候にある星を次々とテラ・フォーミングし、それぞれを『地球』と呼称するようになっていた。その中で最も早く移住に成功した地球を、人類は『ウーノ』と名付けた。
この物語は、ここ『ウーノ』を中心に巻き起こる、二つの地球の運命を弄ぶ悪魔の子守歌である……
「こちら制御室、第八プラント応答せよ! 繰り返す、第八プラント応答せよ!!」
白衣姿の管制官が、未知の細菌を発見、研究していたプラントに対して応答を求めていた。だが、レシーバーからはホワイトノイズが聞こえるだけで、誰も応答して来る気配が無い。
「おかしい、誰も居ない筈は無いんだが」
「あのプラントでは、新種の細菌を培養して、その効果と弱点について研究していた筈だ。もしかすると……」
「お、おいおい、よせよ。怖い想像は止めようぜ」
傍に居たオペレーターが、最悪の事態を想像してポツリと漏らした。それを聞いた管制官は冷や汗を流しながらその発言を否定した。いや、否定したくなるのも無理はない。何しろ、彼らの想像通りの事が起こっているとしたら、そのプラント内では既にバイオハザードが起きており、内部の研究員は既に全滅しているという事になるからだ。しかし、現に誰からも応答が無く、呼び掛けにも無言の回答が返って来るだけ。これは或いは……と危惧した管制官は、第八プラントを物理的に閉鎖した後、非常用ハッチから防護服を着用した決死隊を侵入させ、内部の調査をするよう命じた。だが、その決死隊からも突入後まもなく応答が無くなり、管制官たちの焦りはいよいよ激しくなっていった。そして遂に最高指令室からの判断が下り、第八プラントを防火壁で覆い、丸ごと焼却処分してしまうよう命令が下された。
その作業は下命後即座に開始され、開始後四時間足らずで簡易防火壁が第八プラントを覆い隠そうとしていた。そして最後に内壁の加工に掛かっていた作業員が退去し、作業ハッチが固く閉じられ、内壁に固定された火炎放射器が一斉に咆哮を上げた。と、瞬く間に第八プラントの構造体は煉獄に包まれ、炎は更に内部へと侵入。決死隊やプラント職員の亡骸と一緒に、培養器やその中の細菌をも焼き尽くす……筈であった。
そして全てが灰燼に帰し、上部に設けられた排煙塔からの煙が黒から白に変わり、やがて見えなくなると、今度は慎重に防火壁の撤去が行われる事になった。重機のマニピュレーターが最上部の排煙塔を外し、無人探査機が内部に侵入して様子を窺った。モニターには灰となった第八プラントの残骸が映っていた。
「……遺族への見舞金、保険で何とかなるかなぁ?」
「今はそんな事を気にしてる場合じゃないだろう。内部の安全が確認できたら、サッサとコイツを撤去……」
管制官がそこまで発言しつつ、再びモニターに目をやったその瞬間……彼は言葉を失った。いや、正確には、それ以上言葉を紡ぐ事が出来なかったのだ。それは傍らのオペレーターも同様で、僅かな時間差はあったが、ほぼ同時に彼らはその場に倒れ、暫く呻き苦しんだ後に絶命した。プラント群のエリアから離れた管制室の中でその状況なのだから、隣接するプラント群がどのような状況かは推して知るべきであろう。
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「ガイア様」
「……茶を楽しんでいる間は、邪魔をするなと言っておいた筈だが」
側近の男が、テラスで寛ぐ老人から叱りを受けていた。テラスと云っても、さんさんと日の注ぐ芝生の上ではない。星空の上に浮いているような光景、と表現すれば良いだろうか。そのような場所に設えられたテーブルセットが置かれているだけである。
「申し訳御座いません。只今、ノーヴェにて騒ぎがあったと報告がありましたゆえ」
「ノーヴェ? ……あぁ、あの辺境の植民地か。大勢に影響は無い、捨て置け」
「宜しいのですか? 他の星々に影響が出る可能性も否定できないという情報も御座いますが」
「むぅ……」
ガイアと呼ばれた老人は、その言を聞いて漸く腰を上げ、側近に背を向けながら短く先を促した。
「何が起こったのだ」
「バイオハザードです。研究中の細菌が大気中に解放され、多大な被害が出たと報告されております」
ガイアは側近からの報告を聞き、暫し瞑目しながらその髭を弄び、やがて乾いた声で指示を出した。
「ノアをノーヴェに向かわせろ。状況を視察し、報告させるのだ」
「御意に」
側近の男は簡潔に了承の意を告げると、スッと姿を消した。それを気配のみで感じ取ったガイアは、再び座して茶の香りを愛でつつ、天を仰いだ。人間とは、何時、何処に於いても愚かで御し難い生物であるな……と嘆きながら。
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「これは……酷い」
ノーヴェ……ズィーロを旅立った人類にとって九番目の地球であるその惑星に降り立った、彼女──女神ノアの発した第一声がそれであった。然もありなん、彼女の眼前には近代的なビルが立ち並んではいるが生気は全く感じられず、嘗てその地を闊歩していたと思しき者たちの骸だけが、至る所で朽ち果て、無残な姿を晒していたのだから。
「生きている人は! どなたか、生きている人は居ませんか!?」
彼女は必死に声を張り上げたが、応答は無い。空しい静寂の中、自分の声が木霊するのを聞くだけであった。
(この星は、確か最後に移民団が到着した場所……なのにこんなに進んだ文明を築いている。ズィーロの科学力を一としたら、これは十……いや、それ以上?)
そんな事を考えながら廃墟を歩いていると、コミカルな駆動音を立てながら何かが動いているのが見えた。漸く人に出会えたと喜んだノアであったが、喜んでしまった分、その正体を知った時の落胆は酷いものだった。彼女が目撃したそれは、自動でゴミを拾い歩く清掃ロボットだったのである。
(誰も居なくなった街で、あなたは一体何をしているの……何のために働くのですか)
風に舞う紙屑をマニピュレーターがキャッチすると、頭頂部にある蓋が開いてそれを放り込んだ。そしてまた、落下物を探して彷徨い歩く。そのバッテリーが尽き、動力源を停止させるその時まで、彼は働き続けるのだ。この無人の廃墟の中で……
そんな『彼』に背を向けたノアが再び歩き出した時、遥か遠くで大音響が鳴り響いた。そして間もなく衝撃波が大地を揺らし、風が一層強く吹き荒れた。
(爆発? いや、違うわ。これは……)
空を見上げると、長い煙の尾を引いて青白く光る物体が空高く舞い上がって行った。明らかに自然の物ではない、何かが。
(宇宙船……きっとそうだわ。僅かに生き残った人たちが、脱出したに違いない)
とすると、まだ生きて助けを求めている人、逃げようと頑張っている人が居るかも知れない! そう考え、ノアは神経を研ぎ澄まし、命の息吹を探し回った。果てしなく続く道を、たった一人で歩き回りながら……
**********
その日から、何日が過ぎたであろうか。ノアは遂に命の息吹を感じ取る事が出来た。場所は広大な滑走路を持つ施設の一角。壊れた窓の中を風が吹き抜け、不気味な共鳴となって響き渡った。巨人サイズのドアを備えた広い建物の中にある、巨大な空洞。恐らくは空港に設えられた格納庫だったのだろう。大小さまざまな乗り物がその建物の内部にはあった。そしてその更に奥……居た。たった一人、生き残っていた人が。ノアは思わず歓声を上げ、その人影に近付いて行った。が、目深に被ったフードの奥から覗くその眼は赤く輝き、その周りの肌は青い。姿かたちは人間だが、何かが違っていた。
「あ、あなたは逃げないのですか?」
「……この星の者ではないな。いや、人の姿を持ってはいるが、人間ではない。そうだな?」
乾いた声が、纏ったフードの奥から聞こえて来た。人語だ。ズィーロからの移民が持つ、特有の言語。それを操る事の出来る者……それはつまり人間である事の証明である。
「ほ、他の人は……?」
「生きていたら、おめでとうと言ってやるのだな。此処は死したる大地、生ける者の在るべき場所に非ず」
「あなたは、どうするのですか?」
「……生き続けるさ。全ての者が滅んでも、俺は死なない。そう、最後の一人になろうともな」
一層強くなる眼光に、ノアは思わず立ちすくんだ。だが、その表情は驚きから、次第に悲しみを帯びた物に変わって行った。目の前の彼の、とても悲しく寂しい心の内が手に取るように分かってしまったから……
「発展を続ける者の終着は、即ち滅び……この星の者たちは、その業によって滅ぼされたのだ」
「……貴方の歩む道に、幸あらん事を」
ノアは光り輝く掌をかざし、男の頭上に掲げた。男はその光を黙って見つめていた。次の瞬間、彼女の姿はそこには無かった。
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重々しい音を立てながら、大きな扉が開かれた。広く静かなその部屋に、豊かな白髭を蓄えた老人が一人、静かに座していた。
「お父様、只今戻りました」
「……ノアか」
ドアから長く伸びた一本の石廊。その奥に設えられた大きな椅子に、老人──ガイアは座していた。傍らにあるベルを鳴らすと、スッと白いローブを纏った若い男性がガイアの傍らに姿を現した。彼の側近を務める、夢を司る神・オネイロスである。
「状況をお伺いします。ノーヴェはどのような状態でしたか?」
「街並は、そのままの姿で残っておりました。生存者が一名……ただ、異様な雰囲気を纏っておりました。曰く、『この星は死んだ』と」
「原因等について、何か分かった事は?」
「大気中に、生物にとって非常に有害な細菌が舞っておりました。情報として聞いてはおりましたが、想像を絶するものでした」
淡々と答えるノアの回答を、オネイロスが残らず書き留めた。その傍らで、ガイアが髭を弄びながら話を聞いていた。
「生存者の一名は、どうしたのですか?」
「脱出を希望しなかったので、そのまま意に添う形に致しました。ただ、私の到着と入れ違いで脱出した一団があったようです。宇宙船が飛び立つのを目撃しました」
「大儀であった。ゆっくり休むが良い」
「有難うございます」
ガイアの一言により、報告はそこで終わりになった。ノアとしてもそれ以上報告すべき事は無かったので、そのまま退室し、室内は再び静寂に包まれた。
「如何なさいますか?」
「……星ひとつ滅ぼしてしまう細菌が充満した大気の中で生きられる者の存在も気になるが、大勢に影響はあるまい。細菌も、よもや成層圏を越えて他の星に影響を与える事もなかろう。捨て置いて宜しい」
「御意」
そう短く返答すると、オネイロスはまたスッと姿を消し、ガイアはまた一人になった。
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静寂が全てを支配する死の星となったノーヴェから飛び立った、一隻の連絡用シャトル。十人乗りのキャビンには、少女が一人、ポツンと座っている。彼女がコックピットの自動操縦装置に指示した内容はただ一つ。『人類の生命反応をキャッチしたら、その星に接近せよ』、それだけである。
「あれから、もう五百年も経ったのか。不死身の身体を持つお蔭で、水や食料が尽きた今でもこうして生き長らえているが……寂しさは募るばかり。皮肉なものだな……」
少女は、そう言いながら窓の外に目を向けた。宇宙と云う大海原に飛び出して、早五百年。ノーヴェの科学力によって不老不死の身体を与えられた彼女は、あの細菌漏れ事故に於いても無傷であり、何人もの人間が命を落とすのをその目でしっかりと見ていたのだ。阿鼻叫喚、白衣姿の研究員たちが次々と息絶える様は、まさに地獄絵図。それでも自分は何ともなく、こうして生きている。それが自分をこのような身体に変えた、この者たちのお蔭かと思うと、複雑な気持ちにならざるを得なかった。
『生命反応あり。二時の方向、仰角マイナス三十五度。距離五十光分』
コックピットからアナウンスがあったのは、丁度そんな時だった。
(この退屈な日常に、漸く終止符が打てるか……)
アナウンスを聞いた彼女が、最初に思ったのがそれだった。感動でも、歓喜でもない。単なる『報告の受諾』でしかなかった。彼女の心はそこまで乾き切っていたのだ。
「……生命反応を追って接近、海があればそこに着水せよ」
『了解』
人間の女性のそれを模して造られた電子音声が無機質に応答し、幾つかの操縦装置が反応した。スラスターが作動し、機体が回頭を始めた。そして正面に、明るく光る恒星が目に入った。恐らくあれが、目指す惑星の太陽だろう。
「生命反応は、人間の物か? 惑星の情報は?」
『はい。惑星ウーノ、人類が外宇宙にて初めて移民に成功した星です』
ふぅん、とその回答を聞いて、少女は頷いた。どのような所かは知らないが、とにかく人間が住んでいる惑星に辿り着けたのだ。これで寂しくはなくなる、今度こそ自由に生きられる。それだけで充分だったのだ。
やがて太陽の脇を通り過ぎ、惑星の衛星軌道に乗った。そして外周を数回まわった後、大気圏に突入した。この際の緊張感は、いつの時代も変わらぬようだ。機体の外装にダメージは無いか、進入角は合っているか……それらをチェックした後、シャトルは一気に降下を開始した。次第に大気との摩擦熱で機体の外装が赤熱を始め、窓には防護シャッターが掛かった。高度計が作動し始め、地表を感知した事を知らせた。その数値はもの凄い勢いで減じられて行き、かなりの高速で降下しているという事を物語っていた。
「……重力圏を脱出する時も相当なプレッシャーだったが、重力圏に突入する時もプレッシャーは感じるのだな」
我ながら妙な事に感心するものだ、と一人笑いながら、少女はコックピットのシートに身を預けたまま瞑目した。そして窓のシャッターが開き、エンジンノズルの間からパラシュートが展開され、急減速によって逆Gが掛かり、少女は一瞬気が遠くなった。が、それも束の間。窓から漏れる明るい光に思わず目を覆った。五百年ぶりに見た青空。ノーヴェの空も青かったが、それよりも更に青さが鮮やかな気がした。空気が綺麗なのだろう。
「ノーヴェよりも太陽が大きく見える。恒星からの距離が近いのかも知れないな」
そう感じたのは気のせいでは無かった。ノーヴェは太陽となる恒星からの距離が人類の生存に適するギリギリのレベルだったので、星全体を空調装置で温めなければならないという酷く劣悪な環境にあり、空は薄暗く、自然も少なかった。しかし、このウーノは明るく澄んだ自然の星。太陽との距離も適正で、その気候は伝説の星・ズィーロに極めて近いものであった。
「海だ……何と青く綺麗なんだ。水が澄んでいる。ノーヴェの緑色の海とはまるで違うぞ」
海面が近付き、シャトルが機体下部のスラスターで姿勢制御を行った。これらはオートパイロットにより操作されるので、着水に失敗する事はまず無いだろう。そして外翼を機体内に収納し、船舶に近い形状へと変形すると、いよいよ着水。ショックを和らげる為にスラスターを最大に吹かし、ゆっくりと降下した。高度計がゼロを指し、今まで縦方向に強く感じていたプレッシャーが消えた。穏やかな揺れが心地よい。
「着いたか……」
少女は上部ハッチを開き、外へ出た。宇宙船なので船舶のような甲板は無いが、機体上部は平坦に作られているので上に立つ事は出来るのだ。ただし柵が無いので、あまり縁に近付くと落下してしまう。尤も、下は水なので落ちても怪我をする事は無いであろうが。
「綺麗な空気だ……マスクなしでも大丈夫だ。それに、温かい。これが太陽の温かさか」
彼女にとっては五百年ぶりの外気。しかも、これほど綺麗な空気を胸に吸い込んだ事は未だ嘗てない。船内で作られる人工酸素は清潔ではあるが、それとは違う爽やかさがあった。
「……!! 何だ、あれは!?」
シャトルの脇を、クジラの群れが通過して行った。それを見た彼女は、そのあまりの巨大さに驚いていた。無論、ノーヴェにクジラなど居ない。いや、海水が強いアルカリ分を含む為、海洋生物そのものが存在しないのだ。
「色々と、ノーヴェとは違うようだが……住みやすい星のようだ。生き物がいるという事は、泳げるのかも知れないな」
強い好奇心に駆られた彼女は、後部の安定翼に掴まって、まず手を水に付けてみた。ノーヴェの海と違い、皮膚がただれてしまうという事はなさそうだ。ここで彼女の好奇心は一気に頂点に達した。
「誰も見てはいないし……いいだろう!」
彼女は着けていた衣服を全て脱ぎ去り、素裸になって海に飛び込んだ。が、彼女は不用意に飛び込んだ為、海水を思い切り口に含んでしまい、その味に驚いた。
「し、塩辛い!! ……そうか、ここの海は塩水で出来ているのか。しかし、冷たくて気持ちがいい!」
驚いたのは一瞬だけで直ぐに慣れてしまった彼女は、そのまま海中へと潜ってみた。そこで見たものは、色鮮やかな魚の群れ。銀色に輝く鱗を持つもの、原色の体表を持つもの……様々な魚が、群れを成して泳いでいた。彼女はそれに混じって泳いでみた。外洋の為か、魚も彼女を恐れない。人間に襲われた経験が無いのだろう。
(美しい……なんて美しい星なんだ。ここなら好きになれそうだ)
これが自然というものか……彼女はそう感じていた。全てが機械化された科学の星ノーヴェ。そこで生まれ育ち、あまつさえ改造まで施された彼女が、本能的に憧れていたもの……それが此処にはある。彼女は体に染みついた穢れを清めるかのように、魚たちと戯れて暫しの休息を満喫していた。
**********
「……迂闊だった。塩水は乾燥するとベタ付くのだな」
海から上がって、今度は船上で日光浴を楽しんでいた彼女が、ふと気づいたのがそれだった。生まれたままの姿で、夢心地に浸っていたところを、急に現実に引き戻された瞬間だった。
「これはたまらん、真水で洗い流さなくては服も着られない」
彼女は放置してあった服を掴むと、急いで船内に戻ってシャワールームに直行した。ベタ付きが気になるというだけでなく、放置すれば髪や機械化された体内機構に悪影響を与えると気付いたからだった。無論、数日間でどうなるというものでも無いのだが、このベタ付きは生理的に不快だった。女性であれば尚更だろう。
「ふぅ……少々ふざけが過ぎたな。さて、人里を探さなくては」
このシャトルのコンピュータが探知した生命反応が正しければ、必ず人間が居る筈。しかし、このような外洋に人が住むとは考えられない。彼女はレーダーサテライトを打ち上げ、現在位置から最も近い陸地を探した。すると、六十キロほど北方に大陸がある事が分かったので、まずそちらに向かう事にした。
シャトルの操縦系を空間操縦用から大気圏内用に切り替え、再び外翼を展開して海面すれすれをホバークラフトのように推進し始めた。船舶と違って水の抵抗を受けないので、高速を得る事が出来る。惜しむらくは、翼を展開できても大気圏内では飛行する事が出来ない点だった。搭載してあるロケットエンジンは宇宙用の物であり、ジェットエンジンは搭載されていないのである。しかしそれでも、三十二ノット(時速約六十キロ)の速度が得られれば、大陸までは一時間あれば到着できる。太陽は西に傾き始めていたが、日暮れまでには上陸できるだろう。そして人間とコンタクトを取らなくてはならない。彼女ははやる気持ちを抑えつつ、陸へと向かってシャトルを走らせた。
**********
「と、父ちゃん! あ、あれ……」
「何だ、騒がし……い!?」
地元の漁師の親子であろうか。小さな舟をはしけに繋ぎながら獲物を陸揚げしている大人の男と、その傍らで網を畳んでいた男の子が、沖からもの凄い速度で接近して来る得体の知れない乗り物を見て驚いていた。その乗り物は陸に近付くと急に速度を落とし、今度は低速で岸辺をウロウロし始めた。
「わ、わっ! こっち来るよ!」
「あ、慌てるでねぇ!」
狼狽する親子を見付けたのか、その乗り物は徐々にはしけに接近し、その少し沖で停止した。そして天蓋のハッチが開いたかと思ったら、中からはこれまた見慣れぬ衣装を纏った少女が顔を出した。
「おーい! この近くに、空港はないか?」
「クウコウ……って、何だ? 父ちゃん」
「お、おらに訊くな! おらだって知らねぇよ!」
その声が聞こえたのか、少女は『意味が通じなかったのか?』と思い、ハッチ付近からタラップを出してはしけの脇までそれを伸ばし、コンベアに乗って親子に接近して来た。が、その様を見て親子は更に驚いてしまった。
「すまないが、訪ねたい。この辺にこのシャトルを置ける場所……何をしているのだ?」
「ど、どういう仕掛けになってるだ!?」
「ゆ、床が勝手に動いてるだよ……」
はぁ? と少女は首を傾げた。ただのベルトコンベアではないか、何をそんなに驚いているのだ? と。
「そなた達は、地元の者か?」
「ん、んだ」
「なら地理には明るかろう。このシャトルをこのままにはして置けんのでな、何処かに格納したいのだが」
「あげな馬鹿でかいモン、仕舞える納屋なんかねぇだよ!」
「な、納屋!?」
どうも話が通じていないようだ……と、少女はポケットから電子端末を取り出し、上空に打ち上げたレーダーサテライトから近辺の地図を受信して表示してみせた。どうやら、場所を指差して貰おうと思ったらしい。だが……
「ひええぇぇ! こ、こんな小さな板に絵が!」
「しかも、動いとる! な、何じゃこれは!?」
本気で驚いている……これはまさか? と思い、少女は腕に付けられたライトを点灯させてみせた。すると、またしても親子は仰天してしまった。
「うわっ! 光っただ!」
「信じらんねぇ……火も焚いてねぇのに、あんなに明るく光るなんて」
「まさか、電気を知らないのか!?」
「デン……キ?」
そんな馬鹿な! と、今度は逆に少女の方が驚いてしまった。まさか、此処は自分たちの居たノーヴェより数百年以上も早く開拓の始まった星の筈だろう、と。しかし、現実に目の前の親子は、たかだかライトを点灯させただけで腰を抜かしていた。これは一体どういう事なのだ? と、少女は不思議に思った。
ただ一つ分かった事は、ここウーノは自然豊かな美しい星だが、文明はかなり遅れているという事である。そうなると、あのシャトルでの移動は住民を徒に怯えさせる恐れがあるし、自分自身が異端の目で見られてしまう。それはまずい。
(仕方が無い、あのシャトルは自動操縦で宇宙へ……ダメだ、ブースターが無いと成層圏を脱出できない。となると……)
暫し考えた後、少女は一旦シャトルに戻り、コックピットに何やら指示して戻って来た。すると暫くして、無人のシャトルが沖に向かって走り出し、肉眼で見えなくなる距離に達したところで海中へと潜って行った。
(私は、今からこの星の住人になるのだ。郷に入れば郷に従え……装備も護身用のものを除いて、皆捨てた。後は服だが、やむをえない。何処かで調達するとしよう)
少女は、未だ夢でも見ているかのように放心している親子に背を向け、一人旅立って行った。
「お前は! 何時になったら俺の言う事を理解しやがるンだ!? いい加減、あんな王族の言いなりなんか止めちまえ!」
「僕は、僕がこうするべきだと思うから、こうして血を捧げているんだよ。父上の言いなりじゃない、これは僕の意思なんだ」
「バカか! お前まで死んじまうつもりかよ、アイツみてぇによ!!」
荒い口調で目の前の少年を責め立てる、茶髪の青年が居た。彼は濃紺の布地に金色の装飾が施された衣服を纏い、腰には剣を携えていた。武具を携帯している事から察して、どうやら軍隊に属する兵士のようである。
そしてその責めを、少々煩げに聞きながら青年に反抗する少年は、白地に金の装飾という、これまた豪奢な衣服で身を包み、王家の紋章の入った胸飾りを付けていた。青年の発言から察して、王室関係者であるらしい。
「母さんは、民を守る為に自ら命を捧げたんだ。あれは父の命令じゃない、自分の意思でやった事なんだ」
「ったく、親子揃って! いいか、アイツは確かにお前の親父かも知れねぇ。だが、無理矢理にノアを孕ませた鬼畜じゃねぇか! それが俺たちの長だと!? この国の王だと!? ハッ! 反吐が出るぜ!」
「相変わらずだねウィル。でもね、陛下は陛下で、民の事を思って……」
「やめろ! 何が陛下だ、あんな……あんな下種野郎、許されるなら今すぐにでもこの剣で首を跳ねてやりてぇのによ!」
青年──ウィルは更に頭に血を昇らせ、段々とその発言も危険なものになって来た。こんな会話を誰かに聞かれたら、途端に彼は捕えられてしまう。それを危惧した少年──ランスロットは、クルリと背を向けて、窓枠にもたれ掛かって外を見ながら、ウィルに向かって穏やかに語り出した。
「ウィル、見てごらん。街はいま、こんな惨状なんだ。その為に君たち騎士団が奮闘している。でもね、騎士団が倒している相手だって、元は人間だったんだよ。それに、彼らは僕の血を一滴飲ませるだけで、元の姿に戻れるんだよ。だからウィル、殺しちゃいけない。彼らは化け物じゃない、人間なんだ」
「……人間を襲うようになっちまった時点で、立派に化け物さ。だから退治する、それが俺たちの仕事なんだ」
「ウィル!」
「悪いが、仕事に戻らせて貰うぜ。俺は戦果報告に来ただけだ、油を売りに来た訳じゃねぇ」
そう言うと、ウィルは勢い良くドアを開けて退室して行った。後には耳が痛くなるような静寂と、その中に佇むランスロットだけが残された……ように見えるが、その傍らには彼の母──女神ノアが優しく微笑みながら、ランスロットの傍に立っていた。しかし彼女は実体を持たない、いわば霊体となってそこに居るだけなのだ。肉体は先程ウィルが発言した通り、既に滅んで消失しているのだった。
「ごめんなさいね、ランスロット。私が死ななければ、貴方にこのような思いをさせる事も無かったのに」
「やめてよ母さん、母さんのした事は間違いじゃない。それに母さんが死ななくても、僕は母さんの手伝いをしていたと思うよ」
ニコッと微笑むランスロットを見て、ノアもまた微笑みを返した。だが、その笑みには少々陰りが見えた。
「……大丈夫だよ母さん、ウィルだって分かっていると思うから」
「そうね……彼のあの気性は、優しさの裏返し。ただ、その優しさの指す方向が間違っているの。早く気付かせてあげたい……」
ポツリと本音を漏らし、ノアは俯いた。そう、彼──ウィルが変わったのは自分の所為なのだと考え、それが許せないのだった。
「ところで母さん、千年前に起こったっていう、ノーヴェのバイオハザードもこんな感じだったのかな?」
「分からないの。私が着いた時には既に壊滅状態で、不思議な人が一人いるだけだった。恐らくあの人も、あの後間もなく……ロケットが打ち上げられるのを見たけれど、そこに乗っていた人が無事かどうかも……」
ランスロットは『ふぅん』と頷いて、蟲化の深刻化に怯える民を自分一人で救えるのか、その事について考えていた。
「母さんがウーノに来たのは、いつ頃だっけ?」
「最初に来たのは百二十年ほど前。そして二十年ぐらい前に再来して……以来ずっとここに居るわ」
そしてノアは語った。人類の蟲化が始まり、このウーノが劇的に変わり始めた頃の事を。
**********
『キィッ!』
「……!!」
突如、ノアは上空からの攻撃に晒された。それは丁度、ガイアの遣いでウーノを視察していた時の事だった。
惑星ウーノ……そこは豊かな自然に恵まれた、平和な星であった。だが、突然疫病のように流行り出した人類の蟲化が深刻な問題となり、平和な大地は途端に恐怖の坩堝と化したのだった。その情報を得たガイアは、屈強な衛兵・ティターン達を護衛に付けてノアをウーノへと派遣し、状況視察を命じたのである。
「ノア様! 大丈夫ですか!?」
「大した事はありません、掠り傷です」
「しかし、お怪我が!」
「心配ありま……え!?」
そこまで言い掛けた彼女は、目の前で起こった現象を見て驚いた。なんと、手の甲から滴り落ちる血をその身に受けた蟲が、見る間に人間の姿に戻って行くではないか。
「こ、これは一体?」
「もしや……神の血には、この蟲化を抑止する効果があるのでは……ならば!」
護衛として追従していたティターンの一人クレイオスが、自らの指先を剣で傷付けて鮮血を蟲に浴びせた。だが、先刻ノアの血を受けた者のように元に戻る事は無かった。
「そんな……!」
「……どうやら効果があるのは、私の血だけのようですね」
そう呟いたノアが何を考えているかは、ティターン達には直ぐに察しが付いた。クレイオスの合図と共にノアは羽交い絞めにされ、両腕の自由を奪われていた。
「な、何を……?」
「ノア様、お許しを!!」
「は……うっ!!」
ティターン特有の巨躯を駆使して放たれた掌底をモロに受け、ノアは意識を失った。部隊長であるクレイオスは、口惜しさで涙を零し、噛み締めた唇から血を流しながら全軍撤退を指令した。このまま戦闘を継続すれば口減らしは出来るかも知れない、しかし無尽蔵に増え続ける敵を相手取るのは良策とは言えない。それにノアが意識を取り戻せば、彼女は制止を振り切ってでも自らを傷付け、血を流して蟲たちを浄化するであろう……それだけは避けねばならなかった。
「全軍に通達! 意識を集中させよ……エレクティオンをイメージするのだ!!」
震える声で、クレイオスが指令を下した。と、全員が一斉に瞑目し、印を唱えた。次の瞬間、ティターン達は一斉に、瞬時に姿を消した。神の住処──拠点エレクティオンへと瞬間移動したのである。
**********
目を開くと、そこは自室のベッドの上であった。意識を取り戻したノアが最初に見た物は、ベッドの天蓋であった。
「こ、ここは……ハッ! う、ウーノは!? 民たちはどうなったのです!?」
「ノア様! ……どうか、ご無礼をお許し下さい」
「クレイオス! 貴方、怪我を!?」
クレイオスは全身に夥しい生傷を作り、ドアの前で跪いていた。それを見たノアは、彼が戦いで傷付いたものと勘違いをして、手当てをするよう命じる為、医学の神アスクレーピオスを呼び寄せようとした。しかし、クレイオスはそれを拒否し、悲しみを帯びた笑みを浮かべてノアに報告を始めた。
「この傷は、私自身が戒めの為に付けたもの。戦傷では御座いません」
「自ら? ……一体、何のために?」
「私は一軍の指揮官でありながら、戦闘行為を放棄して部下と共に帰還致しました。それゆえ、自らに課した罰で御座います」
その回答を聞き、ノアは意識を失う直前、何があったのかを思い出した。そうだ、私は彼の当て身によって意識を失ったのだ、という事を。しかし彼女はクレイオスを責める事が出来なかった。彼が自分の身を案じて、敢えてあのような行為に出たのだという事を理解していたからである。
「ごめんなさい、クレイオス。私の為に、軍を引くような行為を……」
「いえ! あれは私の一存による決定です。ノア様が気に病む事ではありません」
「……ごめんなさい」
ノアの涙はその頬を伝い、手当てが施された左の手の甲に零れ落ちた。涙するノアを見たクレイオスは、思わず彼女の傍まで駆け寄り、その小さな手を優しく握り締めて微笑んだ。
「対策を、練らなくてはなりません。涙する事は後でも出来ます、今は神として為すべき事を!」
「……!! そうでしたね。父の元へ参ります、手を貸してください」
「御意に」
打撃のダメージは思いのほか強く、ノアは未だに自力で立ち上がる事すら儘ならなかった。流石は戦の申し子ティターンの長、その拳圧だけで女神にここまでダメージを与えられる存在は如何に天界広しと言え、彼を置いて他には居るまい。クレイオスはノアの身体を優しくその手に抱くと、折り曲げた自らの左腕にそっと座らせて、ノシノシと歩き出した。
**********
その頃、ガイアはオネイロスを正面に置き、問答を繰り返していた。話題は勿論、ウーノに於ける謎の難病の蔓延と、それの抑止についてである。
「あれは自然の疫病とは思えません。何らかの人為的操作が為されているように見えてならないのです」
「しかし、ウーノは他の地球に比して文明の立ち遅れた、未開の地と言って差し支えのない星。その住人に、あのような怪物を生み出す知能があるとは思えぬのだが」
「ふとした事から、天才的なひらめきを得る……考えられぬ事ではありませんぞ」
「むぅ……」
熱く事を語るオネイロスに対し、ガイアはそれをやや煩げに捉えた。どうやらガイアは、ウーノの状況に対してさほど興味を示してはいない様子であった。無論、全銀河を統治する立場の者としての務めは果たさねばならないが、人類そのものを自らの失敗作と評している彼にとって、それらが何を仕出かそうが知った事では無い、と云うのが本音であるらしい。
「ガイア様、ノア様がお目覚めになられました」
「おお、ノアか。ウーノでの働き、大儀であった」
「そんな、お父様。私は事を成し遂げずに戻って来たのです。お叱りこそあれ、褒められる言われは……」
そこまで口に出した時、自分をここまで連れて来てくれたクレイオスが表情を強張らせ、唇を噛んでいる事に気付き、彼女は思わず口を噤んだ。が、フォローに入るより早く、クレイオスがサッと跪き、ガイアに対して進言していた。
「ウーノに於ける軍勢の指揮権は、私にありました。依って此度の敗走の責は全て私が負うべき事。ノア様は……」
「控えよ、クレイオス。今は過ぎた事を論じている時ではない。それに相手は無尽蔵に増え続けていたとの事ではないか。あの場に留まり戦いを続けたところで、無駄に消耗するだけであった事は明白。貴公の判断は寧ろ正しいと言える」
「……勿体のう御座います、オネイロス様」
未だ失態を恥じるクレイオスを、オネイロスが取り成した。そしてその腕に座したまま、ノアが会話に割り込むようにして発言を始めた。
「お父様、そしてオネイロスも……聞いて下さい。私は彼の地で、偶然から彼らを無力化し、感染前の姿に戻す方法に気付いたのです」
「の、ノア様! いけません、あれは……」
「クレイオス! ……お続けください、ノア様」
ノアが何を言おうとしたのかを察したクレイオスは、その手段が如何に危険であるかを知っていた為、それを他の者に知られる事を恐れていたのだ。だが、ノアが自ら語り出してしまった以上、彼にはもうそれを抑止する手立ては無かった。
「私の手に傷を付け、その血を浴びた者が、人間の姿に戻って意識を取り戻したのです。恐らく、私の血には治癒効果があるのではないかと思われるのです」
「それは! ……つまり、神の血液であれば効果があるという事に?」
「いえ、オネイロス様。それはありません。現に、私の血では蟲は元に戻る事はありませんでした。恐らく他の誰が試したとて、結果は同じになるかと」
むぅ……と、オネイロスは考え込んでしまった。解決の手段は在る、しかしそれはあまりに危険な行為。如何に女神とは言え、ウーノ全域に散布する程の血液を持っている訳ではない。そして、僅かに採取した血液を培養し、増量する事も恐らくは不可能。つまりその解答は、犯してはならぬ禁断の方法であると、ノア以外の全員が考えていた。だが、ここでノアが思わず叫んだ。
「お父様! 他に手立てが無いのなら、私はウーノへ参ります!」
「ならぬ!! ……それだけは、まかりならぬ。人類なぞ、命を賭してまで救う価値は無い……増して、お前は女神。なくてはならない存在なのだ。軽率な行動は許さぬ」
「しかし、お父様!」
「クレイオス! ノアの監視を命ずる。決して行かせてはならぬ」
「御意!」
「お父様!!」
ノアは必死に抗議を続けたが、ガイアは聞き入れなかった。そしてオネイロスがクレイオスに、ノアと共に下がるよう命ずると、彼は最敬礼の後に踵を返し、退室して行った。未だ抗議を続けるノアをその腕に乗せたまま……
「ガイア様、警戒を厳に。ノア様はお優しい……いや、優し過ぎるお方です。必ずや隙を衝き、ウーノへと向かうでしょう」
「……ノアを離れに移せ。そして周囲を結界で固めるのだ」
「御意に」
その命令は即座に実行に移され、ノアは別館へと移された。そしてその周囲には結界が張られ、更にその外周をティターンが覆い固めるという徹底した措置が取られた。そしてその措置は、ウーノが壊滅するまで続くように思われた。が、しかし……
**********
オネイロス付きの侍女であるナパイアは、彼の指示によって離れに食事を運んでいた。それは外出を禁じられ、厳重な監視のもとに置かれたノアの為に用意された物であった。
「止まれ!」
「オネイロス様の命により、ノア様にお食事をお持ち致しました」
「失礼、中身を改めさせて貰う……宜しい、通りなさい」
ペコリと頭を下げつつ、食事一式が載った巨大なトレーをフワフワと浮かべながら、彼女は入り口を通過して行った。首からオネイロス直筆の通行証を提げているお蔭で、彼女の周囲のみポッカリと穴が開いたように結界が開き、彼女が通った後にまたスゥッと穴が閉じた。徹底した警護体制であった。尤も、警護とは名ばかりの幽閉である為、建物の周囲を囲うように配置されているティターン達は皆、心苦しく思っていたようだ。
そして数十分が経過したであろうか。そろそろ食事も終わるであろうという頃、ナパイアがトレーをフワフワと浮かべながら結界を通り抜けて出て来た。正面を警護するヒュペリーオーンのチェックを受け、彼女はまたペコリと頭を下げて去って行った。
(ウーノはどうなるのだろう?)
(分からん。ただ、ガイア様があまり積極的でない事は明白。ノア様としては辛いところであろう)
ヒュペリーオーンとオーケアノスが思念波で対話をした。肉声で話すには些か距離がある為の措置だが、それでも互いの姿が目視できる程度の距離である。と、そこへ……
「……!! ……!!」
「な、何!?」
正面の入り口からノアの衣服を着た誰かが出て来て、結界を内側から叩いていた。内側からの声は遮断されるため何を言っているのかは分からなかったが、ノア本人では無い事は明らかだった。そしてヒュペリーオーンがその顔を確かめると、何と中で叫んでいるのは、先刻食事を運んで来た侍女・ナパイアであった。
急いで結界を部分的に解き、ナパイアを外に出して事情を伺うと、ノアは食事には一切手を付けようとせず、一心に祈りを捧げていたという。それを見て彼女の身を案じたナパイアはそっと背後から近づき、どうか一口だけでもと食事を勧めようとしたのだが、その瞬間にスッと意識が無くなり、気が付いた時には通行証と衣服を奪われていて、ノアの姿はどこにも無かった……という事であった。
「では! 先刻通過したのがノア様、という事に……」
「け、警報を! 急ぎオネイロス様に報告し、ノア様をお探しするのだ!!」
ティターン達は、もぬけの殻となった離れを放棄し、総出で捜索に出ようとした。しかし、その時!
「えぇい、狼狽えるな!! 栄えあるティターン族ともあろう者が、見苦しいぞ!!」
クレイオスの一喝が、騒然となった一同を瞬時に静まらせた。だが、いち早く我に返ったヒュペリーオーンが、クレイオスに詰め寄り、意見をし始めた。
「クレイオス隊長! 事は重大です、早急に手を打たねば手遅れに……」
「侍女を一人で通した時点で、既に手遅れだったのだ。しかし……フッ、可愛いお顔をして、やる事は大胆……畏れ入る」
「隊長、そんな悠長な!」
「……ヒュペリーオーン、一個小隊を率いて追討に出よ。ノア様の行く先は分かっている筈だ、追えるであろう。オーケアノス、オネイロス様に御報告を。なるべく事を荒げぬよう、内々にな。私はヒュペリーオーン隊の殿に付き、迫り来るであろう追っ手を阻む!」
はぁ? とティターン達は首を傾げた。ノアの行動を抑止する為であれば、人手は多い方が良い筈。なのに……と。しかし、彼は分かっていたのだ。最早ノアは誰が制止してもその決意を曲げる事なく、自らの意思を貫くであろう事を。そして、彼女がその気になれば、下級神である自分達など、束になって掛かっても歯が立たないであろう事を……つまり、ヒュペリーオーン達の役目はノアを捕える事では無く、逆に彼女を護る事だったのだ。
そして、その事を全員が納得すると、彼らは『一族の名に懸けて!』と一致団結、行動に出たのであった。
**********
「……ここまで来れば、もう擬態は解いても良いでしょう」
エレクティオンの監視網が届かない位置まで『潜って』移動して来たノアの姿が、星空に浮かび上がった。彼女は自らの身体を粒子化し、監視の網を難なく擦り抜け、ここまで泳いで来たのだ。ゲートを開けば一瞬で移動できるが、その時に発する念波を捉える事は下級の神や天使ですらも出来るので、その時点で発見されてしまう。だから移動時間と引き換えに、確実な結果が得られる手段を選んだのだ。
「急いだつもりですが、それでも結構な時間が経過している筈ですね……」
エレクティオンは人間界とは違う次元に存在する為、物理的な移動時間は基本的に発生しない。時空間を捻じ曲げて目的地の目の前まで『エレクティオンの方から』接近するので、ゲートを開けばそこが目的地となるのだ。だが彼女はそれをせず、時空の波間を泳いでやって来た為、エレクティオンの外郭を抜けてから此処に到達するまでに、人間界の時間に換算して約百年の時を費やしてしまったのだ。
「さあ、此処からなら一気に飛んで行ける……急がなくては!」
「お待ちください、ノア様」
「……!! まさか、待ち伏せを!?」
先程のノアのように、姿を消して待機していたヒュペリーオーン達の姿が次々と浮かび上がった。そして彼らは瞬く間にノアを包囲してしまった。
「如何に姿を晦まそうと、入れ替わった後の侍女を見れば何が起こったかは直ぐに分かります。そして、何の為にそうなさったのかも……」
ここまで来て……と、ノアは唇を噛んだ。しかし、ウーノを救えるのは自分のみ。ここは力ずくでも突破せねば! と、彼女は胸元に手をかざし、印を唱え始めた。波動を繰り出し、強引に道を開くつもりなのだろう。
「ノア様、それには及びません。我々は決して、邪魔立てをする為に此処に潜っていたのではないのです」
「え……?」
「失礼……御覧を」
「これは……いつの間に!」
「失礼ながら、ノア様は戦いに関しては素人でいらっしゃいます。このように『紐』を付けられても、お気付きにならない……」
まさか、完全に姿を晦ました筈……と、ノアは戦慄した。いつ、何処でマークされたのか。背中にしっかりとマーカーを付けられていたのだった。
「迂闊でした……しかし、こうして居所が知れていながら、追っ手が来ないのは何故なのです?」
「……クレイオス隊長が、自ら盾となって……」
「……!!」
無念の涙を浮かべるヒュペリーオーンが、絞り出すようにそう答えた。そして、それを聞いたノアは、なんて事を……と顔を青ざめさせた。しかし……
「ノア様! 立ち止まっているお暇は無い筈です。追っ手は間もなく此処に到達します。我らが壁となっている間に、お早く!」
「しかし、それでは!」
「クレイオス隊長のお気持ちを、無駄になさるおつもりですか!!」
「……!! 分かりました、必ずウーノは救ってみせます」
「行ってらっしゃいませ、ノア様」
ニコリと笑うヒュペリーオーンと、四名のティターン達。ノアは彼ら全員と握手を交わすと、コクリと頷いた。それは自分がゲートを開く間、念派で隠してくれと云う無言の願いだった。やがて開いたトンネルの向こう側にウーノの青い輝きが見えると、ノアはその中を潜って姿を消した。彼ら五人のティターンがその後どうなったのか、それを知る者は誰も居なかった。
**********
雲の合間から下を覗くと、そこは城の上だった。以前来た時とは場所が違うのか、見覚えの無い景色だった。だが、変わらないのは逃げ惑う人々とそれを追う蟲たちだけ。その蟲を、剣を携えた騎士たちが食い止めていた。
「衣服の作りも、だいぶ変わっている。やはり永い時が経ってしまったのね」
哀しげな顔を一瞬だけ見せた後、ノアは天界と人界の狭間で戦っているティターン達の事を思い出し、表情を引き締めて両の手首を自ら傷付け、鮮血を掌に溜めた。それを金色に輝く風に乗せ、城を中心とした広範囲に拡散させた。すると、騎士たちと対峙していた蟲たちが、瞬く間に元の人間へと戻って行った。それをノアは、やはりあの時見た事は幻ではなかったのだ……と、使命感に燃えた瞳で見ていた。
「い、今のは何だ?」
「蟲どもが、元の姿に……お、おい! あれを見ろ!」
「あ……あ!? 飛んでいる……いや、降りて来ているんだ! 女神様が助けてくださったんだ!!」
騎士たちは空を見上げ、金色に輝くノアの姿を見て一斉に跪いた。それもその筈、ここウーノでは神への信仰が極めて強く、どのような貧しい家にも神像だけは必ずあるという徹底ぶりだったのだ。そんな世界へ本物の女神が降臨したのだから堪らない。人々の興奮は一気に頂点へと達し、ノアを称賛する叫びが地上に溢れた。が、それを邪な目で見詰める一団があった。
「今のを御覧になられましたか!? 陛下!」
「……直ぐに捕えるのだ。但し民の目がある、誘拐に見える素振りは避けよ」
「ハッ! 直ちに!」
城のバルコニーから一部始終を見ていた、豪奢な衣服に身を包んだ口髭の男性。見た目は穏やかな紳士なのだが、歪んだ口許がそれを否定していた。かくて、彼の指示で組織された近衛隊と、それに護られた大臣を乗せた馬車が騒ぎの中心へと向かっていった。蟲化から解放され、体力を消耗していた民に力を与えていたノアがその一団と共に姿を消したのは、それから間もなくの事だった。
**********
「ここは……?」
「当マーキュリー王国の王宮で御座います。先の神風を御覧になった国王陛下が、是非お力をと」
「そのようなお約束をせずとも、私はこの国……いえ、全ての人々を救おうと考えております」
「まあ、そう仰らず……貴女をお連れしなければ、私は処刑されてしまいます。どうか助けると思って」
必死に食い下がる大臣を見て、この人は嘘をついてはいない……本当に命令に従っているだけなのだという事を、ノアは即座に見抜いていた。事実、大臣は頻りに汗を拭いながら、カチカチと歯を鳴らして小刻みに震えていた。もし此処で馬車を降りてしまえば、彼は本当に罰を受けてしまうだろう。そう考えると、無碍にする事は出来なかったのだ。
やがて城門を潜り、一行は玉座の前へと歩を進めた。そこには、数名の侍女と側近に周りを護らせた男が座していた。その男からは、先程の大臣とは違う……禍々しい『気』が感じられ、ノアは思わず戦慄した。
「エインズワース! 大儀であった、下がって良い」
「ははぁ!」
朱色の衣服を纏った銀髪の男性は、深々と最敬礼をすると踵を返し、いま来た道を戻って行った。擦れ違いざまにノアに会釈をすると、彼は一瞬だけ悲しそうな目を彼女に向け、去って行った。
「名を聞こう」
「物を訪ねる時は、まず御自分から名乗りを上げるのが筋ではないのですか?」
いきなり横柄な態度に出る目の前の男に対し、ノアは毅然たる態度で応じた。だが、男はそれでもニヤニヤと薄笑いを浮かべ、悪びれた様子すら見せずにノアを見下ろしていた。人間が神を見下ろす……在り得ない光景がそこで展開されていた。
「これは失礼。余はコンラッド・ルーク・サザーランド、この国の王である」
「ノアと申します。サザーランド国王陛下、お話は車の中でお伺い致しました。私は貴方とのお約束なぞ無くとも、全ての民を救って……」
「ほ? 誰が全ての民を、等と? 余が望むのは王族と、それに準ずる貴族階級の安全だけ。下々の者なぞ、どうでも良い」
「なッ……!?」
その言葉は一瞬でノアを激高させた。優しい心根を持つ彼女を言葉一つで、しかもここまで怒らせる事は、そうそう出来る物ではない。だが、目の前の男はそれをいとも容易くやってのけた。それほど彼の発言は悪意に満ちていたのだ。
「……冗談ではありません、民は全て平等であるべき。仮にもその民の頂点に立つ貴方が、そのような物言いを……信じられません! 私は不愉快です、帰らせて……」
ノアの言葉はそこまでで遮られてしまった。近衛兵の一団が一斉に長槍を彼女に向け、そのうちの一本は確実に喉元を捉えていたのである。
「如何な女神とは言え、王宮の中では余には逆らえぬ。余計な事は考えぬ方が身の為であるぞ?」
「このような囲みなぞ、容易く排除できます。それに、私に血を流させれば、それだけ助かる人も少なくなるのですよ?」
「ノア殿、貴殿にその囲みを除く事は出来ぬ。力を以て排除すれば、槍を構える衛兵が傷付く……貴殿にそれが出来るかな?」
「ぐッ……!」
図星を衝かれ、ノアは返す言葉を失った。そして更に、彼女は致命的なミスを犯している事に気付いていなかった。
「傷を付けずに、地下に閉じ込めよ! ……そうか、そなたの血が……成る程、それは丁重に扱わねばならんのう。ククク……あーっはっはっは!!」
高笑いを上げるサザーランドをキッと睨み付けつつも、上肢を拘束され自由を奪われたノアに、反撃の手立ては無い。そうして彼女は捕えられ、時折、無理矢理に血を搾取される日々が始まったのである。
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石で作られた床と壁、粗末なベッドに薄い毛布。そして通路との間には鉄格子……女神の力を以てすれば、このような原始的な障壁はいとも容易く飛び越え、脱出する事が出来る。誰も傷付けず、外に出る事は簡単なのだ。だが、それが出来ない理由があった。彼女をここまで連れて来た大臣、エインズワースの首が掛かっているからである。こうして見えない鎖に繋がれ、ノアは狭い窓から天を仰ぐ毎日を過ごしていた。時折聞こえて来る、騎士たちの『女神の血は非常に高価で、自分たちにはとても買える物ではない』といった会話に胸を痛めながら……
そして今日も血を採られ、青白い顔になりながら二人の騎士に連行されて地下牢に戻って来たノアは、途中でボロボロに傷付いた少年を拘束し、連行して来る騎士の姿を認めた。
「そこの少年! どうしたのです? そんなに傷付いて」
「……お人好しの女神様、か。アンタの方こそ大丈夫なのかい? そんなに青い顔をして」
「控えよ、ウィル!」
その叱咤と同時に、銃剣の台尻で頭を殴打されるウィルと呼ばれた少年。年の頃は五~六歳と言ったところか、何故そのような年端の行かない少年がこのような場所に囚われるのか、それが引っ掛かったが……それよりノアにとっては、目の前の騎士の横柄な態度が目に余り、思わず声を荒げた。
「おやめなさい! それが民を守るべき、騎士の行いですか!」
「罪を犯した者に、年齢は関係ないのですよ」
騎士は冷たく言い放つと、彼をノアの牢獄の正面に閉じ込め、去って行った。こうしてひょんな事から話し相手を得たノアは、今までの寒く寂しいだけの生活にポッと火が灯ったような気持ちになっていた。
向かい同士の牢獄に入れられた二人は、最初のうちはノアの空回りで時間を浪費した。しかし突っ張っているとは言え、相手は少年。心を開かせるのにさほど時間は掛からず、次第に打ち解けて行った。
「では、貴方はあの王の甥……それが何故、このような扱いを?」
「母ちゃんが、平民の男と駆け落ちしたからさ。お蔭で王族から追放された、俺はそう聞いてる。だから王宮の連中を見ると腹が立つのさ、それで警備の騎士に石をぶつけてやったのさ。そうしたら、コレだよ」
そう言って、ウィル少年は背中を捲り、青痣となった傷跡を晒した。宙吊りにされ、竹の鞭で叩かれた跡だという。
「……っと、俺はすぐに出られるだろうけどよ、アンタはどうなるんだい、女神様」
「ノアでいいわ、少年。私は大丈夫、見た目より強いのよ?」
「その、少年……ってのは止めてくれ。ウィルって言う名前がある」
「あ、あら、御免なさい。じゃあ、ウィル君でいいかしら?」
「……少年、じゃなきゃ何でもいいよ」
極上の笑みを向けられ、ウィルは思わず頬を紅潮させてしまった。ノアの微笑みは、これから思春期を迎える少年の淡い異性への憧れに、いとも容易く火を点けたのであった。
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捕えられて、七日が経過したその夜。ウィルは向かいの牢をずっと見ていたが、ノアは遂に朝まで戻って来なかった。そして明け方、微睡の中を泳いでいると、ガチャン! という金属音がして、その後に革靴が石廊を叩く音が木霊した。彼が漸く重い瞼をこじ開けると、そこには背を向けた格好のノアが居た。彼は思わず彼女に声を掛けた、が……
「見ないで! ……今の私は汚れているの……お願いだから見ないで……」
「な、何が一体……どうして泣いてるんだよ、ノア!」
その問いに、彼女は応えなかった。それから三日間、ノアはずっと塞ぎ込んだ様子だった。その様はとても女神とは思えない、まるで檻に入れられた子ウサギのようだった。
やがてウィルは十日間の禁固刑を終え、釈放されて行った。そして一年あまりが過ぎ、騎士に暴言を吐いて再び捕えられたウィルが投獄された時、やはりノアはそこに居た。だが、その手には赤子が抱かれていた……
その日から更に五年の月日が流れた。十二歳となったウィルは騎士団に志願、その類い稀な運動神経と打たれ強さを買われ、見事に合格して最年少の騎士となった。あれだけ騎士を嫌っていた彼が何故この道を選んだか、それは至極簡単な理由だった。蟲を倒せばノアが血を捧げる理由も無くなる、ただそれだけの事だった。『惚れた女を護りたい』という、男の純情だったのだ。
しかし、間もなく王族に近しい貴族達にも蟲化の波が押し寄せ、動転したサザーランドは一気に多量の血をノアから搾取した。それが原因で彼女が息を引き取ったのは、その日の夜の事だった。報せを聞いたウィルは悲嘆に暮れ、程なくその感情は激怒へと変化した。この手でサザーランドの首を跳ねてやると叫んで剣を携え、王の間へと向かう途中で仲間によって取り押さえられ、危うく処罰を受けて除隊処分になるところを回避できたのだった。
だが、そこにもう一人、静かに怒りの炎を燃やす少年が居た。そう、ノアの愛息──ランスロットである。彼はその時五歳の少年、何の力も持たない弱い立場だった。しかしその心の奥底には、サザーランドに対する憎悪の炎が確実に灯っていたのである。
その日から十二年の月日が流れ、奇妙な縁で結ばれた二人の少年は共に成長していた。ウィルはその力を以て騎士団の団長にまでのし上がり、立派な青年となっていた。そしてランスロットは……亡き母の遺志を継ぎ、血を捧ぐ事で民を護る役を、自ら引き受けていたのだった。
**********
「いいよ、一人で大丈夫だから」
そう言って、ランスロットは単身で城下に出た。紺碧の青空に浮かぶ太陽。これだけを見れば、至極平和な街並みであった。が、一瞬の油断が命取りとなる危険な街……いや、その脅威は星全体に及んでいるのだ。
「段々、酷くなるね。僕の血だけで何とか出来るか……いや、やらなきゃいけないんだね、母さん」
「無茶はいけないわ、ランス。私のようになってからでは……危ない!」
「……!?」
油断だった。完全に頭上を取られた形で、蟲が降って来た。この体制からでは防御も出来ない。結界を張っている暇もない。万事休す、であった。が……真上から襲って来た筈の蟲は彼のやや前方に落下、その体からは薄く煙を引いていた。
「騎士の銃……? 違う、音がしなかった」
「ボーっと歩いているからだ、その立派な装備が泣くぞ」
未だ、何が起こったか理解できずにいたランスロットの背後から、突然掛けられたソプラノボイス。ハッと振り向くと、そこには見慣れぬ装備を携えた少女が立っていた。甲冑とドレスを合わせたような居出立ちの彼女は、その装備を脚に付けたホルダーに収めると、ゆっくりとランスロットに近付いて来た。
「怪我はないか」
「た、助かりました。危ないところを有難うございます」
「礼には及ばない。ところでそなた、王宮の者か?」
「え? あ、あぁ、はい」
ふん……と鼻を鳴らし、少女は背を向けた。ランスロットはそんな彼女に、慌てて声を掛けた。
「あ、あの! 助けていただいたお礼がしたいので、一緒に来ていただけませんか? 僕はランスロット・パロ・サザーランドと申します。一応、国王陛下の縁者です」
「礼には及ばぬと言った筈だが……王の縁者だと言ったな? 私はエトワール、流浪の戦士だ」
長い髪をなびかせ、エトワールと名乗る少女は振り返った。彼女の目はまるで射抜くような鋭い視線でランスロットを見て、やがて同行を承諾した。だがその時、ノアは彼女がただならぬ雰囲気を纏っている事を、瞬時に見抜いていた。
(彼女、ウーノの子じゃない。この雰囲気、この独特な匂い……確か何処かで……)
記憶を手繰り寄せるが、直ぐに思い出す事は流石のノアにも無理だった。だが、程なくして彼女は気付く事になるのだった。少女──エトワールが、嘗て視察に赴いたノーヴェからの移民である事に……
「ランスロット様、其方のご婦人は?」
「僕の恩人です。蟲に襲われ掛けたところを、助けていただきました」
「それは失礼致しました!」
その声と同時に、城門を守護する衛兵の銃剣が定位置に戻り、道が開かれた。直立不動となった衛兵に労いの言葉を掛けると、ランスロットはエトワールを誘導しながら城内へと入って行った。
「そなた、かなり高い位を持っているな?」
「いやぁ、単に王族の血筋だから優遇されているだけです。僕が偉い訳ではありません」
サラリと言ってのけると、ランスロットは侍女を呼び寄せ、エトワールを歓待するよう頼んで、自分はそのまま国王の元へと向かった。エトワールと云う『外部の者』を城内に招き入れた事は、既に情報として国王に伝わっている筈。ならば、此方から報告をして先手を打っておかねば、後々厄介な事になるからである。
「直ぐに参ります、少々お待ちください。お食事の用意をして貰うよう、お願いして来ますから」
ランスロットはあくまで本当の用事は伏せて、にこやかに振る舞った。だが、いきなり別室へと通されたエトワールは動揺した。歓待など求めてはいないし、王宮に招かれた事自体が彼女にとってはイレギュラー。全くの想定外だったのである。
**********
王の居室前には、当然の事ながら衛兵が立っている。彼ら衛兵は基本的に国王や高位の者を警護する為の近衛隊であり、国軍に相当する騎士団とは一線を画する存在である。なので、ランスロットは何故彼がそこに立っているのか、それが不思議でならなかった。そう、二人いる衛兵の片方が、何故か騎士団長であるウィルだったのだ。
「ウィル、何でこんな所に?」
「んー? エリート部隊も生理現象には勝てねぇ、って事さ。たまたま通り掛かったんでな、代わってやったのさ……お前こそこんな所に何の用だ?」
「ああ、お客さんをお連れしたからね。陛下にご報告しておかないと」
「あー? 客だぁ?」
そう声に出し、ウィルは怪訝な顔になりながら、扉を潜るランスロットを見送った。と、丁度そこに彼と交代していた衛兵が戻って来たので、御苦労さん! と一声かけてその場を後にした。そして小走りに脱出用通路を逆に伝い、玉座の裏側に出て息を潜め、国王とランスロットのやり取りに耳を傾けた。虫の知らせ、とでも言おうか。余程の事が無い限り、ランスロットの方から王の間に向かう事は無く、いつも『呼び付けられて』あの扉を潜るのが常なのに、何故? と思ったのである。
耳を澄まして様子を窺うと、丁度ランスロットが王への挨拶を終えた所だった。その後に、ウィルにとっては聞きたくもない声が木霊した。
「聞いておる、命を救われたそうだな」
「はっ、面目ありません。一滴の血も無駄に流す事を許されないこの私とした事が、迂闊でした」
「自覚しておれば良い。そちの血一滴は、巨万の財宝以上の値打ちがあるのだ。それを忘れてはならぬ」
「心得ております、陛下。して、その恩人を城に招きまして御座います。謝礼として歓待したいので、お耳に入れておこうと思い参上致した次第で御座います」
ここまでの話を聞いて、ウィルは反吐が出そうになるのを必死に堪えていた。全身に鳥肌が立ち、思わず漏れそうになる声を懸命に抑えた。何でアイツはあんな奴にヘコヘコできるんだ、あの媚び諂った口調は何なんだ、と。
「ふむ……良かろう、認める。但しランスロット、そちは我が実子にあたるが、所詮は非嫡出子。妾の子なのだ。サザーランドの姓を与えているのは王宮への出入りの際に不自然でないようにする為の措置に過ぎぬ。分かっておるな?」
「ミドルネームに頂いた『パロ』は、王族に非ずという意味。その事を忘れてはおりません」
「宜しい。もう良い、下がれ。客をあまり待たせては失礼になろう? 増して相手はそちの恩人。無礼があってはならん」
「ははっ! 失礼致します」
ランスロットは最敬礼をした後、スッと踵を返して玉座を後にした。それを確認したウィルは、また急いで脱出用通路を伝って先回りし、人気のない廊下でランスロットを待ち受けた。
**********
「どうしたんだいウィル? 急いでいるんだけど」
「どうもこうもあるか! 何だ、あのヘコヘコした態度は!」
「……盗み聞きとは行儀が悪いね。僕のあの態度? 相手は国王陛下だ、当たり前の対応だろ? 謁見するのに事前の申し入れが不要なだけ、凄いと思って貰いたいね」
シレッと言い放つランスロットを見て、ウィルはいよいよ堪忍袋の緒が切れるのを自覚した。ただでさえ許し難い存在であるあの男に対し頭を下げる時点で既に腹立たしいのに、あそこまで罵られ、間接的にノアをも侮辱したあの言葉を聞いてどうして笑っていられるんだ! と。
「お前……自分があの男に何をされているか、本当に分かっているのか!?」
「されているんじゃない、僕が僕の意思でやっている事だよ。だから、周りにとやかく言われる筋合いじゃない。放って置いてくれないか?」
「……ッ!!」
さも面倒臭そうに答えるランスロットの襟首を掴み、ウィルが食って掛かった。その拳は固く握られ、確実にランスロットの頬を捉えていた。が、しかしその時! 信じられない事が起こった。
「やめてえぇぇ!!」
「……!?」
懐かしい声。ウィルにとって、永遠に失ったと思っていた愛しい人の声。それが何故聞こえる……? と、彼は思わず周囲を見回した。すると……
「お願い、やめてウィル……乱暴はやめて」
「ノ・ア……? ノアなのか!?」
「ウィル……? 見えるの? 私が見えるのね!?」
うっすらと透けてはいたが、その姿は確かにノアだった。ウィルは何度も何度も目を擦り、名前を呼んで確かめた。あの日と全く変わらない、美しいその姿で……彼女は潤んだ瞳で自分を見詰めていた。二度と会えないと諦めていた彼女が、すぐそこに居た。信じられない光景ではあったが、紛れもない現実だった。
「ノア……そっか、神様だもんな。死ぬ訳がないんだよな」
「貴方に触れられる肉体は、滅んでしまったけれど……ごめんなさい、生きている事を告げる術が無かったの」
お互いに目を潤ませながら、二人は対峙した。ランスロットに対する怒りも何処へやら、ウィルは慌てて涙を拭いながら笑顔を作っていた。
(へぇ……奇跡って、あるものなんだなぁ。これは安くないね、母さんにウィル……おっと、この隙に!)
ノアとウィルが感動の再会に喜んでいる隙を衝き、ランスロットはまんまと抜け出して、エトワールが待たされている貴賓室へと急いだ。
**********
「お待たせして申し訳ありません、国王陛下に……どうなさったのです?」
貴賓室では、エトワールが窓辺で爪を噛みながらウロウロしていた。テーブルにはキチンと食事が用意され、飲み物のボトルを用意したボーイも出番を待っていた。なのに何故彼女は席に着かないのだろうと、ランスロットは不思議に思ったのである。
「お、遅いではないか! わ、私は、その……こういう席が苦手なのだ、落ち着かなくて敵わん」
「あー、お気に召しませんでしたか。済みません、もう少しフランクな食事に変えてください」
エトワールが落ち着かずにいる理由が『食事の好みが合わない所為』かと勘違いをしたランスロットは、ボーイに声を掛けて、メニューを変更するよう頼もうとした……が、どうやらそうでは無いらしい。
「そ、そういう意味ではないのだ! だ、だから礼は要らぬと……私は、そなたに話があって、その……済まないが、人払いをしてくれるか? 注目されるのは、ちょっと苦手なんだ」
「は、はぁ、そういう事でしたら……済みません、皆さんは外していただけますか?」
人前が苦手なのか、と漸く気付いたランスロットは、食事を下げると同時に部屋を空けるようボーイやメイドに指示を出した。いや、指示を出した、と言うよりは『お願い』に近いニュアンスであったが。
「た、助かる。それから、その……」
「何でしょう?」
「その、むず痒くなるような喋り方もやめてくれ。話し辛くていけない」
その言葉に、ランスロットは思わず目を丸くした。然もありなん、初対面同士、しかも相手の方が今のところ立場的に優位を占めるので敬意を表してこの言葉遣いにしていたのだが、それを否定されたのだから。
「喋り方、って……恩人に敬意を表するのは当然の……」
「私は蟲退治をしただけだ! たまたま、その下にそなたが居たに過ぎん」
はぁ……と、何故か丁寧口調や折り目正しい態度を敬遠しながら言葉を紡ぐエトワールに、ランスロットは『訳が分からん』といった感じの表情を向けるが、やがてパッと両手を広げ、胸を開く格好でニッコリ笑い、改めて問い掛けた。
「そういう事なら……これで良いかい? エトワールさん」
「……まぁ、良かろう。まだ少し尻の据わりが悪いが、やむをえん」
「で? 僕に何か話があるような口ぶりだったけど」
「そなたは先程、蟲に襲われ掛けたが。あんな事がしょっちゅうあるのか?」
「え? あ、うーん……いきなり上を取られたのは初めてかな。外を出歩いていて、蟲に遭わない日は無いけど」
そこまで聞いて、エトワールはまたも唸り始めた。何が訊きたいのか、何を知りたいのか。それが分からないランスロットは、どうする事も出来ずに次の発言を待っていた。
「確か、この国には蟲に対する特効薬があると聞いてやって来たのだが……それらしき物を見た事が無い。ただの噂話だったのか?」
「特効薬って、それ……何処で聞いたの?」
「山を越えた向こうの、小さな国でな。宿を貸してくれた老夫婦に聞いたんだ。天から神様が降りて来て、金色に輝く風を振り撒いたら、蟲たちが人間になった、と……いや、信心深いご夫婦だったからな、神話と現実を取り違えていたのかも知れん」
山を越えた……って、ただの山じゃないぞ、山脈だぞ!? と、ランスロットは驚愕の表情でエトワールを見た。その華奢な身体の何処に、そんなスタミナがあるんだ? と。しかし、その発言より更に衝撃的な回答が、逆にエトワールを襲った。
「どうやって山を越えて来たかは、まぁ問わないとして。その話はいつ頃の話だか、訊いたかい?」
「かれこれ二十年ほど昔の事らしいが……何か心当たりがあるのか?」
「それは多分、僕の母さんの事だと思う」
「……は!?」
サラッと言い放たれたその一言に、エトワールは思わず固まってしまった。然もありなん、女神降臨の話をしたのに、返って来たのは『母さん』と云うキーワード。これで驚くなと言う方が無理である。
「そなた、今……何と?」
「だから、それは僕の母さんの事だよ、って」
「ば、バカも休み休み言え! 世界中の何処を探したら、本物の女神に会えるというのだ! 大体、今の話が本当なら、そなたは……」
そこまで言い放った直後、エトワールは言葉を失った。彼女の目の前で、信じられない光景が展開されていたからだ。何と、窓の外を一瞥し、かざされたその手から金色の光が放たれ、その光が当たった雲がスッと晴れて、光が差しこんだのだ。
「驚く事は無いでしょ、女神の子なんだから。このぐらいは出来るよ……尤も、半分は人間なんだけどね」
「お、驚くな、だと……? む、無理を言うな!」
見れば、エトワールはすっかり驚いて腰が砕け、その場にへたり込んでいた。彼女も良くその体の強靭さと、ウーノには無い強力な装備で驚かれる事はあるが、今の光景は『驚く事は無いでしょ』で済むレベルではない。もはや次元が違っていた。
「君が見たという女神の姿は、たぶん母さんが二度目にこのウーノにやって来た時の事だと思う。一度目は手立てが分からずに敗走したって聞いてるから」
「ウーノ、という名を知っている……? そなた、やはり……」
「だから言ったでしょ、女神の子だって」
ニコッと笑みを向け、ランスロットは未だへたり込んだままのエトワールに手を差し伸べた。が、彼女は何故か赤面しながら『一人で立てる、子供扱いするな! 年下のくせに』と言ってプイとそっぽを向いてしまった。最後の一言が少し引っ掛かったが、童顔のお姉さんなのかな? と強引に納得し、彼はまた笑顔に戻った。しかし、またも何か考え込んでしまったエトワールを見て、思わず肩を竦めるのだった。
**********
「なん……だと!?」
「だから、君が言っていた『特効薬』の正体は、母さんと……その子である僕の血なんだよ」
ランスロットが神の子である事で驚いたその直後、エトワールは更なる衝撃的な事実を知って愕然とした。まさか、探し求めていた秘薬の正体が、神の血であったとは……と。しかも、他の神では駄目で、神の長ガイアの子孫であるノアとランスロットに、その力がある……逆に言えば、ノア亡き今、その役を請けられるのは、ランスロットただ一人だけという事になる。更に、聞けば女神ノアは国王サザーランド十六世による血の搾取を受け、辱めを受けて死んでいったと云うではないか。そんな男に媚び諂い、敢えて縋る意味が分からないと、エトワールは憤慨した。
「聞けば聞くほど、愚劣さが浮き彫りになるだけではないか! そんな男に長を任せるなど、民は一体何を考えているのだ!?」
「そう言わないで。父は……陛下は民の為、自ら進んで汚名を被っているんだ」
「実の子の血を抜き取り、高価で取引する男を庇い立てするのか? そなたは!」
「人が何と言おうと、僕にとっては親なんだ。味方になるのは……」
と、そこまで口に出し掛けた時、ドアがノックされランスロットは侍女から問い掛けを受けた。晩餐の支度をどうするか、という質問であった。そのような事で大事な話を……とエトワールは益々憤慨したが、反対側のドアから彼女を呼び寄せる人物があった。ウィルである。
「……そなたは?」
「アンタが奴を助けたって話を、小耳に挟んだんでな。俺は奴のお守り役で、ウィルって言う。宜しくな」
突然、眼前に現れて気さくに話を始める男に一瞬警戒したエトワールだったが、ランスロットと近しい仲の者と名乗る以上、怪しい人物では無かろうと思い直し、自らも自己紹介を始めると共に、今の会話の率直な感想を述べ始めた。
「エトワールだ……あの男は一体、何を考えているのだ? やっている事はただの自己犠牲、しかも国王の私利私欲を助長しているだけではないか」
「バカ正直が服を着て歩いているようなもんさ……という訳でだ。話を聞く限り、どうやら利害は一致するようだな。どうだ、この際手を組まねぇか?」
「手を?」
「ああ。奴の行動はかなり異様、危なっかしいにも程がある。で……俺としちゃあ、奴が国王の道具になったまま殺されるのを黙って見てるって訳には行かねぇし、アンタだって奴を守らなきゃ世界を救えない事が分かっただろ? ならば、やるべき事は同じになる筈だ」
その提案に対する回答を、エトワールは少々躊躇した。確かに彼を守らなければ、この星はいずれ破滅する。だが、目の前にいるこの男と手を結び、共同戦線を張る必要性が認められないのである。彼女には、もし必要に迫られた場合でも自分一人でランスロットを守り切れる自信があったからだ。よって、この件に関する回答は少し待って欲しいという事にして即答を避け、会話は一旦終了した。
「失礼、話の途中だったね……とにかく僕は、今この世界を救えるのは自分一人しか居ない事を良く知っている。そしてそれを有力者が牛耳って支配しなければ、我が身を守ろうとする者達によって僕は殺され、骨の髄までしゃぶり尽くされるだろう。それを防ぐ為に、陛下は敢えてあのような措置を取っておられるんだ。確かに母を殺された憎しみはあるよ。けれど、彼の存在が無ければ、僕は生きている事すら出来ないんだ」
その台詞が、何処まで本当なのかはエトワールには分からなかった。だが、全ての民が彼の血液こそが蟲化を防ぐ唯一の秘薬だという事を知っている以上、最高権力者である国王によってその存在を守られ、血液の搾取も管理された上で行われなければ彼は本当に殺されてしまうだろう。だとすれば、取るべき道はただ一つ。
「良く分かった。そなたは絶対に守らねばならない存在なのだという事がな……その役目、この私が担う」
「……え?」
「私はノーヴェからの移民者だ。遺伝子操作と、肉体の部分機械化で永久に止まらない心臓と、劣化しない細胞を手に入れた、不老不死の肉体を持った……な。だから、ここウーノの兵隊なんかよりは余程丈夫だ。ボディガードには打って付けだろう」
「あ、あの? ど、どうしてそういう話になるかなぁ?」
突然方向性を変えた話題に付いて行けず、ランスロットは狼狽し始めた。今は確か自分の事情と国王の立場に付いて説明していた筈。それがどうして『僕を守る』話に変わってしまうんだ? という事が分からなかったのである。そして更に、その会話に介入してくる男が居た。それが誰だかは、語るまでもあるまい。
「ふぅーん、何か見慣れない装備を付けてるし、ここの事情にも疎いと思ったら……まさか外国からのお客様だったとはねぇ。納得だよ、お嬢さん」
「……エトワールだ、先程名乗った筈だが?」
「洒落の分からねぇ嬢ちゃんだなぁ……まぁいい、これで事情は此処に居る全員が把握した訳だな。俺とアンタ、それにランスと……ノアがな」
「え? も、もう一人居るのか? ど、何処だ!? と云うか、ノア!? 先だって話題に出た、女神ノアか!?」
ウィルの台詞を聞いて、エトワールは思わず周囲を見回した。だが姿はおろか、気配すら感じられないその存在を、彼女に見付けられる筈は無かった。
「母さんはね、僕が小さい頃に国王によって大量の血液を搾取されて死んでしまった……それはさっき説明した通りだよ。けどね、今も僕の……いや、そこの彼、ウィルの傍に立っているよ。肉体を持たない精神体としてだけど」
「そ、それはもしや幽霊……!? じょ、冗談だろう? わ、私はそのような非科学的なモノは……」
「ちょ……どうしたの? 顔が青い、気分でも悪いのかい!?」
「そっ、そなたの所為だ!」
その台詞を聞き、ランスロットは『どうして?』と云う表情を作った。それを見たウィルとノアは思わず苦笑いを浮かべた。そしてエトワールは……その場にへたり込んでランスロットの脚に縋りつき、ふるふると震えていた。百戦錬磨の戦士である彼女の、意外過ぎる弱点がここに露見したのだった。
**********
ウーノの惨状を天界から覗いていたガイアは、人口密集地に蟲化の傾向が強い事実を既に見抜き、その理由が『細菌は人間にしか適合せず、他の動物には影響しない』事も理解していた。つまり、未開拓のジャングルや海洋などに生きる野生の動物には影響は無く、人間だけに被害が出るよう『人工的に』造られた物である可能性を示唆し始めていたのである。しかし、それが誰の手によって、何処で製造・散布されているのかは、神の長を以てしても分からなかった。
「すると、やはりあれは突然変異のウィルスである……と?」
「左様。染色体の形状によって感染するかどうかは決まります。恐らくは偶然、人間のみに適合する形の毒素が拡散した物かと」
オネイロスの発言に、アスクレーピオスが相槌を打った。だが、ガイアはどうにも納得が行かぬ、と首を捻るばかりであった。
「アスクレーピオス、そちは医師であろう? そのような病原体が人為的に造れるのかどうか、分からぬのか?」
「技術的に考えれば、可能では御座います。しかし、ウーノの文明レベルでそれが可能かどうかは……些か疑問で御座います」
「むぅ……」
その回答を受け、ガイアは再び思考の闇に落ちた。千年ほど昔に、辺境の星でバイオハザードがあった事は記憶にある。だが、それはウーノから遠く離れた惑星での事故。とてもこの二つの星に関連があるとは思えなかったのだ。それに彼は、ウィルスの蔓延も気に掛かったが、その阻止の為……いや、自らの安全を確保する為に愛娘ノアの命を奪い、その実子であるランスロットからも血を奪うという暴挙に出ている愚劣な男・サザーランドに対し激しい怒りを覚え、天罰を……と考えていたのだった。しかし、ガイアがその怒りに任せて力を行使した場合、惑星のみならずその恒星系ごと消滅してしまう危険がある為、オネイロス以下、仕える神々によって何とか宥められ、辛うじて平静を保っている状態だったのだ。
「ノアは何故動かぬ? 肉体を失ったとて、神である事に変わりはない。その力は生前と変わらず行使できる筈だが」
「畏れながら。ノア様は、心優しきお方。罪なき民を巻き込んでの現状打破を好まないのだと思われます。それに、ノア様には肉体が無い。つまり、病原体の浄化に必要な血液も無い状態。よって、手を出したくとも出せないのかと……」
「控えよ、オーケアノス! ……そのような事は分かっておる、しかし……解せぬ!」
ガイアに意見したのは、二十年前にノアがウーノへ向かうのを手助けし、追手を食い止めて力尽き、全滅したティターン族の生き残りである、オーケアノスであった。彼はクレイオスの命令で伝令を務めた為、ノアの護衛として出陣することができず、エレクティオンに残留する事となった。その後、亡きクレイオスの後を引き継いで、戦闘部門の長となっていたのだ。
「ふむ……オーケアノス、貴殿配下の一部隊を派遣し、人間に扮して戦わせ、感染者を減らす事は出来ぬのか?」
「充分、可能です。しかしながら、オネイロス様。そのような措置を実施すれば、ノア様が酷く悲しまれる事は明白。それに、感染源を絶たない限り、この連鎖は永遠に続くのです。武力による策略に、平和的な結果は望めません。ウーノへ使者を送り、状況を把握する事が先決であるかと」
「むぅ……よし、適任者の選抜を急がせよ」
「ははっ、直ちに!」
オーケアノスが口にした案は、とても戦闘隊の長とは思えない、極めて慎重なものであった。いや、戦い疲れた彼ならではの案である、と言い換えれば納得できるであろうか。ともあれ、蟲化の状況をより子細に把握し、的確な判断を下すため、改めて調査が行われる事となった。
**********
「んー……やっと非番か。三日間の休暇が終わったら、また七日間城に缶詰だからな。この機会にゆっくりと休ませて貰うか」
「私がお城に来た頃は、騎士の方も、もう少し緩やかな勤務だったと思うのですが」
「情勢が変わった、って事だろうな。蟲化の勢いもだいぶ強くなって来てるし、斬っても斬ってもキリがねぇよ、ったく」
出来れば、斬らずに解決して欲しい……それがノアの望みであった。しかし、退治する以外の手段が愛息の血による浄化しか無い以上、騎士団による対処も止むを得ない。胸が締め付けられる思いであったが、仕方が無い。それに彼らとて好きで蟲を斬っている訳では無い……それが分かっていたから、ノアも強く意見は出来ないのだった。
「さ、ここが俺の家だ。狭くて汚ねぇボロ屋だが、入ってくれよ」
はにかみながら、ウィルはドアを開けてノアを招き入れた。そしてダイニング兼リビングである、唯一の応接間に彼女を案内したのだが、そこで彼らは信じられない光景を見る事となった。既に身体の一部が蟲に変化している女性が、横倒しになって呻いているではないか。しかもその女性は……
「お、お袋!!」
「……え!?」
ウィルは慌ててその女性……自分の母を抱き寄せ、意識の有無を確認した。すると、重そうに瞼を開き、黒目をウィルの方に向けた。そして口を動かし、何かを訴えようとしていた。まだ辛うじて意思の疎通は可能であるらしい。
「ウィ……ル……触っちゃいけない……あなた……まで……」
「いい、喋るな! ……クッ、得体の知れねぇ毒霧め! マジで遠慮がねぇらしいぜ!」
「待っていて、ウィル! 直ぐにランスロットを……」
「よせ! 奴の血は、この世界の只一つの希望なんだ。一滴だって無駄には出来ねぇ……そいつはノアだって充分に知っている筈だろ?」
でも……と食い下がるノアを、ウィルは俯きながら制した。その噛み締めた唇から一筋の赤い筋が伸びた。それを拭いながら、彼は悔しそうに吐き捨てた。これを飲ませて効くのなら、幾らでも飲ませてやるのに……と。
(ウィル……貴方もやはり、心の奥底に眠る気持ちはあの子と同じなのね。本当に優しい人……)
そう考えている間にも、母親の身体はどんどん蝕まれて行った。あと数分で意識も支配され、完全に蟲化してしまうだろう。
「ウィル……最後のお願いを……聞いて……私は……人間のまま……天に召されたい……」
「……!! 俺に、トドメを刺せと?」
「それが……出来るのは……あなた……だけ……」
絞り出すように発せられる声も、次第に力が弱くなり、徐々に聞き取り辛くなっていった。もう時間が無い事を、彼女は悟っているのだろう。
「ノア……俺は一体、どうしたらいい!?」
「……!! 言えない……私には何も……ごめんなさい!!」
既に涙を零し、俯くノアは……本当に掛けてやれる言葉が無かったのだろう。申し訳なさそうに首を横に振るだけだった。
「ウィ…………ル……」
母親は最後の力を振り絞り、ウィルの手を剣の柄へと導いた。急いで、という……彼女からの、最後の願いだったのだろう。
「……一秒だけ、我慢しろよ。直ぐに済む」
剣の鯉口を切る音が聞こえ、直後に空を切り裂く音が室内に響き渡った。そして次の瞬間、母親の首は胴から離れ、ゴロリと真下に転げ落ちた。既に下半身は蟲化してカサカサと動いていたが、脳からの指令が届かなくなると、まだ人の面影を残した上半身に少し遅れてその動きを止めた。鮮血が壁や窓を赤く染め、ウィル自身も腕に返り血を浴びていた。
「……間に合った……のか? なぁ……お袋」
そう問い掛けながら、ウィルは両手で母親の首を抱き止めた。瞑目した彼女の顔は、さも笑っているかのように穏やかだった。
**********
亡骸を簡素な棺に納め、小さな墓標を立てて祈りを捧げ、ささやかな葬儀は終了した。牧師は『幸あらん事を』と最後に告げ、去って行った。そこに残されたのは真新しい墓標とウィル、そして傍らで彼を見守るノアだけであった。
「なぁ、ノア。お袋が、あのサザーランドの妹だって事は、話したよな?」
「ええ。貴方と出会ったばかりの頃に聞いたわ」
「縁を切られた間柄とは言え、肉親には違いねぇ筈だ。なのに、花の一輪すら添えに来ねぇ。冷てぇ野郎だと思わねぇか?」
その問いに、ノアは黙って頷き……そして『彼は、可哀想なお人です』と一言添えた。
ポツリ、ポツリ……水滴が落ちて来た。ノアは『涙?』と思ったが、自分は泣いていない。ウィルもその真新しい墓標に目を向けたままジッとしているが、涙は流していない。やがて、大粒の雨が一面を覆い、瞬時にして彼の身体と小さな墓標を洗い始めた。
「ウィル、風邪をひいてしまうわ」
「ノア、俺は……俺の本当の名は、ウィルフレッド・サザーランドって云うんだけどよ。今日ここで、サザーランドの名を捨てるぜ。親父は俺が生まれる前に死んじまったらしいんだがよ。勇ましい、男の中の男だったそうだ。だから俺は、たった今から親父の名を継いで、こう名乗る。ウィルフレッド・マクラーレンってな!」
剣を抜き、高々と掲げながら彼は宣言した。その顔は強い雨粒に遮られて良く見えなかったが、その瞳はしっかりと空を睨み、口を真一文字に結んでいた。きっとそれは、過去との決別を決意した男の顔だったに違いない。
「……すまねぇ、お袋。アンタの生まれを恨む訳じゃねぇが、俺はあの男を……サザーランドを絶対に許せねぇんだ。けどな、俺がアンタの子だって事は、未来永劫変わる事はねぇ。だから、安心……」
「ウィル……こういう時ぐらい、涙を見せたって……誰も笑いはしないわ」
「……本当か? 笑わねぇって……約束、してくれるか?」
「神に誓って」
「……アンタ自身が、女神じゃねぇかよ」
そう言って、ウィルは泣き笑いの表情を彼女に向けながら、剣を収めてノアの前に崩れ落ちた。そして泣いた。大声で泣いた。俺はお袋をこの手に掛けた、咎人なんだ……そう嘆きながら。だが、ノアはその発言を優しく否定した。
「貴方は咎人なんかじゃない。お母様の最後の望みを聞き届けてあげた、聖者よ。間違いないわ」
その声が、彼に届いたかどうかは分からない。しかし、今この瞬間……新たなる修羅がひとり誕生した事は、間違いなかった。
(体験版は此処までとなります。その後の展開は本編にてお楽しみください)