『文明』を築き始めて以来、人類は常にその発展に尽力して来た。人々の暮らしは歴史の歩みと共に、目を見張る早さで快適になっていった。その手助けとなったのが、所謂『科学』の発展である、と評しても過言ではないだろう。
人々は、自分の足で遠くまで行くことの出来ない『水の上』を自由に往来出来るように、『船』というものを考え出した。この発明は彼らの行動範囲を拡大するのに貢献する事となった。そして船舶は次第に機能を充実させる為に大型化し、人力で推進力を得るものから、風力を利用して進む帆船へと移り変わり、主に海洋ではそちらが主流となっていた。
こうした発明と、その発展があったからこそ、大航海時代を経て、国家間の交流も盛んになったのである。
***
時は十八世紀。ある嵐の夜、激しく荒れ狂う北欧の大海原に、一隻の船が浮かんで……いや、漂っていた。
その船は、イギリス海軍のコルベット艦『クインシー』と言った。僚艦と共に作戦行動中、敵艦の砲撃により激しい損傷を受けた為にマストと帆を全て喪失し、艦隊から落伍して、友軍からの救援も期待できぬ状態で取り残されていたのだった。
「困った……この艦の設備では、適切な処置が……」
「……気に病むな、ドクター・トンプソン。君の責任では無いのだからね」
「しかし、副長! 艦長が戦死された今、貴方にもしもの事があっては!」
「軍人が、戦の中で傷つくのは当然の事だよ」
医師でありながら、目の前の重傷者に満足な処置を施せない……軍医長のキース・トンプソンは、悔しそうに項垂れた。
「……外の様子は、どうかね?」
「敵の艦影は見えないそうです。尤も、この視界の悪さでは……何処まで見張り員を信頼できるか、分かりませんが」
……そう、一難去ってまた一難という奴であった。敵艦の脅威からは逃れる事が出来たが、今度は自然の猛威に曝されていたのだ。軍艦と言っても、排水量わずか一千トン級の小型艦。大海原の中にあっては、木の葉も同然であった。その小さな船体は今、次々と押し寄せる大波に翻弄され、転覆せずに浮いている事が不思議な程であった。
「……ご安心を。今は、お怪我を治す事だけを、お考えください」
「ああ、そうさせて貰うよ。この嵐では、敵からの襲撃は無いと考えて、大丈夫だろうからね」
「その通りです。敢えて言うならば、波浪で転覆する事だけが心配……という所ですな」
キースは、出来るだけ患者にストレスを与えぬよう、気を遣っていた。そしてベッドに横たわった副長が漸く眠った時、彼は窓から外の様子を窺った。
「……楽観は、出来ないな。この艦では、この嵐が去るまで保つかどうか……」
そう。何しろ激しい嵐の直中だ。敵襲の心配はないが、同時に味方の救援も期待できないのだ。先の戦いで艦は激しく損傷し、乗員も殆ど戦死した。軍艦としては瀕死の状態であったのだ。
(嵐が去っても、危険が無くなる訳ではない……せめて、生き残った者の命だけは、助けたいものだが……)
と、考えながら海を眺めていた時。キースは思わず我が目を疑った。何と、明かりを灯した船が一隻、接近して来るのが見えたのだ。
「まさか……この嵐の中を、航行する船舶があるのか!?」
しかし、実際にその明かりはぐんぐん近付いて来る。星明かりではない、明らかに人工の灯火だ。そして、その明かりが間近に見えるようになった時、キースは息を呑んだ。そのマストの頂点には何と、髑髏の旗が翻っていたのだ。
「か、海賊か!?」
そう、その船は海賊船だった。この大嵐の中を、何の目的で航行していたかは分からない。しかし、現実として彼らは目前にあり、損傷激しく応戦も不可能となったこの艦に、接舷しようとしているのだ。
「軍医長! か、海賊船が!」
「見えている、下手に抵抗するな。何をされるか分からん……危険な真似だけはするなと、総員に伝えるんだ」
見張り員の下士官が、血相を変えて飛び込んできた。が、その時すでに、海賊船は強引に接舷し、海賊たちが続々と甲板上に乗り込んでいた。
「全員、動くんじゃねぇ! ……この船は、イギリスの軍艦だな!?」
「そうだ……コルベット艦・クインシーだ」
「大人しく、此方の指示に従え。そうすれば、命は取らねぇ。お前等には、船ごと付いてきて貰う」
「……了解した」
生存者を代表して、士官であるキースが、無抵抗の意思を示した。海賊は彼が責任者であると認めると、人質として確保する為か、海賊船に移乗しろと命じて来た。そして、彼らは海賊船の船尾と『クインシー』の艦首をロープで結び、曳航を試みようとした。ところが……
「……!! しまった、ロープが!」
海賊の一人が船尾にロープを結びつけようとしたが、波に煽られて甲板から転落しそうになり、我が身を支えるためにロープを手放してしまった。帆を全て喪失している『クインシー』はその場に置き去りにされ、海賊船から離れていった。
(何という事だ! 皆……無事でいてくれ!)
キースが乗員の安否を気遣っていると、海賊たちもまた舌打ちをして、離れて行く『クインシー』を悔しそうに眺めていた。
(……こいつら、何を考えている?)
海賊たちの胸の内を読もうと思案したキースであったが、彼らの口からそれが語られる事は無かった。
「ワリィんだが、お前さんに船内をうろつかれちゃ困るんでな」
「気にするな。海賊に攫われて、命があるだけでも大したものと思っている」
キースがそう答えると、大柄なその男は『物わかりが良くて助かるぜ』と言いながら、恐らくは猛獣用と思われる檻の扉を開けた。長い間放置されていたのか、蝶番が錆びており、非常に不快な音が耳に障った。
「随分と、広い部屋だな。この、ビッシリ積まれているコンテナの中身は、獲物か?」
「……そんなトコだ。まぁ、オレたちゃ先代と違って……」
と、そこまで話したところで、後方に居た目つきの鋭い男が咳払いをし、『余計な事を口走るな』と制止を掛けた。どうやら、その男の方が格上であるらしい。
やがて男たちが出て行くと、舷側に打ち付ける波の音だけが広い室内に木霊した。船の中でも最下層に位置する部屋の為か、音が一層大きく感じられた。
(……クインシーは……助からないだろうな。あの海域は、ノルウェーとの国境に近い。嵐が静まれば、直ぐに向こうの海軍が出てくるだろうからな)
虜にされた自分が生き延びて、難を逃れた者たちが危機に瀕するとは、何と皮肉な……と、キースは胸のロザリオを握り締めながら天窓を見上げた。外はまだ大嵐で、船も大きく揺れていた。
***
「失敗した、ってのか?」
「へい……すんません、お頭。なんせ酷い風と雨、オマケに大波で。皆、テメェの体を支えんのがやっとだったんでさぁ」
その報告を受けて、海賊の頭領は激しく落胆した。しかし、手下たちを責めることは出来なかった。大時化の中で、甲板に出ること自体が大変危険な事であると、充分に理解していたからだ。
「でも、一人だけ軍人を捕まえやしたぜ」
「……何だと? 生け捕りにしたのか?」
「へい。向こうの船がロープを解いて逃げねぇように、一番エラそうな野郎を、人質としてこっちに乗せたんでさぁ」
「よくやった! そいつを此処へ連れて来い、顔を拝んでやる」
頭領は、その僅かな収穫に期待していた。例え一人であっても、イギリス軍人の身柄を確保してあれば、立派に役立つと考えていたからだ。
(軍人を人質に取っていると言えば……手出しはして来ないだろう。もう、邪魔はさせねぇぞ)
してやったり……と云った顔で、頭領は手下が軍人──キースを連れて来るのを待った。
***
「…………」
「誰か、そこに居るのか?」
確かに、人の気配はする……のだが、呼び掛けには応答が無い。キースは怪訝に思ったが、此方から様子を窺いに行くことは出来ないので、放置するしか無かった。
と、その時。誰かが梯子を降りて来た。
「おい、兄ちゃん。出な。お頭がお会いになるそうだ」
「お頭……あんたらのボスが、か?」
そうだ、と頷くと、男──先刻キースを檻に閉じ込めた大男──は、その身を屈めて、檻の鍵を外しに掛かった。手が大きすぎるのか、鍵が小さくて扱い難そうだった。
「やれやれ。こんな小さなモン、扱い難くて敵わねぇ……待たせたな、出ろ。くれぐれも、粗相の無ぇようにな」
「卑しくも、英国海軍の士官だ。弁えているさ」
互いに苦笑いを浮かべ、肩を竦めると、『行くか』と声を揃え、二人の男は歩き出した。
「なぁ、訊いても良いか?」
「何だ? メシは一日二回だぞ」
「へぇ、キチンと食事が……って、違うよ。さっきから、船倉の隅に誰か居るような気配があったんだが、誰か居るのか?」
その問いに、男は答えなかった……いや、答えられなかった。彼には、その質問の意味が分からなかったようで、どう答えて良いか、判断できなかったらしい。
「……ここだ。いいか、くれぐれも……」
「分かっている、行儀作法には自信があるつもりだ」
なら、行くぞ……と、深呼吸を一つしてから、男はその扉を開けた。
「連れて来やしたぜ!」
「ご苦労! ……この男か? イギリスの軍艦から、連れ出した軍人てのは」
左様で……と、大男は頷いた。その様を、キースは驚きの目で見ていた。
豪奢な装飾が施され、充分な広さを持ったその部屋の奥に、その人は居た。が……その佇まいは、キースの想像とはかなり違っていた。細い体躯に、高い声。どう見ても、『屈強な男』とは思えなかったのだ。
「なんだい、何か文句でもあるのかい?」
「いや、そんな事は……ただ、少し驚いて……もっとこう、厳つい感じの人物と思っていたので」
キースの驚きは、尤もだった。然もありなん。そこに鎮座していたのは、何と年若い女性だったのだ。
「……? まぁ、いい。俺はフレデリカ。キャプテン・フレデリカだ」
「あ……自分は、大英帝国海軍、ウィリアム・ファブレイド中将麾下の、第二艦隊所属……」
と、キースがそこまで口に出した時。フレデリカは、些か驚いたような顔で、彼の顔を凝視していた。
「……ファブレイド、だと?」
「は? ……はい、ファブレイド中将麾下の、コルベット艦クインシーから参りました、キース・トンプソン中尉であります」
どうした、何を驚いているのだ……と、キースは逆に質問したくなるのを、懸命に堪えていた。何しろ今、自分は虜の身。絶対的に不利な状況下にあるのだ。下手な言動は、命に拘わる。
「……そう、か。キース、だな。覚えておこう」
「はい、キャプテン」
名前と身分を明かした後、次に何を訊かれるのか……とキースは身構えていた。敵国の捕虜になった訳ではないが、軍事機密については秘匿しなければならないからだ。が、彼女──フレデリカはそれ以上の質問はせず、意外な言葉を聞かせて、キースを驚かせていた。
「お前の船、残念な事をした。出来れば、船ごと助けたかったんだが」
「え……!?」
海賊が、手負いの軍艦を『助ける』……? と、キースは思わず我が耳を疑った。そんな事をして、彼らに何のメリットがあるのだろう……それが理解できなかったからである。
(一体、何を考えて……?)
キースは、質問する事も、その場を去ることも出来ぬまま、黙ってフレデリカの言葉を待っていた。彼女の指示に従う事しか、今は出来なかったからだ。
「……分かった、下がってよし」
フレデリカの言葉は、あまりに短く、そして端的であった。吊し上げを喰らうかも……とまで覚悟して赴いてきたキースは、それを聞いて安堵する反面、気抜けしてもいた。そして、『何の為に呼ばれたのだろう』という疑念も、同時に抱いていた。しかし、それを口外する程、彼は愚かでは無かった。そして船長室を出ると、彼は大きく息を吐いた。
「何か……意外、と云うのかな?」
「あ? ……あぁ、お頭の事かい。そうさな、最初に見た奴は大概、そう言うんだよな」
どうやら、男にとって、キースのリアクションは想像の通りだったようだ。余りにその通り過ぎたため、笑いまで出る始末だった。
「しかし、君たちの目的は一体なんなんだ? 何故、傷ついた僕らの艦を救助しようとした?」
「そいつは、言う訳にはいかねぇな」
「……そうだろうね」
そうして、キースは元の通り、檻に入れられた。その途中、彼は気付いていた。この船に虜にされて以来、ずっと自分を見つめ続ける、妙な視線が再び向けられている事に……
(また、感じる……確かに、見られている。誰が、何処から……?)
その視線……いや、気配と云おうか。それの正体が気になるキースだったが、此方から窺う事は出来ない。依って、向こうから接近して来るのを、待つしかないのだった。
***
同刻、船長室では。
(そう、か……あの男、アイツの部下だったのか……ククク……使える、使えるぞ……)
……フレデリカが怪しく、ほくそ笑んでいた。
「思わぬ拾い物、ですな?」
「ああ、そうだ。それも、超特大のな。フフフ……これで、今後の航海は楽になるぞ」
「油断は禁物ですぞ、キャプテン」
「分かっている、案ずるな。此処で事を急いだって、何にもならないだろう。アレは飽くまでも、イザという時の備えだ」
「御意」
フレデリカと会話をしているのは、キースを連れ回していた男に指示を出していた、細身の男だった。どうやら彼は、船の中では高位に立つ者であるようだ。
「……では、これからイギリス海峡を通り、港まで?」
「ああ。嵐が収まったら、針路を取れ。船の整備もあるし、皆の疲労もかなりの物だろう」
「左様。それに、水や食料も少なくなっております故」
「そろそろ、積み荷も陸揚げしなければならないからな。出来るだけ急ぎたいものだな」
ふん、と鼻を鳴らして、フレデリカは笑った。
「して、彼……どのように扱うおつもりで?」
「ん? 当分は、あのまま閉じ込めておくさ。連中が邪魔をしに来たら、その時に使えばいい。くれぐれも、傷はつけるなよ」
「……御意」
その扱いは、虜の身としては当然のものであろう。増して、フレデリカにはキースを『海軍が進路を妨害してきた時の切り札』として利用するという目的があるものの、それ以外に興味も価値も無いと判断していたので、尚更である。
かくして、彼らは嵐の通過を待って、母港へと向かう事を決定した。しかし、その後しばらく嵐は止まず、船は数日間、その場に釘付けとなるのだった。
***
船倉の密室に、口笛の音色が響いていた。吹いているのは、キースである。彼は口笛で楽曲を奏でるのが得意であり、時折皆の前でその腕前を披露していたのだ。
(……クインシーの皆は、どうなっただろうか……)
置き去りにした艦の乗務員たちに想いを馳せつつ、彼は口笛を吹き続けた。と、その時。
(……今、確かに誰かがこっちを見ていた……あの箱の影だ、間違いない)
キースは、ずっと自分を見つめていた視線の主が何処にいるかを、漸く突き止めた。それは、彼の檻を斜め前方から見ることの出来る、大きな木箱の影だった。その位置から、ずっと彼の姿を窺っていたようだ。
(どうやら、お化けの類ではなさそうだな。それにしても、見張りにしてはおかしいな。普通はあんな物陰から、コッソリ覗くような真似をせず、檻の前に陣取ってしっかりと監視するのがセオリーだと思うが)
等と、憶測を交えながら、今度はその視線が『何故、自分に向けられているのか』。それが気になりだした。
(何故、此方を見ているんだろう……珍しいものでもあるまいに)
口笛の音色が波音に混じって響く船倉で、二人の視線は幾度かぶつかり合った。その度に、その視線の主はサッと身を隠す。そして、暫くするとまた顔を出し、此方を窺う……それの繰り返しであった。が、唐突に、その均衡が破られる事となった。
「……!! 大波だ!」
一際大きな波が、船を弄んだ。その際に船体は大きく動揺し、船倉の積み荷も一部、荷崩れを起こしていた。と、その一つが、視線の主を頭上から襲ったのである。
「いかん、荷物の下敷きに……誰か! 誰か来てくれ!!」
キースは大声で叫んだ。この大嵐の中、船内にも風の巻く音が反響し、その声が乗員に届くかどうかは分からなかった……が、彼は夢中で叫び続けた。
「誰かぁー!! 誰か来てくれーッ!! 怪我人だ!! 誰かぁーッ!!」
「何だ、どうした……うぉっ! お、お嬢!!」
「早く、僕を此処から出してくれ! 早く治療をしないと、大変な事になる!」
「治療!? オメェ、医者か!?」
「そうだ、僕は軍医だ! 早く、その子の容態を診ないと!」
駆けつけたのは、キースの出入りを任されている、例の大男だった。幸い、彼は檻の鍵を持ち歩いて居たため、直ぐにキースを外に出すことが出来た。
「……頭を打っている。出血も……兎に角、止血だけでもしないと」
と、彼はサッとその女の子の容態を確認し、応急措置に取り掛かった。が、此処は船底の倉庫。医療器具はおろか、包帯すら無い。普通なら、匙を投げるところであろう。しかし、彼は慌てず、自らの上衣を取り、それを引き裂きだした。
「こんな物でも、無いよりは……あなた! この子を此処に寝かせるわけには行かない! 運び出すから、人を集めてくれ!」
「わ、分かった!」
大男に指示を出した後、キースは即席の包帯で女の子の傷口を拭いて、患部を保護するようにややキツ目に縛った。これで、取り敢えず出血は何とかなるだろう。が、頭部を打っている以上、どんなダメージがあるか分からない。彼は船の動揺からその小さな体を守るため、その腕の中に女の子を抱きかかえ、両足を踏ん張って揺れに耐えた。
ややあって、船倉に乗員がなだれ込んで来た。無論、その中にはフレデリカも混じっていた。
「ロ、ロレイン!」
「キャプテン! 頭を打っています、動かしてはダメです!」
キースの腕から少女を奪おうとしたフレデリカだったが、それは直ぐに制止された。彼女は酷く動揺していたらしく、最初はその指示を跳ね除けようとした。が、キースが医者であることを聞いて、漸く指示に従い、ロレインから手を離した。
そして直後、ロレインは意識を失ったまま、男たち数名によって、丁重に運び出されていった。
「キャプテン、彼女は重傷です。上陸して正式に病院で治療を受けるまで、僕が見ていないと危険です」
その申し出に、フレデリカは暫し回答を出せずにいた。敵方から捕らえたばかりの男を、船内で行動させる事に危険を感じたからであった。が、しかし。状況が許さないという事情も理解できたので、彼女はやむなく、特例として『上陸するまでの間』という条件を付けて、キースにロレインの看護を許可した。
「借りが、出来ちまったな」
「……下心は、無いつもりです。ただ僕は、医者として……」
「あの子は、ロレインは……俺の妹なのさ」
「妹……!? 姉妹で、海賊船に……しかも貴女は、その頭目で……」
思いも依らない事実が明かされ、キースはただ驚くばかりだった。が、彼はフレデリカに、事情を訊くことはしなかった。それを聞いたところで、状況が変わるとは思えなかったからだ。
「この船は、何処へ向かうのです?」
「……ウェールズだ」
「そうですか……現在の位置からだと、この船の足では、軽く一週間は掛かる計算ですね」
「仕方ないさ。コイツを受け入れる港なんて、そうは無いからな」
それはそうだな……と、キースは深い溜息を漏らした。彼──キースの言う一週間と云う数字は、『今すぐ移動を開始して、一切の妨害を受けず、常に一定の強い風を帆に受ける』事を前提として弾き出した日程だからである。その間、この娘──ロレインの容態が安定し続ける保証は無い。そこに不安を感じていたのである。
「航海の安全を、祈るばかりです」
「そうだ、な……」
先行きに不安を抱くのは、フレデリカも同じであった。しかし、起きてしまった事実はもう、覆る事はない。全て、受け容れるしか無いのだ。
未だ、外は大嵐が吹き荒れている。いつ晴れるかは、神のみぞ知る事。彼らはただ、祈る事しか出来ないのだった。
***
「漸く、イギリス海峡に入るか……」
あれから、四日が経過していた。
嵐が止むまでに一昼夜掛かったのだが、ロレインの容態が思わしくないとの見解が得られた為、フレデリカはあの後すぐに、強引に移動を開始した。結果としてそれは正解だったのだが、余りに危険すぎる決断に、反対する者も多かった。しかし、その決断にキースが同意し、医師としての意見を強調し、早急にウェールズへ針路を取ることを推したのだった。
「俺だ、入るぞ」
「どうぞ」
病室が無いため、ロレインの私室で不眠不休の看病を続けるキースの元に、フレデリカが顔を出した。
「どうだ、様子は?」
「良く眠っています。外傷が酷いので、もっと重症かと思いましたが……思いの外、軽症で済んでいましたからね。但し、油断は出来ないです。何しろ、頭部を負傷しています。一刻も早く病院に入れなくてはならない事に、変わりはありません」
「……任せる。素人の俺には、どうする事も出来んからな」
ロレインが負傷して以来、フレデリカはずっとこんな調子であった。かなり溺愛しているのだろう、一日に何度も訪室して、心配そうに様子を窺い、肩を落として出て行くのだ。
(大丈夫ですよ、キャプテン。この子はちゃんと助けます。医師として、ね)
キースは、フレデリカの横顔に向けて、こう囁いていた。無論、声には出さず、心の中で……であるが。
「しかし……」
「……? 何だ?」
「彼女、僕が船倉に入れられてから、ずっと此方を見ていて……あれは一体、どうしてだったのかなと」
「んー……この船に、乗組員以外の人間が乗る事は、滅多にないからな。珍しかったんだろうよ」
「そういう事なら、納得です……かね。何しろ、ジッと見られてましたから」
フレデリカは更に、『軍服姿の珍客』という表現を用いて、キースを笑わせていた。彼女はロレインの見舞いで、頻繁にキースと顔を合わせていた為か、いつの間にか、フランクに話し掛けて来るようになっていたのだ。
「……なぁ」
「……? 何ですか?」
「お前、海軍に帰りたいか?」
その問いに、キースは暫し沈黙した後、ゆっくりと回答した。
「それは……僕の立場から言えば、解放されたなら原隊に復帰するのが、最も好ましいです。しかし、艦の無事は絶望的で、恐らくは僕自身も既に、死亡認定されているでしょうから……」
「そうだよな……いや、攫った者として、こんな事を言うのは可笑しいんだろうが……」
そこまで口に出した後、フレデリカは口ごもって、暫くモジモジしていた。その様子を、キースは怪訝そうに眺めていた。が、やがて意を決したか。彼女は漸く、続く言葉を紡ぎ始めた。しかし、それはキースを混乱の坩堝に叩き落とす事となった。
「お、お前、この船に……正式なクルーとして乗る気はないか?」
「……は!?」
その、意外すぎる展開に、キースは我が耳を疑った。然もありなん。僅か数日前に自分を攫った集団の頭領が、自分に対して『仲間にならないか』と言って来ているのだ。彼でなくとも、困惑するであろう。が、フレデリカは至って真面目に、且つ真剣に、キースを誘っているようだった。
「僕に、海賊の一員になれ……と?」
「あ、いや、無理にとは言わねぇよ。俺たちに、恨みもあるだろうしな」
キースは特に、フレデリカ達に対して、怨恨は抱いていなかった。が、流石にその真意を測りかねて、回答を迷っていたのだった。
「……何故、僕を誘う気になったのです?」
「そ、それは、その……この船には、医者が居ないからな。こういう風に、怪我人や病人が出たときに、困るから……」
その言葉に、偽りは無いだろう。それは直ぐに見て取れた。が、キースは即答を避け、考える時間をくれと返答した。
「……良い返事を……待っている」
「…………」
キースにとって、フレデリカの要望……と云うか、願望に応える事は、やぶさかでは無いと言えた。原隊復帰が難しい以上、今後の身の振り方を考える必要が、彼にはあったからである。
(上陸後に脱出して、ウェールズの分隊に飛び込むという選択肢も……いや、無理だな。リスクが高すぎる。しかし、このまま状況に流されるのも、如何なものか……)
船は今、イギリス海峡をゆっくりと通過している途中だった。ウェールズに到着するまでに、いま暫くの猶予がある。その間に、最善の選択をしなければならない……キースは非常に困惑した。
……が、しかし。彼の胸中はその時点で、ほぼ確定していたのだった。
***
「おー! 見えてきたぞ!」
船員の一人が、見張り台の上から声を上げた。それを聞きつけて、他の乗員もワラワラと甲板に上がり、海岸線を眺め始めた。
「堂々と、港に入るのか? 秘密の隠れ家とか、あるんじゃないのか?」
キースが、不思議そうに問うて来た。然もありなん。彼は、海賊と云えば市民にとっては畏怖の対象で、その身を隠しながら活動するものとばかり思っていたのだ。が、船は真っ直ぐに、遠目に見える街の方へと針路を取っているではないか。
「兄ちゃんよぉ、俺たちだって人間。息もすりゃあ、飯だって食うんだぜ」
「そ、それは分かってるさ。けど、あまりに堂々とし過ぎではないか? と云うか、港に受け入れて貰えるのか?」
「入れるさ」
どうして、彼らはこんなに堂々としているのだろう……幾ら考えても、キースはそれを理解できなかった。が、ふと空を仰ぐと……
「あれ!? は、旗がない!?」
……そう。初めてこの船を見た時には確かにあった、マストの頂点に翻る、髑髏の旗が無いではないか。
「おーし、ボチボチ入港だ。荷下ろしの支度に取りかかれ!」
「あいよ!」
船員たちは、接舷用のロープを用意する者と、船倉に降りて積み荷を運ぶ者とに分かれ、キビキビと動き始めた。その様を、キースは暫し呆然と眺めていた。と、そこに、フレデリカがやって来た。
「……どういう事なんだい?」
「何が?」
「何、って……この船、人目に晒して良いのか? 海賊船なんだろう!?」
その回答を聞いて、フレデリカはポンと手を叩いた。
「海賊稼業ってのは、どうも性に合わなくてな。普段は、輸送船として動いているのさ」
「じゃあ、船倉にあったコンテナは……お宝ではなくて!?」
「そうだよ、外国から調達した食い物や鉱石とかだ」
何という事……と、キースは暫し呆然とした。が、やがて大声で笑い出した。そして……
「……なぁ、キャプテン?」
「ん?」
「この間の話……喜んで受けさせて貰うよ。僕を仲間に入れてくれないか?」
「……!! あぁ、大歓迎さ! ようこそ、ゴールデン・ハインド二世号へ!」
こうして、キースはフレデリカ達と行動を共にするようになった。無論、まだ軍籍にある身ゆえに、責務という鎖から逃れた訳では無い。が、原隊復帰が儘ならぬと思える今、これもアリか……と考えていたのだった。
スコットランド東部に位置する、港湾都市アバディーン。そこを拠点とする海軍の将が、傷だらけとなって帰還した友軍艦艇を見て、深い溜息を吐いた。
「未帰還、一隻あり……か」
「コルベット『クインシー』の姿がありません……ノルウェーに、してやられましたかな」
帰還した艦艇は、何れも深手を負っており、無傷なものは皆無であった。それだけでも大損害なのであるが、一隻とはいえ喪失した艦がある……この事実は、将軍を落胆させた。
「……急ぎ、損傷艦の修理に掛かれ。第二艦隊は……一隻欠いた状態であるが、現状のままだ」
「アイ・サー! アドミラル・ファブレイド!」
そう呼ばれた将軍──ファブレイド中将は、伝令が去るのを見届けると、座乗艦『アークロイヤル』の艦橋から、軍港内を眺め始めた。
マドロス・パイプを咥え、煙草に火を点けて……紫煙を燻らせながら、ファブレイドは傍らに居る士官──艦長のダグラス・バーグマン大佐に向かって、呟いた。
「あの夜、あの海域に……例の船は居たのか?」
「いえ、報告は受けておりませんが……酷い嵐であったと聞きます。恐らくは、連中も大人しくしていたでしょう」
「……ならば、良いのだが……」
あの船、とは……フレデリカ達の乗り組む、ゴールデン・ハインドの事である。
栄えある英国海軍が、何故に高々一隻の海賊船に対し、そこまで警戒するのか。それには理由があった。
イギリスとノルウェーは、特に敵対している訳ではない。が、領海侵犯を犯せば、当然、国際問題に発展するので、未然に防ぐ必要がある。そのような事情がある中、ゴールデン・ハインドは、頻繁にノルウェー近海に出没しては、国境線を越えて行こうとする。依って、英国海軍としては、要らぬ火種を隣国に振りまく事を防ぐ為、ノルウェーとの国境付近に艦隊を配置して、警備に当たらせている……と。こういう訳なのだ。
そして、あの嵐の夜。一隻のコルベット艦が、大波に煽られ、不本意ながら国境を越えてしまった。そこを、警戒中であったノルウェー海軍の戦闘艦に発見され、攻撃を受けた。それが『クインシー』だったのだ。
『クインシー』の側に敵意がない事は明白であったのだが、脅しの意味もあったのだろう。ノルウェー海軍は退避する『クインシー』に執拗な砲撃を加え、沈没には至らぬまでも、深刻なダメージを与えた。勿論、これに対して英国側は抗議をしたが、自衛権の発動という言葉を使われ、本件に対しては言い分を控えざるを得なくなってしまったのである。
「高々、コルベット一隻……しかし、他国から仕掛けられた戦闘行為で、喪失した事実は覆らない。これは、由々しき事態だ」
「左様。事は、小型艦一隻の問題には留まりません。我が大英帝国の威信に拘わります」
高級士官二人が、口を揃えて先の事件を振り返った。
「引き続き、当該海域の警戒を続けよ。あの船が出没しなくなるまで、続けるのだ」
「……了解しました」
外に目を向け、港内を見つめたまま……ファブレイドは、今後の指示を与えていた。その心中にあるものは、誰にも明かさずに……
***
「ヴァイキングの、財宝?」
「そうさ。そいつを探し出す為に、俺たちはあの海を渡っているのさ」
ウェールズの南部に位置する街──スゥオンジーの郊外にある、小さな病院の一室で、キースとフレデリカが語らっていた。彼らは今、入院中のロレインを看護するため、此処に滞在していた。そこで、キースがフレデリカに、どうしてあの日、あの海に居たのかを問うていたのだ。
「随分と、スケールの大きい話だね。ヴァイキングって確か、大昔の大海賊だろ?」
「ああ、そうさ。だからあの船の名前も、彼らの船にあやかって『ゴールデン・ハインド』って付けたんだ」
「なるほど。だから『二世』なのか」
そうだよ、とフレデリカはニッコリ笑った。左目を眼帯で隠しているが、それを除けば彼女は、かなりレベルの高い美女だ。その微笑みを直視したら、大抵の男は魅了されてしまう……そう、キースもご多分に漏れず、頬を朱に染めていた。
と、その時……
「う、うぅん……」
「目が覚めたかい? ロレイン」
「お姉、ちゃん……」
ロレインに向けられた笑顔は、海賊のそれでは無かった。妹を気遣う、優しい姉のものだった。
「……今、パパと……お話したの」
「そ、そう……か。良かったな」
「……うん」
父親、か……と、キースは姉妹の姿を見ながら、想いを馳せた。考えてみれば、この年若い姉妹は、二人だけで船乗りとして、男達に混じって生活しているのだ。きっと両親とは、辛い別れをしたに違いない……そう考え至った。しかし、彼はそれについて、深く追求しようとはしなかった。誰にでも、知られたくない事の一つや二つ、あるだろう……と。
「あ、の……」
「ん?」
ロレインが、今度はキースに話しかけて来た。
「助けて……くれて、あり……が、とう……」
たどたどしく、しかしハッキリと。彼女は礼を言った。それを聞いて、キースは思わず微笑んだ。
「うん。早く手当てが出来て、本当に良かった」
「……ん」
ロレインは、短く答えると、直ぐに目を伏せてしまった。かなり会話が苦手であるらしい。が、キースはそれを全く気にせず、ただ笑顔を向けていた。そして彼は、ふと思い出したように、ロレインに話し掛けた。
「あぁ、そうだ。君の目が覚めたら、と思って……」
「……?」
「連れてきたんだ。ほら、この子。お友達なんだろう?」
「……!!」
キースが取り出したものは、テディベアだった。ロレインを救助したとき、彼女が居た場所に落ちていたため、ずっと抱いていたものだろうと推測し、此処に持参していたのだ。
「あ・あ……」
「大丈夫、この子は此処にいるよ」
ロレインは、必死にテディを受け取ろうとしたのだろう。未だ動かせないその腕を、懸命に伸ばそうとしていた。キースは、そんな彼女の枕元に、そっとテディを置いてやった。
「ありがとうよ……お袋の形見なんだよ、そのクマ」
「やはりね。かなり大切な物なんだろうな、って思ったんだ。無事に届けられて、本当に良かった」
フレデリカの言葉を聞いて、キースは先ほど抱いた想像が、正しかったと確信した。そして、母親との死別を体験しているという事は、当然、父親とも……と。
「あ、あぅ……」
「大丈夫。その子はもう、何処へも行かないからね」
その囁きに、ロレインは大粒の涙を零した。
***
「良かったね、ロレインは数日で退院できるそうじゃないか」
「最初の処置が適切だったからだって、医者が言ってた。半分はお前の手柄だぞ、キース」
フレデリカ達は、船の様子を見るために、一旦病院を出て、港に向かっていた。そこでは今、外海で損傷した船体の修繕と、積み荷の荷下ろしが行われている最中だ。その指揮は、船員の若頭である、カーティスという男が執っていた。船長室でフレデリカと航海計画の確認をしていた、あの男である。
「しかし、運輸業だけで仕事が成り立つなら、わざわざ危険を冒してまで、海賊稼業を続ける必要は無いんじゃないか?」
「いや、そうもいかねぇんだ。古くからのクルーの手前もあるし、俺にも意地があるからな」
その回答に、キースは『ふぅん?』と、意外そうな表情を浮かべた。彼女はそれ程、海賊稼業に入れ込んでいる訳ではないのかな……? と。しかし、フレデリカはそれを受けても表情を崩さず、ニコニコと笑っていた。
「そうだ、せっかく医者が仲間になったんだ。ちゃんとした病院を、船の中に作ろう」
「それは有り難いな。何しろ、キチンとした設備がなければ、僕ら医師は無力だからね」
ロレインに応急措置を施した時、キースの手許には、医療機器と言える物が何一つ無かった。あの時は機転を利かせて、上衣を割いて包帯の代用としたが、いつもあのような雑な措置ばかりをしている訳にはいかない。医師として乗船する以上は、それなりの責任を負う事になる。依って、医療用の設備が必要不可欠なのだ。
「そこが、僕の新しい仕事場になるんだね」
「そうだな。俺に船長室があるように、キースにも仕事をする部屋が必要だろ。急いで作らせる、必要な物は取り寄せるから、言ってくれ」
キースに対し、フレデリカは大変に協力的だった。やはりロレインを助けたことが、彼女にとって印象的だったのだろう。少なくとも、悪意は向けられていないなと、彼は思っていた。
「なに、ベッドと机と、棚が置ける広さの部屋があれば大丈夫さ。医薬品や器具類は、適宜揃えて行けばいいからね」
「よし、分かった。船室を二つばかりぶち抜いて、一つの部屋にすればいいだろう。そのぐらいの改造なら、すぐに終わる」
こうして、船内に医務室を作る話はスムーズに進んだ。そして、そこがキースの居室を兼ねると云うことも、その時点で確定していた。
「勿論、船の中だからね。陸上の病院のような、本格的な治療は無理だから。上陸してから、病院に行き直す事になるけどね」
「そんな大怪我を負ったり、重病に罹ったりする奴は、滅多に居ないさ。食糧庫が空になる前に港に戻ってくれば問題ねぇよ」
「ああ、それそれ。海軍でも漸く壊血病対策が採られるようになったばかりなのに、この船はかなり進んでいるね」
「冗談じゃねぇよ。メシ食わさねぇでクルーが病気になるなんざぁ、キャプテン・フレデリカの名折れだぜ」
それは、確かに……と、キースは笑った。となると、薬の類よりも、添え木や包帯を沢山持っていた方がいいな……と、大まかな治療のパターンを算用して、出航までに必要なものを買い付けなくてはな、と考えていた。
「頼りにしてるよ、医務長!」
「お、大袈裟だよキャプテン。僕はただの、船の中の医療スタッフさ」
肘で自分の胸を突いて来るその仕草に、キースは照れた。彼は子供時代から、学生を経て軍人となって、こうして海賊船に乗り組むに至るまでの二十五年間の中で、こんなに親しく女性と接した経験が無かったのだ。
……が、それはどうやら、フレデリカも同じだったようだ。陽気に話し掛けては来るのだが、目線が泳いでいたのだ。ただ、彼女の場合は、船乗りになった時から数年間、男の中に混じって暮らしてきた分、免疫が付いていたのだろう。キースに比べれば、冷静だった。
「ところで、キャプテン」
「ん?」
話が一段落したところで、キースが問いかけた。
「貴女は、いつからあの船に? 僕より若いよね?」
「あぁ。俺は十二の頃から、あの船に乗ってた」
「そんな頃から……前の船長さん、良く乗せてくれたね?」
「……先代は、そういう意味では大らかでな。けど、独善的過ぎてクルーの不評を買って。皮肉なもんさ、弟子である俺が……その首を獲ったんだからな」
成る程、そういう経緯が……と、キースは恐々ながらに納得した。そして新船長の座に就いたフレデリカは、その時の感触にとてつもない嫌悪感を覚え、他の船を襲って糧を得る海賊稼業から、泥棒のようなスタイルに方針を改めたのだという。そして、その交代劇があった時、若干十六歳であった事も彼女自身の口から語られた。年若き女性の波乱に満ちた過去に、キースはただ驚くばかりであった。
***
「第二艦隊に代わり、第一艦隊を警戒海域へ向けて派遣する。各員、出航準備に掛かれ!」
「アイ・サー!」
その頃、アバディーンの軍港では、傷つきながら帰還した第二艦隊を収容し終わり、交代の艦隊を送り出す準備を進めている最中であった。
「あーあ、一ヶ月の洋上訓練かぁ。長いんだよなぁ、これが」
「シッ! 上に聞こえたらどうするんだ、馬鹿!」
そのような声も、ちらほらと聞こえて来る。そう、艦隊員の大多数は、この作戦行動を『訓練』と指示されており、真相は聞かされていないのだ。依って、分隊長クラスの下士官などは『何故に洋上の国境警備を、俺達がやるんだ?』と云う疑問に、頻繁に応えていると云うことであった。無論、その分隊長も、真相は知らないので適当に回答しているだけなのであるが。
「……よもや、国境を越えようとする海賊船を追い返すのが目的……とは、言えぬからな」
「しかしこれは、国際問題を未然に防ぐ為の、重要任務でありますからな。疎かには出来ません」
それは、充分に承知しているのだよ……と、最高指揮官である提督──ファブレイド中将は、深い溜息を吐いた。
(君たちにも、本当の理由は明かしてはいない……これは、私の個人的な事情に端を発する事だからな)
ファブレイドは、『本当に申し訳ない』という気持ちを胸の奥深くに仕舞い、毅然たる態度で、艦隊指揮に当たっていた。
「準備を急がせよ。何しろ目標は神出鬼没、いつ現れるか分からんのだからな」
「承知しております、閣下」
「第二艦隊に甚大な損害を出した直後だ、今度は私も随行する」
「なッ……か、閣下! それは!」
ファブレイドの発言に、幕僚たちは慌てた。何しろ、最高司令官が国境警備の指揮を執る、と言っているのだ。これは前代未聞の珍事である。当然、多くの反対意見が出た……が、ファブレイドは、それを全て退け、乗艦『アークロイヤル』の出航準備を急がせた。
***
「抜錨!!」
軍楽隊の演奏をバックに、クルーザー四隻、フリゲート四隻、コルベット六隻。それに補給船十二隻を伴った大艦隊は、錚々たるメンバーを乗せ、アバディーンを出航した。その先頭を行くのは、ファブレイド中将座乗の装甲巡洋艦『アークロイヤル』である。
「……な、何か、いつもの遠足気分とは……違うな?」
「そりゃあ、あの『アークロイヤル』に将旗が翻ってんだ。それはつまり……」
末端の艦隊員たちは、何事かと想い、慌てた。然もありなん、いつもは港の奥に鎮座し、港内の司令塔として機能している艦が、自ら指揮を執るために随行しているのだ。これは今度は、いつものような『遠足気分の国境警備』とは行かないぞ……と、震えが来る思いだったのだ。
「兵どもは、かなり慌てておりましたな」
「閣下が自ら指揮を執っておられるのだ、それが全艦艇から見えるのだからな。無理もあるまい」
幕僚たちも、この異例の布陣に驚きを隠せず、落ち着かない者が多かった。然もありなん。このような事は、この警備任務が慣例となって以来、初めてだったのだ。
(虫の知らせ、とでも云うのか……何やら、胸騒ぎがしてならん。単なる、杞憂で終わることを祈るばかりだ……)
ファブレイドは、そんな胸中をひた隠しにしたまま、艦橋の奥で海上を見つめていた。
***
出航から五日が経過した、よく晴れた午後。艦隊は、目的海域に到達していた。ノルウェーの海岸線から三カイリの位置に、等間隔で艦を並べ、横一列の防衛ラインを張る。この体勢を、一ヶ月の間キープすると云う訳である。
「あと少し、僅かでも下がれば、ノルウェー領に入ってしまう。各艦に伝達! くれぐれも、現在の位置を守るように!」
「アイ・サー!」
海岸線から三カイリ。誰が決めたか、そのラインが海上に於ける国境線である、と云う取り決めがある。そのラインから外は所謂『公海』と呼ばれ、何処の領海でもないので、何処の国籍の船が往来していても、誰も文句を言う事はない。しかし、そこから内側に入れば、領海を侵したとして罪に問われてしまう。実にケチくさい話であるが、これぐらいシビアに取り扱わないと、曖昧になってしまうのが領土問題という物なのだ。
「隣家の柿の木を、外から見張るようなものですからな。兵たちにとっては、面白くない任務でありましょう」
「言うな。それは分かっておるのだ。しかし、ああして領海を侵そうとする者がいる以上、こうして見張るしかあるまい」
「アレが、我が英国籍である事は、既に知られておりますからな……本当に、厄介な話です」
全く、その通りだ……と、ファブレイドは深い溜息を吐いた。
今現在に於いては、フレデリカ達が一度も領海を犯した前例はない。が、どう考えても、彼らの目的はノルウェーの領内で、何かを得る事である……これは間違いない。これを未然に防ぐのも、立派な任務である。ファブレイドは、艦長クラスの将校にそう言い含め、全艦隊員を納得させていた。
「全艦、配置完了いたしました!」
「よろしい。では、見張り員は水平方向をしっかり監視し、警戒にあたれ。あとの者は半舷休息とせよ」
「アイ・サー!」
何しろ、一ヶ月に及ぶ長丁場だ。常に全員が緊張状態にあったのでは、身が持たない。依って、半分ずつの人数で見張りながら、交代で休みを取るスタイルとするのだ。艦を錨鎖で固定しての周辺警戒であるから、寧ろこれでもオーバーすぎるぐらいなのだが……相手は何処から進入して来るか分からないので、手抜きは出来ない。この措置は、やむを得ない事と言えるのだ。
「昼間から、堂々とやって来るほど、大胆不敵でもあるまい。我々も相互に休息を摂るとしよう」
「そうですな」
バーグマン大佐がそう返答したのを合図とし、艦橋内もリラックスした空気となった。こうして警戒任務に就いてはいるが、何も起きなければ、一ヶ月のピクニックと言っても差し支えは無いのだ。寧ろ忙しいのは、食料などの物資を運びながら往復を繰り返す、輸送船団の方である。艦隊には十二隻の輸送船が随伴しているが、その中身を全艦隊員が必要とするため、これだけ揃えてあっても、一週間保つかどうかと言うところなのだ。兵站が切れれば、兵は戦えない。影の功労者……それが、彼らコンボイなのである。
(落ち着いた、か……しかし、この胸騒ぎは何なのだ? 何か、不吉な予感がしてならない……)
ファブレイドは、艦橋の指揮官席から海面を凝視しながら、その『予感』の正体が何なのかを、頻りに考えていた。
***
「へえぇ……これは凄い!」
「まぁ、二人用船室の壁をぶち抜いて、広い部屋に改造しただけなんだけどな」
充分だよと、キースは大喜びだった。船室二つ分の広さがあれば、治療室の奥にベッドを二つ置いた入院設備も作れる。更に、診察室の奥に仕切を設けて、自分の執務室を作ることも出来そうだった。これに、彼が満足しない訳はなかった。
「有り難うキャプテン。これなら航海中も、しっかりした治療が出来るよ」
「あぁ、存分に腕を振るってくれよ。何せ、こっちは病院関係の事は全くの素人だ。お前に任せるしか、無いんでな」
任せてくれ、とキースは胸を叩いた。あとは、この広大なスペースに、医療器具を調達して搬入すれば準備は整う。そんな事は一人でも充分に出来るので、早速とばかりに、彼は街へと繰り出していった。
「災い転じて福となす……思わぬ拾い物でしたな」
「カーティスか。あぁ、まさかこの船に、病院が付くとは思いもしなかった。嬉しい誤算って奴だ」
意外な展開となったが、フレデリカも船員たちも、この決定には満足していたようだった。今までは、怪我をしても体調を崩しても、船が陸に着くまではどうにもならなかったのだ。それが一気に改善される事になるため、彼らとしても医療設備の設置は望んでいたものだったのだろう。
「さぁ、あとはロレインが戻ってくるのを待つだけだね」
フレデリカは、航海計画書に目を通しながら、声を弾ませてそう言った。ロレインの容態も順調で、じきに退院出来るという報告を、彼女は既に受けていたのだった。
こうして、強力な医療班を新設したゴールデン・ハインド号は、もはや何度目かすら分からない、ノルウェー沿岸へ向けての航海に乗り出す事になった。
***
出航から十日目。フレデリカたちは、スコットランドを左舷に見ながら、北海を北上していた。
「間もなく、回頭ポイントに到達!」
「よぉし、面舵! 三時の方向に転進せよ!」
「宜候ー!」
威勢の良い掛け声とともに、船員たちの動きも良くなっていく。彼らの脳裏には『今度こそ』という言葉が、何度も繰り返されていた。ただ、その中で、例外が一人居た。キースである。彼は、この航海が初参加であった為、船員たちの抱く不安を、まだ理解していなかったのだ。
(聞くところによると、何者かに妨害されて、目的を達成できないとか……邪魔をしているのは、誰なんだ?)
そんな事を考えながら、キースはただ、負傷者や病人が出ないように……それを祈っていた。
やがて、ノルウェーの領海まであと僅か……と云う位置まで到達したとき、その『邪魔者』の姿が視界に入った。
「やはり、今回も居やがりますぜ」
「チッ……毎度毎度、よくもまぁ……あのクソ親父!」
その、フレデリカの言葉を聞いて、キースは『えっ!?』と声を上げた。然もありなん。彼の目に映っていたものは、自分の古巣である英国海軍の艦隊だったのだから。
「キャプテン? 今、何と?」
「あ? あぁ、クソ親父って言ったのさ。それがどうした?」
「親父、って……父親、って意味の!?」
「そうだよ、それ以外に何がある?」
何という事だ……と、キースは愕然とした。つまりフレデリカは、自分の父親が指揮を執っている英国海軍とのいがみ合いを、ずっと続けてきたと云う事になる。要するにこれは、非常にスケールの大きい親子喧嘩に付き合わされているのと同義なのだ。
「それじゃあ、あの嵐の夜に、僕らを拿捕しようとしたのは……」
「そうさ、奴らとの交渉に役立つかと思ったからだよ。尤も、お前にはそれ以上の値打ちがあったけどな」
そういう訳だったのか……と、キースは今更ながらに納得していた。成る程、英海軍に進路を妨害されてノルウェーに近付けないなら、人質を盾にして交渉し、道を空けて貰えばいい。何とも単純で、分かりやすい理由だった。しかし、元軍人の立場としては、実に複雑な気持ちであった。
(そうか……『意地がある』ってのは、これの事だったのか。しかし、もう後には引けない……)
キースは、嘗て自分が身を置いていた集団を向こうに回し、その敵になる事を、この時点で改めて決意した。いや、そうせざるを得ないのだ。何しろ、我が身をこの船に置いてくれと、自分の口から云ってしまったのだから。それを覆す事こそ、本当の『裏切り』になると、彼は理解していたのである。
(無償版は此処までとなります。その後の展開は本編にてお楽しみください)