人の姿かたちを持ちながら、その存在は異形。
血を求め徘徊する吸血鬼のように、彼らはヒトの「記憶」を求めて彷徨い歩く。
そして、彼らの虜になったヒトは、「記憶」を少しずつ切り取られ……
やがて彼らも、異形の存在と化して行く。
本人には判らない、微かな違和感……
ともすれば、知らぬ間に「人生」そのものを抜き取られてしまう危険をも孕む、恐るべき存在。
人はそれを、血を吸って代わりに痒みを残す蚊になぞらえ、皮肉を込めてこう呼んだ。
『モスキート』と……
「ねえ、シンちゃん」
「ん?」
「キスマーク、つけてもいい?」
「い、いちいち訊くなよ。別に構わないけど……何で?」
「シンちゃんが私の彼だっていう、私なりの『証』にしたいの」
「ふぅん? そんなもの無くたって、俺の気持ちは変わらないけどなぁ」
「いいの。シンちゃんがその『証』を見て、私のことを思い浮かべてくれたら……とても嬉しいから」
「記憶喪失にでもならない限り、俺はお前を忘れたりしないよ」
「うん。ずっと、ずっと……忘れないでね……」
「え……課題!? ンなもんあったっけ!?」
ホームルームも終わり、まもなく一限目が始まろうかというタイミングで、悲痛な叫びが教室に響き渡った。
「ハーイ、シンジ~! 課題忘れ連続三十回達成!!」
「すげぇぞ、この偉業は並大抵の事じゃ達成できないぜ!!」
周囲からの野次を受け、ガックリと肩を落とす彼──石塚慎二。彼は今、何を思いながら天を仰いでいるのだろうか……少なくとも、大記録の樹立に歓喜している訳では無い、という事だけは確かであろう。
と、そこに、そっと近付いてきた一人の女子が、コッソリとフォローを入れた。
(シンちゃん、ほら……ノート貸してあげるわ。それを提出すれば、課題忘れはパスできるよ)
それを聞いて、パッと慎二の表情が明るくなった。が、そのノートを受け取ってしまったら、彼女はどうなるんだ? と思うと、安易に受け取ることは出来ない。彼は小声で、その女子に問い質した。
(沙希、いいのか?)
(大丈夫よ。それ、新しいノートに、課題の部分だけ書き写した奴だから。私の分は……ね、ここにあるから)
そう言って、彼女は自分の分がちゃんと確保してある事を証明してみせた。これならば、そのノートを安心して借りる事が出来る。
(助かる。有難く使わせてもらうぜ)
(どう致しまして。お礼はデートの時にしてくれればいいよ)
と、ノートを手渡してもらう慎二だったが、彼はイマイチ腑に落ちないといった表情を浮かべていた。慎重派を自負しており、以前は忘れ物なぞ滅多にしなかったのだが、最近は酷すぎる……今回の課題の件も、忘れたと言うより、『覚えていない』というニュアンスに近いのだ。
そんな大事な事を聞き漏らすほど、他の何かに集中していた覚えも無い筈だ……いや、そもそも、どうして彼女は課題のノートを予め二冊用意していたのだろう……と、考えているうちに教科担当の教師が入ってきて、授業が開始された。
後ろの席から前の席の人に手渡す形で、順に課題のノートが回収されていった。慎二もさり気なく、その中に先ほど借りたノートを滑り込ませた。そして、提出者のチェックが粗方済んだと思われるところで、教師が口を開いた。
「あ~~……小野寺ぁ」
「はっ、はい!」
「オマエさんのノートが二冊出ているな。代わりに石塚ぁ、オマエのノートは出とらんぞ」
しまった! という顔で、二人は目線を合わせた。ノートを貸した彼女──小野寺沙希が、ノートに自分の名を書いてしまったのだ。
「ひゅ~! 小野寺、やさしー!」
「でも、詰めが甘い!!」
「あ~~、静かに……石塚に小野寺ぁ、あとで職員室に来るように」
沸き返る生徒達の喧騒を退け、教師が慎二と沙希を交互に見ながらゆっくりと告げた。かくして、彼女のフォローは裏目に出て、二人仲良く説教を食らう事になるのだった。
**********
「はぁ……どうしてこんな事になっちまったんだろ?」
昼休みの屋上で、慎二は隣でアンパンをかじりながら牛乳を飲んでいる友人、神谷尚之に話し掛けた。彼もまた、以前の慎二を知っているだけに、今の彼の様子を不思議に思っていた。
「高校に上がってからだよな? 忘れ物するようになったの」
「っていうか、忘れたってより、聞いた覚えすら無いって感じなんだけどな」
「おいおい、健忘とか、ヤバイ病気の前兆じゃねェの?」
「冗談じゃねェよ。この年でアルツとか、洒落にならねぇだろが」
と、慎二が切り返した時、彼らの共通のクラスメイトであり、とある理由で沙希の存在を面白くなく思っている女子──牧野香織が割り込んで来た。
「あの女の所為に決まってるわ。あの子が纏わり付くようになってからよ、絶対!」
「マッキー……」
屋上の風を背後から受け、肩の高さに揃えられた髪をなびかせながら、彼女は近付いて来た。
「まぁ~、確かに沙希ちゃんは可愛いけどな」
「オイ、バカ、声でけェよ。俺と沙希が付き合ってんの、皆には内緒なんだからな」
「もはや、公然の秘密状態だと思うがね」
尚之のツッコミを、慌てた慎二が返し、それをまた『何を今更』と云った感じで尚之が返した。そんな彼らの漫才のようなやり取りを見て、香織が『無視するな!』とばかりに迫った。
「とっ、とにかく! あの子の所為に間違いないと思うわ、早く別れた方がいいわよ! ろくな事ないんだから!」
「オイオイ、マッキー……」
「そうよぉマッキー、ちょっと酷くなーい?」
敢えて名前は出していないが、誰の事を指しているかは直ぐに分かる……そんな一方的な言い様に、やや呆れた感じの慎二が物言いを付けようとしたその時。香織の背後に、いつの間にか、ロングヘアをたなびかせた沙希が立っていた。
「……!! な、馴れ馴れしくしないで! 私、アナタにマッキーだなんて呼ばれるほど、親しくない筈よ!」
「あ~……じゃ、牧野サン。私の所為ってのは……無くはないんでしょうけどね。仮にも彼女なんだし、私の事に夢中になって……っていう時も、あるとは思う。でもね……」
香織の反論を涼しい顔で躱した沙希は、貴女の言い分にも一理あると評したところで一旦言葉を切って、くるっと後ろを向き、慎二に近寄りながら更に言及を続けた。
「全部が私の所為ってのは、根拠の無い邪推に過ぎないし、ちょっと酷いと思うな」
「ふん……いいわ、せいぜい彼女面してなさいな。いつか、化けの皮を剥がして……!」
そこまで言い掛けた香織だったが、突然のアクシデントの為、セリフを続けるどころではなくなっていた。屋上のフェンスギリギリに立ち、脚を肩幅に開いて颯爽とポーズを決めたは良いが、不幸にもそこを突風に見舞われ、彼女のスカートは見事に捲れ上がっていたのである。
「お、覚えてらっしゃい!! ……あ、いや、忘れて!! 今すぐ忘れて!!」
と、スカートを押さえつつ、後ろ向きに去って行く香織を目で追いながら、何とも言えぬ……と云った表情の慎二が呟いた。
「……気の毒なやっちゃな」
「あぁ……しかし、慎二?」
「なんだ?」
そんな慎二に、やはり顔は香織の方へ向けたまま、目線だけを横に移した尚之が問い質した。
「マッキーって、小学校の頃はお前と一緒だったんだろ? クラスとか」
「あぁ、四年のクラス替えから卒業まで、ずっとな。中学は別だったけどな」
「前から、あんなにキツかった訳じゃないんだろ?」
「あの頃? ……そうだなぁ、少なくとも、あんなにトゲトゲはしてなかったなぁ。むしろ、明るくて元気な人気者だったよ。見た目も可愛かったから、男子にも人気あったみたいだし」
やや上方を見上げ、一つ一つ思い出すように語る慎二の回答を、尚之は『ふぅん?』という感じの表情で聞いていた。そして、二人のやり取りを傍で聞いていた沙希が、そこに割り込んで来た。
「その時、誰かが好きだったとか、付き合ってる相手が居たとかは?」
「小学生だぜぇ? ま、気になる奴ぐらいは居たかも知れないけどさ、色恋っていうのは、まだ意識しないだろ」
「そうでもないわよ? 特に女子は、そういうのに目覚めるの、早いんだから」
「そ、そういうもん?」
沙希の問い掛けに、慎二はにべもない口調で答えた。そんな彼のリアクションを真正面から受けた沙希は、香織への憐れみで、思わず苦笑いを浮かべていた。
「で、高校でお前と再会したら、いきなり沙希ちゃんにお前を取られた。そんで、笑ってられなくなった……と」
「ちぇっ、何だよそれ」
尚之の放った一言は、痛烈な一撃となって慎二の胸に突き刺さった。それを受けて、慎二は口を尖らせ、顔を背けてしまった。そして、その抗議を軽くあしらうと、尚之は続けて沙希に話し掛けた。
「沙希ちゃんもさぁ。マッキーと険悪になる理由、判ってるんだからさ。わざわざ煽らなくても良いじゃん」
「ひどぉい、煽ってるつもりは無いわよ。ただ、向こうが絡んでくるから。私は、やんわりと躱してるつもりなんだよ」
「まぁ……マッキーにとっては、沙希ちゃんが何言っても、腹立つのかな?」
沙希の切り返しを受けて、彼女と香織の立場を客観的な目線で評価した尚之の一言は、短くはあったが的を射ていた。そしてその傍らで、慎二はボーっと香織の事を考え、ブツブツと呟いていた。
「あいつもなー、笑ってりゃ相当かわいいのにな。今だって、あいつを狙ってる男子、結構居るだろうし」
そんな慎二の独り言を聞いて、これだからコイツは……と呆れ顔を浮かべた尚之が、沙希にフォローを入れた。
「無神経な奴だなぁ。沙希ちゃん、何か言わなくていいの?」
「いいの。マッキーが彼を狙ってるのは知ってたし、彼がその辺に無頓着なのも判ってるわ。それを承知で彼に迫ったんだもん」
沙希は屈託のない笑みを浮かべ、キッパリと言ってのけた。そんな彼女を見て、尚之は思わず心中で慎二に悪態を吐いていた。
(はぁ……慎二よぉ、オマエ、とんでもなく幸せなポジションに居るんだぜ。分かってるか? 多少の物忘れなんか、問題にならねェよ。ちきしょう、俺と替われってんだ)
彼の心の呟きは、誰に届く訳でもなく、虚空に消え去った。その時点で香織に関する話題も終わり、そのまま他愛の無い会話に興じるうちに時間は経ち、昼休み終了の時刻が迫っていた。
「んー、っと。さて、教室戻ろうぜー」
と、いち早くそれに気付いた尚之が腕時計に目を落とし、未だ談笑を続けていた慎二と沙希に声を掛けた。
「えっ、もうそんな時間?」
「五限目……あー、物理か。うん、大丈夫、これは課題は無かったよな。教科書もあるし」
「なんか、忘れ物にムラがあるんだよな、オマエ」
「ホント、何でだろうねェ?」
と、男二人が不思議そうに会話する中、沙希は一人、ぺろりと舌を出していた。意味深に、ただニコニコと笑いながら、彼女は慎二と尚之の後にくっついて教室に戻るのだった。
**********
「モスキート?」
次の日の昼休み、昼食を終えて屋上で寛いでいた慎二に、香織が話し掛けていた。慎二が沙希と恋人として交際している事は、表向きには秘密という事にしてあるので、彼女は学校ではなるべくその素振りを見せないようにしている彼らの隙を付いて、慎二が一人で居る時を狙って近づいて来るのだった。
「そう、モスキート。知ってる?」
「ん。名前ぐらいは、な。最近話題になってるウィルス感染症の事だろ?」
慎二が正解を口にしたことで、香織は『食いついた!』と心の中でガッツポーズを決めた。が、彼女は懸命にその表情を隠し、説明を続けた。
「そう。で、そのウィルスは、空気感染はしないっていう話なのよね」
「つまり、肝炎みたいに、感染した人に触ったりすると伝染するっていう事か?」
「らしいよ。ただ、触るだけじゃなく、噛み付いて感染させるって話もあるね。それでね……噛み付かれたら、その人も噛み付いた人と同じ体質になっちゃうんだって」
どこで仕入れた知識だろうか。香織の説明には、ところどころ憶測で語られる、怪しい部分が混じっていた。が、懸命に説明する彼女を見て無下に扱えるほど、慎二は冷たい男ではなかった。
「へぇ、ドラキュラみたいだな?」
「そこがミソよ。ヴァンパイアは血を吸うけど、モスキートは人の記憶を吸い取る、って話よ」
「……記憶?」
話が段々と熱を帯びて行き、香織が『記憶』というキーワードを出した時、慎二は彼女がこの話題を持ち掛けた意図に気が付いた。
「ははぁ。俺が最近物忘れが多くなって来たんで、記憶を吸われてるんじゃないかって思ってるんだな?」
「ま、そういう事だね。心当たりは無い?」
「心当たりも何もなぁ。噛み付かれて気付かないほど、鈍感じゃないしなぁ、流石に」
「そっかぁ……」
「あ、うん。注意はしておくよ。忠告サンキュな。要は、噛み付かれなきゃいいんだろ?」
当てが外れたか、香織は少しガッカリしたような表情になった。そんな彼女をフォローする為か、慎二はニッコリ笑って、彼女の説明に感謝の意を表していた。
「クスッ。その笑顔、昔と変わらないね」
「そ、そうか?」
昔を思い出したか、香織の頬が朱に染まった。彼女は小学生の頃から慎二に想いを寄せていて、当時は慎二も香織を良く構っていたのだ。あの頃にちゃんと捕まえておけば良かったと、彼女は今更ながらに後悔していた。
「で、モスキートってね? ホントにヴァンパイアみたいに、首筋に噛み付くらしいわよ」
「え……首筋?」
「そう、こんな風に……」
「ちょ、マッキー! 近い、近い!!」
香織は、慎二の首筋に噛み付く真似をして、彼の身体に覆いかぶさるような格好になっていたのだ。流石の慎二も、この行動には顔を赤らめ、本気で抵抗していた。彼女は飽くまで、モスキートの行動を模した演技をしているだけ……なのであろうが、客観的に見れば、これはどう考えても『恋人同士の絡み』としか思えないだろう。こんな所を他の生徒に……なかんずく、沙希に見られたりしたら、拙い。そう危惧した彼は、懸命にその場から逃れようとした。
……が、その時。香織は慎二の首筋に、アザの様な跡を見付けた。アザと云うよりは、虫刺されの跡を掻いた時の、僅かな赤みと表現した方が近いようなものであったが……それが何となく気になった彼女は、それとなく慎二に問い質した。
「慎二君、この首筋のアザみたいな……これ何?」
「こ、これは沙希が……あ、いや!!」
「……!!」
慎二は慌てて首筋を押さえ、その『アザ』を隠した。が、そのリアクションを見た香織は、一瞬で顔を真っ赤に染めて、両手で頬を覆っていた。彼女は、それが沙希によるキスマークだと、瞬時に理解したのだった。
「あ~……その、なんだ。一応ホラ、つ、付き合ってるわけでさぁ」
「……もう、いいっ!!」
羞恥心からか、それとも敗北感からか。いたたまれなくなった香織は、顔を赤く染めたまま、ダーっと駆け出していた。
「お、オイ、マッキー!」
背後から慎二が呼びかけていたが、流石にこれに振り向くほどの余裕は無かったのだろう。香織はそのまま、走り去っていった。
(いつか絶対、あの女を彼から引き離してやる!! あの女の目……アレは本気の目じゃない。絶対に彼は騙されてる!!)
内心でそう叫びながら香織は、沙希への敵意を更に固めていった。その場に残された慎二は、香織の言っていたキーワードを反芻するかのように呟きながら、思考の闇に落ちた。
「モスキート、か。確かに、そんなモンに襲われてるっていうんなら、最近の物忘れの酷さも納得いくかな。でも俺は、蚊なんかに知り合いは居ないしなぁ。あいつの勘ぐり過ぎだろ」
そして彼も、五限目の予鈴が鳴る前にと、教室へ戻っていった。
**********
放課後、人気のなくなった教室で、一人机に向かう影があった。
「六時か。もうそろそろ、かな?」
沙希は既に、今日の分の課題を完了させていた。自分の分を済ませてから慎二の分を書き写すので、時間が掛かる為、この時間を利用するのだった。尤も、彼女が慎二の分の課題も用意するのには、理由があるのだが……
「お待たせー、帰ろうぜ」
「あ、今行くよ、待ってて」
慎二が生徒会副会長の任に就いているので、沙希は活動終了時刻まで教室で待っているのが習慣になっていた。そのため、帰りが遅くなる事もしばしばだった。が、彼女にとってはこの待ち時間も別に苦痛ではなかった。部活をやっているようなノリなのだろう。
慎二は窓際にもたれ掛かって、カバンにノートや参考書を入れ、帰り支度を整える沙希の姿をボーっと眺めていた。その視線に気付いた沙希は、悪戯っぽく笑いながら、視線の送り主に声を掛けた。
「……何?」
「あ、いや、なんでも……そういえばさっき、またマッキーに絡まれてたみたいだな。大丈夫だったか? フォローできなくてゴメンな」
照れ笑いを浮かべながら、窓の外へ視線を投げた後、慎二は思い出したかのように別の話題を振って、再び沙希の方へ目線を向けた。それを受けて、沙希はクルッと慎二の方に向き直り、一瞬で間隔を詰めて来た。
「マッキーの攻撃は、もう慣れたよ。ヤキモチを妬かれるのも、ステータスのうちだと思ってるしね」
「ヤキモチ? まさか、俺とマッキーはそんな関係じゃねぇよ」
昼間の事を思い出し、一瞬後ろめたい気分になる慎二だったが、彼は巧みにその表情を隠した。しかし沙希は、クスッと笑って慎二の唇に人差し指を付け、次の台詞を制した。
「そう思ってるのはシンちゃんだけだよ。彼女、かなり真剣だからね。私も気をつけなきゃ」
「そ、そうかぁ? ……ま、いくら迫られても、お前以外の女を好きにはならないけどな」
「くす……」
暫し見つめ合い、笑みを浮かべると、彼らは吸い寄せられるように、互いの顔を近付けていった。だが……
「あ~~、コホン」
「……!?」
「……!!」
教室の後ろ側の出入り口から見ていた尚之によって、二人は現実に引き戻された。
「な、尚之……見てた?」
「全く、お前らなぁ。少しは遠慮しろよな。見てる方には目の毒なんだからさ」
「あ、あはは……」
バツが悪そうに、沙希と慎二は笑ってその場を誤魔化した。そんな二人を見て、尚之は呆れるしかなかった。
「やれやれ……あ、そうそう。慎二、お前にCD貸してたよな。アレ、そろそろ返してくんねぇ?」
「ん、判った。長いこと借りてて、悪かったな」
「いいって事よ。じゃ、それだけだ。あんまり学校でイチャ付くなよ? バレたって知らねぇぞ」
「ははは……」
それだけ言うと、尚之はそそくさと帰ってしまった。彼が去った後には、良いムードになっていたところを邪魔され、何となく白けた感じになってしまった慎二と沙希が残された。
「……んじゃ、そろそろ私たちも行こうよ」
「だな」
沙希は帰り支度を終え、出入り口で慎二を待っていた。彼らが教室を出る頃には、すっかり陽は傾いていた。
**********
「もうすぐ衣替えだね」
「あぁ。暑くなって来たし、そろそろ冬服じゃ辛いな」
二人は帰り道、学校から少し離れた公園に寄り道していた。この公園は駅とは反対方向にある為、人通りが少なく、同じ学校の生徒に見付かる確率が低いので、二人の気に入りの場所になっていた。
「ねぇ、シンちゃん。昼休み、マッキーと何話してたの?」
「え……!」
慎二にとって、疚しい事は何も無いのだが。やはり、どこかに負い目はあるのだろう。彼は少し慌てた感じになり、視線も泳ぎ始めていた。
「あ、あれは! も、モスキートの話が出てさ。ほ、ホラ、知ってるだろ? あのウィルスの。で、ドラキュラみたいに噛み付くんだよね、って話になって……それで……」
言い淀むうちに、慎二は少しどころではなく、かなり慌てた口調になっていた。そんな彼を見て、沙希はクスッと笑った。
「そんなに必死にならなくていいよ、シンちゃんを信じてるし。でも……そろそろ、付き合ってるのを隠すの、やめにしない?」
「う……で、でもなぁ……」
「何よぉ、私と付き合ってるって皆に言うのが、そんなに恥ずかしい事なワケ?」
「そ、そうじゃないって。な、何ていうのかな……や、やっぱホラ、照れるしさ」
その、やぶ蛇とも言える申し出に、慎二は思わず逃げ腰になった。が、然もありなん。彼は未だ『女子と深い仲になっている』ところを他者に見られる事に慣れておらず、今ひとつ積極的な姿勢になれなかったのだ。
「そうやって隠してるから、学校で一緒に居られないんじゃない。だから、今日みたいな事になるんだよ」
「う……」
沙希は俯き加減になり、上目遣いで慎二の目をじっと見詰めた。そして慎二は、この目線に弱かった。
「……ゴメン沙希、そんな風に思ってたのか。うん、頑張ってみるわ」
「……ほんと? 私……ん……」
沙希がその台詞を言い終わる前に、慎二の唇が沙希の唇を塞いでいた。他者の目を気にする面がある一方で、逆に『見られてなければ全てOK』と考える慎二は、沙希の『ツボ』を的確に捉え、そこを執拗に攻めていた。この切り替え……いや、豹変ぶりは、見事としか言いようがないものであった。
「さっきは、尚之に邪魔されたからな」
「えへへっ!」
沙希は慎二に身体を摺り寄せ、ネコのように甘えた。そして、しばらく抱き合った後、慎二の首筋に唇を寄せた。
「沙希、それ好きだなぁ」
「シンちゃんが私の彼、っていう証だもん。消えないように、ずっと続けるんだから」
「バカ。そんなの無くたって、俺はお前を……ん……」
沙希の唇が首筋を伝う瞬間、慎二は頭がボーっとするような感覚に見舞われた。
「……くっ、はぁ。俺、首筋よわいのかな。それやられると、頭が真っ白になるようだぜ」
「クス……」
そのまま抱き合う格好で、二人は暫し余韻を楽しんだ。そのとき沙希は、ニヤッと笑い、心の中で呟いていた。
(クククク……シンちゃん、今日もご馳走様!)
……勿論、その表情は、慎二からは見えなかった。
**********
「シンちゃん、おはよー!」
「あふ……あ、あぁ、おはよ」
翌日、朝の待ち合わせの時刻。欠伸をしながら改札前に立っている慎二に、沙希が声を掛けた。
「眠そうだね?」
「あぁ。昨日の課題、結構手間取っちゃってさ」
「え、そんなに難しかったかな?」
「それが、夕べも頭がボーっとしちゃっててさ……最近多いんだ、こんな事がさ」
沙希の問いに、慎二はボーっとした表情を浮かべたまま答えた。誇張などではなく、本当に眠そうな顔である。
(ふぅん、課題は忘れなかったのか)
笑顔の下で、沙希は何やら呟いていた。しかし、そんな彼女の内心など、慎二は知る由もなかった。
二人が教室に着くと、まず出入り口付近に席のある香織と目が合った。慎二は、目線だけを此方に向けている彼女に声を掛けた。
「おはよ、マッキー」
「……おはよう」
これ見よがしに慎二のすぐ隣に占位している沙希を見て、香織は明らかに不機嫌そうな表情を浮かべていた。が、それを見た慎二は、すぐさま沙希に対してフォローを入れていた。
(気を悪くするなよ。アイツだって、悪い奴じゃないんだから)
(大丈夫だよ、気にしないで)
耳打ちでフォローを入れてくる慎二に、沙希は笑顔で応えた。それから少し経って、予鈴が鳴る直前。今度は尚之が教室に入って来た。
「おぅ尚之、相変わらず遅いな」
「血圧低いからさー、朝は弱いんだよ……あ」
カバンを置きながら応える尚之が、思い出したように、慎二の方に向き直った。
「そうそう慎二、CD持ってきたか?」
「え……? 何の話?」
「……へ?」
慎二は、尚之の問い掛けに対して、驚いたような表情を浮かべながら応えた。彼は明らかに、昨日約束した事を忘れていた。
「おーい慎二ぃ、アタマ大丈夫か?」
「あ……俺、何か約束してた? ゴメン、マジで思い出せねぇや」
そんな慎二に呆れながら、尚之は大きく表情を崩した。そして彼は、続けて傍らに居た沙希に問い掛けた。
「なぁ沙希ちゃん、その話したときに一緒に居たよね?」
「え? あ、うん。確かに約束してたよ」
「そ、そうだっけか……ダメだ、さっぱり思い出せねぇ」
「ほらぁ、神谷君のCDを持って来るって、約束してたじゃない」
「マジか? 俺、ホントに思い出せないんだけど」
慎二は本気で落ち込んだ。彼にとってその話題は『思い出せない』というレベルではなかった。嘘偽りではなく、本当に聞いた覚えすら無いのだ。
「ちぇっ。あんな事をしようとしてた位だから、どうせ上の空だったんだろ?」
「ば、バカ! 声でけぇよ!」
「そっちはしっかり覚えてるんだからなぁ、やれやれ。明日は忘れんなよ」
「あ、あぁ。スマン」
そんな二人の会話を聞きながら、沙希は心の中で呟いた。そう、慎二の『物忘れ』について、彼女はその理由を良く知っていたのだ。
(成る程。課題の代わりに、こっちを忘れたんだ。ダメだなぁ、上手くコントロールできるようにならないと)
そして、その一部始終を後ろから見ていた香織は、自分の推理が正しい事を確信していた。
**********
「だからぁ、絶対にモスキートよ!」
「そ、そうかなぁ?」
昼休み。昨日同様、慎二は屋上で香織に捕まっていた。話題は勿論、今朝の教室で彼が演じた失態についてだった。
「だって、約束する前後の事は覚えてて、その会話だけが記憶に無いんでしょ?」
「ん~……でもなぁ、尚之の言う通り、俺がボーっとしてただけかも知れないし」
段々とヒートアップしてくる香織と対照的に、慎二は引き気味だった。彼が香織に対して弱気になる理由など微塵も無いのだが、やはりここまで執拗に迫られては、どうしても腰が引けてしまうというものであろう。
「それにさ、モスキートって、噛み付くって話だろ? 俺、噛み付かれてなんか無いし」
「もう! その約束をする前、何をしてたんだかは知らないけど……」
「うっ……そ、それは……」
「何よ、言えないような事なの? 一体……ひゃう!!」
更に迫る香織だったが、彼女は突然『膝カックン』をされて会話を中断させられた。彼女が驚いて振り向くと、そこには手をヒラヒラさせながらニコニコ笑う沙希の姿があった。
「さ、沙希……」
「お待たせ、シンちゃん」
和やかに会話を進める沙希を、いまだドキドキ言っている胸を押さえた香織が遮った。
「なっ、何よ! いま大事な話をしてるのよ、邪魔しないで!」
「そっちこそ、私の彼にしつこく付き纏うの、やめてくれない?」
「な……っ!」
いきなり最強の呪文を唱えられ、香織は言葉を失ってしまった。慎二の身を案じての意見であったため、斯様な形で強引に会話を中断させられるのは納得いかないが、現状で更なる発言を重ねる事は難しい。彼女は悔しそうな表情を浮かべつつも、素直に引き下がった。
「くっ……まあいいわ。慎二君、私の推理、間違ってはいないと思うわ。真剣に考えてね」
「あ、あぁ」
それだけ言うと、香織は踵を返して去って行った。その後姿を目で追う慎二に、拍子抜けしたと言った感じの沙希が問い掛けた。
「昨日の放課後、何してたか訊かれてたの?」
「あ、うん、それもある」
「『も』?」
屋上のベンチに腰を下ろし、ランチバッグを広げながら、沙希は不思議そうな表情を浮かべた。
「昨日もちょっと話したと思うけど、マッキーの奴、俺がモスキートに襲われてるんじゃないか、って」
「はぁ、なるほどね」
「でもなぁ。俺はあの後、お前としか会ってないし。うちの家族は論外だしなぁ。それに第一、モスキートって伝染するんだろ? 俺、そんな事になってないもんな」
「そんなウワサ気にしちゃダメだよ、シンちゃん。偶然が重なっただけだよ……さ、お弁当食べよう! 早起きして頑張ったんだよ、私!」
と、思考の闇に堕ちそうになる慎二に、沙希が食事を勧めた。彼の目の前には、沙希の手作り弁当が広げられていた。
「おお、すげぇ!! これ、全部手作り!?」
「うん、お弁当箱と箸以外はね」
「は……初めて食べる『彼女の手料理』が、こんなにハイレベルとは」
「あはは。早く食べようよ、昼休み終わっちゃうよ」
ふと周りを見渡すと、他の男子の羨望の視線が突き刺さるように飛んで来ていた。未だに照れはあったが、彼女が懸命に作った弁当と、その彼女の満面の笑顔を目の前にしては、周りの視線など取るに足らないものであった。むしろ慎二は、この時点で、かなり優越感に浸っていたのだった。
そんな慎二を見て、沙希も嬉しそうに微笑んでいた……しかし彼女は、心の中で舌を出していた。
(シンちゃんには、いつもご馳走になってるもんね。せめてものお礼よ)
無論、慎二にはそんな彼女の内心など、読める筈は無く。彼はすっかり舞い上がった状態で、弁当箱の中身に箸をつけていた。
「沙希、これ、メチャクチャ美味いよ!」
「やったぁ、有難う! 今度も頑張るよ、また食べてくれる?」
「勿論!!」
そのリアクションを見て、慎二は嬉しさで一杯になった。一方、沙希は、そんな慎二を見ながら、先ほどの香織の事を思い出していた。
(……彼女、気付き始めてるわね。警戒した方がいいかしら)
慎二ばかりが忘れ物をするので、余計に目立つのだろう。おまけに、香織の慎二を見る目は真剣であるため、尚更であった。
(別に、シンちゃん以外の人から記憶を吸っても、私自身は満たされるんだけどね。それだとモスキートだらけになっちゃうからなぁ)
「ん? どうした沙希、食べないのか?」
「う、ううん? シンちゃんがあまり美味しそうに食べてくれるから、嬉しくって!」
「か、可愛い事言うなよ」
慎二は弁当箱の中のプチトマトと変わらぬほど、真っ赤になった。そんな彼を見て、彼女はふっと笑った。
(ま、私にだって好みがあるしねぇ。シンちゃんには、騒ぎが大きくならないで済む秘密があるしぃ……)
真っ赤な顔の慎二の口に、これまた真っ赤なタコウィンナーを、沙希が自らの箸で運ぶ。所謂『あ~んして?』という奴だ。それを見た周囲の嫉妬の視線は、徐々にヒートアップしていった。
(やっぱ、シンちゃんに恋人で居てもらわないと、困っちゃうのよねぇ。だからぁ……)
「シンちゃん?」
「な、何?」
「……ス・キ!」
「……!! オープンにした途端、急に大胆になったんじゃない?」
「だってぇ、シンちゃんの所為だよ? 私、今までずっと我慢してたんだからぁ!」
「お、おい、よせって!」
『これでもか』というような勢いで、沙希は人目も憚らずに慎二にベッタリくっついて甘えた。一方、先程までの優越感は何処へやら、慎二は背筋に冷たいものを感じずには居られなかった。彼は、放課後まで無事に過ごせますように……と、心の中で祈っていたという。
「あー……雨、結構強くなってきちゃった」
「まぁ、止まなかったら、親父たちが帰ってくるまで居ればいいよ。送ってもらうように頼むからさ」
「えへへ。宜しくね」
日曜日、沙希は慎二の家に遊びに来ていた。慎二の父は仕事、母も外出していたので、家の中は沙希と慎二の二人だけである。本当は、軽く寛いだら出かける予定だったのだが、突然の雨で外出できなくなってしまったのだった。最初のうちは、ゲームをしたり、ビデオを見たりして楽しんでいたのだが、夕方近くになると飽きてしまい、慎二は床のクッションで、沙希は慎二のベッドに寝転んで、それぞれにマンガを読みながらダラダラし始めていた。
そして一冊のマンガを読み終え、続きを取りに行った沙希が、本棚の一点に注目した。
「あ……ねぇシンちゃん、卒業アルバム見ていい?」
「え? 別にいいけど、面白いもんじゃないと思うよ?」
その申し出は意外なものだったが、見られて困るようなネタもないし……と、慎二はOKを出した。その返事を聞いて嬉しそうに微笑んだ沙希が、本棚からアルバムを取り出して来た。そして二人でベッドに腰掛け、アルバムのページを捲った。
「小学生のシンちゃん、どんなかな」
ニコニコ笑いながら、沙希は集合写真から慎二の顔を探した。しかし彼女は、慎二の顔よりも先に、見知った別の顔を見つけていた。
「あ……ねぇ、これってマッキー? やだ、かわいい~!!」
「ん? あぁ、そうだよ、マッキーだ。同じクラスだったんだよな」
アルバムの中の無垢な少女を見て、沙希は現在とのギャップに驚いていた。当時の香織は、キツそうな表情ではあったが、パッチリとした大きな瞳を持った、文句なしの美少女だったのである。
「小学校でコレだもん、中学ではモテたろうなぁ」
「あぁ。笑ってる時はかなり可愛いんだよな、マッキー。ツンツンした態度で、随分損してるよな」
沙希との確執については充分に理解しているが、それを差し引いても、魅力的な女子である事に変わりはない……慎二は香織の事を、斯様に評価していた。そして、そんな彼の言葉を聞いて、沙希は少し拗ねたような顔になった。
「そうだよね……ちょっと妬けちゃうな」
「って、おいおい、『可愛い』と『好き』は別問題だろ。可愛いってだけでいちいち好きになってたら、心が幾つあっても足りないよ」
「あはは、判ってるよ。でも……」
「でも?」
慎二は慌てて弁解した。先日の一件以来、香織が絡んで来る機会が増え、沙希も香織に対して明らかに警戒するようになっていたのだ。そんな彼女の様子を知っていた慎二は次の台詞が気になり、思わず彼女の顔を覗き見た。
「ん……いいの、こっちのこと」
「……?」
沙希にしては珍しい、煮え切らない態度に、慎二は少し怪訝になった。そんな彼の視線を感じつつ、沙希は再びアルバムに目を落とした。そして彼女は、目的の人物の姿を見つけ、またも楽しそうに声を上げていた。
「シンちゃん見っけ! あはは、あんまり変わってない~!」
「悪かったな」
写真の中の彼は今と比べれば確かに幼いが、その印象は現在と変わらなかった。その、あまりにストレートな表現に、慎二はオーバーに膨れてみせた。そしてクラス毎の集合写真を見終わった後、二人は修学旅行の写真や、スナップ写真のページに目を移した。それらを見ながら、沙希がある事に気付き、ポツリと漏らした。
「シンちゃんの写ってる写真、ほとんどマッキーも一緒に写ってるね」
「え? あぁ、そういえばそうだな」
言われて初めて気付いた、と慎二は呟いた。オマケに、写真の中の香織は必ず慎二の方を向いており、いずれも仄かに頬を紅潮させているのだった。流石の慎二も、この表情を見れば、彼女が自分に特別な感情を抱いているという事に気付くというものだ。
「……シンちゃん、マッキーの視線、痛くなかった?」
「そんなの、気付く訳ないじゃないか。まぁ、仲は良かったけどさ、それは友達としてであって。特別な感情は無かったよ」
と、慎二は当時を振り返り、弁明した。しかし、改めて思い出してみると、アレは愛情表現だったのかな? と思える場面が、幾つもある事に気付いた。そんな慎二の表情から考えを読み取ったのか、沙希の顔に陰りが見え始めた。
「マッキーは私の知らない頃のシンちゃんとの思い出、たくさん持ってるのよね。その部分だけは、どうしても敵わないからなぁ」
「あ……」
沙希の意外なコンプレックスに気付き、慎二は驚いた。普段、明るく振舞って、決して弱気は見せない彼女が、そんな風に考えていたなんて……と。無論、彼には香織に対する下心など微塵も無い。だが、自分の香織への対応を、沙希がどう感じるかは別問題なのである。そう考えた慎二は、それが彼女の策略だとは露知らず、即座にフォローを入れた。
「……確かに、この頃からマッキーとは仲良かったし、今もアイツの事は可愛いと思うよ。でも、さっきも言っただろ? ラブとライクは違うんだよ。俺の彼女は沙希、お前だけだ」
慎二のその台詞に、沙希は俯いて頬を染めた。これも実は彼女の演技なのであるが、彼は勿論、その事に気付かない。
(クク……いいわ、そうやって貴方は私の掌の上で踊っていなきゃダメなのよ。その為には私も、健気な女を演じなきゃいけないけどね)
沙希は、上目遣いでじっと慎二の瞳を見つめた。と、慎二が彼女の首筋に手を回し、見つめ返して……唇を求めて来た。沙希は彼の意思に逆らう事無く、そのまま身を預け、唇を重ねた。
(そう……アナタは、私のもの。身も心も、ね)
慎二の身体に抱きつきながら彼女は、更に思考の闇に落ちた。
(私は……誰にやられたかは知らないけど……こんな身体にされてしまった。騒ぎを大きくせずに私を癒せるのは、坑モスキート体質を備えているアナタだけなのよ。だから……)
「……シンちゃん、アナタは私にとって、絶対に必要なの」
「え? な、何だよ、沙希。そんなこと言われたら、照れるじゃないか」
「……!! やだ、言葉に出てた!? ど、どこから!?」
顔を真っ赤にして、鼻の頭を掻きながら、慎二が沙希の問い掛けに応えた。
「そ、その……『私には、あなたが必要』って」
「あ、あはは……」
沙希は気まずそうに、自分の失言を笑って誤魔化した。が、慎二があまりにも照れ臭そうにしている為か、彼女はこの場を勢いだけで乗り切れると即座に判断した。
(……口に出ちゃったか。でも本当の事だしね)
そう思い直した沙希は、気まずそうな笑いをニッコリとした本当の笑みに変えて、慎二に向かって囁いた。
「そうよシンちゃん。私には、あなたが必要なの。どこにも行かないでね」
「あ、あぁ! 絶対に離れたりしないよ!」
そう言って慎二は、沙希の首筋に吸い付いた。それが照れ隠しの為の虚構なのか、欲望の開放なのかは分からなかった。しかし、彼の本音がストレートに表れた結果である事だけは、間違いなかった。
「あん……シンちゃん、それは私の役目だよぉ」
「いいじゃないか。沙希が俺にキスマークを付けるなら、俺も付けてやるよ。お前は俺のもんだ!」
「もう……」
夢中で吸い付いてくる慎二を沙希が制し、体勢を入れ替えた。反撃開始である。
「痛いよシンちゃん……こうやるんだよ。もっと優しく、やわらかく……ね?」
いつものように、沙希は慎二の首筋に吸い付いた。彼にとって、それはどのような感覚なのだろうか。快楽なのか……少なくとも、苦痛では無いだろう。彼はうつろな目で天井を仰ぎ、あえぎ声とも、呻きとも付かない声で、呟き続けた。
「さ……沙希……」
と、その時。慎二は短く手足を痙攣させたかと思うと、やがて全身の力が抜けたかのように、スーッとベッドに倒れこんで行った。
「あれ……シンちゃん、シンちゃん!?」
その様を見て驚いた沙希が、思わず慎二の顔を覗き込んだ。ベッドに倒れこんだ彼は、穏やかな顔で寝息を立てていた。
「……ちょっと、気合入れて吸いすぎちゃったかな。ま、あんなこと考えてたからかな?」
そんな事を考えながら、沙希が慎二をまっすぐに寝かせ、着衣の乱れを整えたところで、彼の母親が帰ってきた。
「ただいまー……あら小野寺さん、いらっしゃい」
「こんばんわ、お邪魔してます」
沙希はベッドサイドに腰を下ろし、慎二を見守る格好のまま振り返り、ニッコリと微笑んでいた。そんな彼女に対して、母親は慣れた感じで軽く挨拶をし、沙希もそれに応えた。
「あら、この子ったら、お茶も出さないで……慎二? もしかして寝てるのかい!?」
「それが……さっきまで話をしていたんですが、気分が悪くなったようで、急に寝込んでしまって」
「あらあら。それじゃ、ずっと見ていてくれたの? まったく、しょうがない子だねェ」
慎二が意識を失ったのは、紛れも無く沙希の仕業なのだが。彼女はそれを口には出さず、代わりにペロリと舌を出していた。
「この子がこんな調子じゃ、どうしようもないね。もう遅いし、送っていきましょうか?」
「あ、大丈夫です。一人で行けますから。雨も上がったみたいですし」
「そう? 何か悪いわね。あの子には、きつく言っておくから」
「そんな、お大事にと伝えてください」
そう言いながら、申し訳なさそうな表情を浮かべる慎二の母親に見送られ、沙希は彼の家を後にした。
(シンちゃん、いつもゴメンね。でも、私はモスキート。記憶を吸い続けてないと、頭がおかしくなっちゃうの。私には、貴方が必要……記憶を吸われても感染しない、抗モスキート体質の貴方じゃなきゃダメなのよ。だからシンちゃん、ずっと私の傍にいてね)
頭では分かっていた、悪い事をしているのだと言う事は。だが、それと安全の確保という問題は話が別だ。彼女はあくまでドライに、自分が優位になるように彼との関係を維持し続けた。しかし、その傲慢さが、後に彼女の運命を大きく変える事になるのだった。
**********
「シンちゃん、大丈夫だったかな。あんなリアクション、初めてだったからなぁ。流石に心配だわ」
月曜日。慎二の安否を気遣いながら、沙希はいつもの待ち合わせ場所に向かっていた。電車を降りて、プラットホームから階段を登り、改札を抜けた先の角の向こう……
居ない。いつもなら、先に到着して待っている筈の慎二が居ない。
「あ……あれ?」
変だな、寝坊でもしたのかな? と思いつつ、いつもとは逆に、沙希がその場で慎二を待つ事になった。しかし五分、十分と時間が経過しても、彼は一向に現れなかった。彼女は流石に心配になり、慎二の携帯電話に向けて発信しようとした。
──が、その時。
「おはよー。こんなトコでノンビリしてたら、遅刻しちまうぞ?」
背後から、馴染みのある声で呼びとめられた。それを聞いた沙希はホッと安堵し、いつもの調子で彼に語り掛けた。ところが……
「あ、おはようシンちゃん。昨日は……」
「……?」
声の主は、確かに慎二だった。しかし、様子がおかしかった。いつものリアクションとは違って、何やら驚いたような表情を浮かべる彼の姿が、そこにはあった。
「……あれ?」
「おいおい。今朝はやけにフレンドリーだな、小野寺」
「……え!?」
慎二の意外な……いや、意外すぎる反応に驚き、沙希は思わず目を丸くした。冗談にしては真に迫り過ぎているし、何より彼の表情は至って真面目なものであり、ギャグを言っているようには見えなかったのだ。
「どうした? そろそろ行かないとマジで遅れるぞ?」
「あ……うん……?」
特に沙希を気に掛ける様子も見せず、慎二は悠然と歩いて行ってしまった。そんな彼を、彼女は訳が解らんという表情で追いかけた。
(え……一体何なの? どうした……って、ま、まさか!?)
混乱する思考の中で、沙希はある結論に達した。だが、それを口にする訳にはいかなかった。そして、有効な話題も思いつかぬまま、いつの間にか彼らは教室へと到着していた。
「おぅ、おはよ。相変わらず仲いいなぁ」
声の主は尚之であった。彼もまた、いつも通りの挨拶をしただけのつもりであった。しかし……
「おっす。クラスメイトなんだし、一緒に登校したっておかしくないだろ? なぁ小野寺」
「……へ?」
慎二の意外なリアクションに、尚之は目を丸くして驚いた。先刻の沙希もそうであったが、いつもの彼とは違う反応に戸惑い、言葉を失ってしまっているのだ。
「何? 俺、何かおかしい事、言ったかな?」
「あ、いや……なんでもない」
「……?」
怪訝そうな表情を浮かべながら、慎二は自分の席にカバンを置きに行った。その、普段通りにしか見えない彼の様を見て、沙希は軽いパニック状態に陥っていた。
(あぁ、やっぱり。シンちゃん、『私が恋人』って事を忘れてるんだ!)
そう確信し、沙希は顔色を真っ青に染めた。そんな彼女に、慎二のリアクションを見て驚き、激しい違和感を覚えた尚之が、コソッと耳打ちして来た。彼も、いつもとは違う慎二の様子に戸惑い、事態を把握できずにいるらしい。
(どうしたんだよ、沙希ちゃん。奴とケンカでもしたのか?)
(ううん、そういう訳じゃないの……何でもないの)
(……? い、一体、どうしちゃったんだよ!?)
真っ青な沙希、平然と席に着く慎二、そしてオロオロする尚之……各々のリアクションを見ていた香織も訳が分からずに、ただ驚くだけだった。
**********
昼休みになり、屋上で一人パンをかじる慎二から少し離れた場所で、沙希が一人分にしては多すぎる弁当を寂しげに食べていた。その姿を見かねた尚之が、慎二に問い掛けた。
「オイ慎二、沙希ちゃんと何かあったのか?」
「またその話かよ。俺としちゃあ悪い気はしないけど、変な噂でも立ったら小野寺に迷惑だろ?」
「だ、だって、金曜は周りの目も憚らず、ベッタベタだっただろうがよ。ついこないだの話じゃないか」
朝からの慎二の反応が信じられず、尚之は更に追求を続けた。そんな彼を見て、慎二は面倒臭そうに返事をした。
「夢でも見たんじゃないのか? 俺と小野寺は、そんな関係じゃ無いぜ」
腑に落ちない……というより、尚之から見れば、慎二が意地を張っているようにしか見えなかった。只でさえ普段から慎二を羨んでいた彼は、思わず我を忘れて慎二に詰め寄った。
「本気で言ってんのか? 冗談にも程があるぞ。沙希ちゃんの弁当を見ろよ、どう見てもタップリ、二人分はあるぜ。あれはオマエの分なんじゃないのか?」
「だから違うって。そこまで言うんなら、小野寺に聞いてみろよ」
「…………」
尤もな切り返しであった。しかし尚之は、それを躊躇していた。何故なら、その質問に対して『イエス』という回答が得られる事は、明らかだったからである。だからこそ、こうして慎二を捕まえ、覚えがないかと訊いていたのだ……が、彼はそれをハッキリと否定している。これが虚言でない事も、また事実なのであろう。
結局、納得できないまま、尚之は慎二の傍を離れていった。そして沙希は、虚ろな表情で弁当の表面を突きながら、思考の闇に落ちていた。
(はぁ、参ったなぁ。よりによって、恋人としての記憶を抜き取っちゃうとはね。あの時いつもより反応が派手だったのは、大きな記憶の塊を抜き取っちゃった反動だったのね。でも……古いパソコンじゃあるまいし、何もあんな風に壊れなくたっていいじゃない)
とにかく、この事態は非常にまずい。沙希にとっては死活問題である。早急に手を打たなくては……と、彼女は焦り始めていた。
**********
「六時……そろそろ来るかな」
生徒会の活動終了時刻を見計らい、沙希は慎二を教室で待ち構えた。無論、今までとは状況が違うので、偶然を装っての行動である。
「あれ? 小野寺、まだいたの?」
「あ、シン……石塚君、生徒会だっけ? お疲れ様」
無人だと思っていた教室に、人が居た。その程度の気持ちで、慎二は沙希に話し掛けた。その言葉には、悪意は無いが好意も込められていない。昨日までとは、自分を見る彼の目が違う……それを再認識し、沙希の焦りが更に大きくなった。
「あぁ。小野寺は何? 居残りなんて話は聞いてないけど」
「家に帰ってからだと、サボっちゃうから。帰る前に、課題終わらせてたの」
沙希の話は、半分は嘘ではなかった。慎二の分の課題を片付ける時のクセが残って、もはや習慣化していたのだ。
「へぇ。それは結構だけど、もう暗くなるぜ。早く帰った方がいいぞ」
「うん……ね、良かったら、駅まで一緒に行かない?」
「あぁ、いいよ」
辛うじて、一緒に歩くチャンスは得る事ができた。しかし、いざとなると、何を話し掛けていいか判らず、ドギマキするばかりであった。学校を出て、街中を二人で並んで歩いていても、気が昂ぶって言葉の一つも出てこない。そうしている間に、駅までの距離は段々と詰まっていく。
(な……何やってんの、私は! 早く話し掛けて、チャンス作らないと)
出会った当時、簡単にできた行動が、何故今は出来ないのだろう……と、焦りの感情が沙希の心を支配しようとした時、何となく間が持たなくなったのか、慎二の方から沙希に話し掛けて来た。
「なぁ、小野寺」
「な、なに?」
沙希は平静を装って返事をした。しかし、変に意識してしまっている所為か、声が上ずっていた。
「俺たちが付き合ってるっていうあの噂話、もう知ってるだろ? あれ、気になるようだったら止めるように注意するけど、どうする?」
「あ、あー……アレね。その、石塚君カッコいいし、もっと言ってって感じだよ」
慎二の言葉を受け、沙希は咄嗟の判断で自己アピールを試みた。必死さのあまり、かなり不自然なテンションになってしまっていたが、それも無理からぬ事であろう。しかし、そのリアクションに対する慎二の回答は、彼女を落胆させるものであった。
「意外だな、君がそんな冗談を言うなんて……しかし小野寺、今のはちょっといただけないな。もっと慎重になった方が良いぞ」
「……!!」
思わぬ先制攻撃だった。つまり慎二は、周りから唆されても、沙希の方には容易には振り向かないと、自分から言っているようなものなのだ。彼としては沙希を気遣ったつもりで放った言葉だったのだが、彼女にとっては嬉しくない一言だった。
(マズイわ。これじゃ、振り出しに戻るどころか、マイナスだわ。もともと彼、凄い堅物だったし……)
沙希は焦る表情を隠しながら、必死に思考を巡らせた。しかし、状況は恐ろしい速度で暗転していく。急いで手を打たなくては拙い、だがその方法が判らない。彼女は焦燥に駆られながら、懸命に解決の糸口を探していた。
「とにかく、変な噂は気にするなよ。俺も無視するから」
「あ……うん」
「ま、小野寺みたいに可愛い奴と噂になるなら、悪い気はしないけどな。それはそれ、だろ?」
「あはは……」
今の沙希にとっては残酷なセリフを、慎二はサラリと言い放った。しかし、彼には一片の悪気もないのだ。
(うわ……素で言ってるわね、これは。元の状態に戻るには、相当苦労しそうね)
「……おい、小野寺」
「え!? な、なに!?」
「何って、駅に着いたのさ。じゃ、俺はあっちだから」
「あ、あ……うん、バイバイ」
素っ気ない挨拶を残して、慎二は去って行った。その後ろ姿を目で追いながら、沙希はヒラヒラと手を振っていた。結局、何も有効な話をする事は出来ず、彼女の懸命な努力も空振りに終わってしまった。
(あーあ、すっかり赤の他人モードだわ。悪気がないだけに、よけい悲しいわね)
沙希は、自分自身の犯したあまりにも大きなミステイクを、心の底から悔いていた。しかし、どうしようもなかった。そしてこの時、彼女は、自分にとって最大の脅威となる敵が爪を研いでいる事を、すっかり忘れていたのだった。
**********
翌日。いつもの待ち合わせ場所で、沙希は一つの事を考えていた。
(ああなってしまったからには、焦らず、地道にやり直すしか手は無い。ヘタに手の込んだ行動に出れば、かえって自滅を招く……そうよ、去年の四月に戻ればいいだけの事だわ!)
沙希は、いったん慎二とある程度の距離を置いて、チャンスを窺う事にしたのだった。こうなってしまったのも、全て自業自得。でも、すぐに元通りにしてみせる! と、気合を入れ直した。
そして、いつもの待ち合わせ時間が訪れる。が、当然、慎二は来ない。仕方ない、行くか……と、駅の外に視線を向けたその時、沙希の視線が、ある一点を凝視した。数十メートル先のコンビニから、慎二がヒョイと出て来たのであった。彼女は『早速チャンス!』とばかりに、歩速を少し上げて、追いつこうとした……が、しかし。
「お待たせー、さ、行こう」
と、慎二の横にピッタリと位置を取る、ある人物がいた。
(……ま、マッキー!!)
風に煽られる前髪を、香織は手櫛で整えた。そんな彼女を、沙希は驚くような顔で見つめていた。その時ふと、互いの目線がぶつかり合った。香織も、一瞬驚いたような表情を見せたが……
(……ふん)
(……!!)
香織が、不意に余裕の笑みを投げつけてきた。これは、沙希にとって大打撃であった。
「ねぇ、慎二君。皆が話してるみたいだけどさぁ、小野寺さんとケンカでもしたの?」
「何だよマッキー、お前まで。だから、小野寺とは何でもないんだったら」
それは、香織の策略であった。沙希がすぐ後ろにいる事を知って、わざと振った話題だったのだ。無論、慎二には沙希の姿は見えていない。そして、その会話を真後ろで聞いていた沙希は……
(焦らず、ゆっくりと……? 冗談じゃない、そんな余裕無いわ!! そうだった……彼女の事、すっかり忘れてたわ。何とかしないと)
それまでの驕りが招いた、大失態だった。沙希は、この超強力なライバル──香織の存在を完全に失念していたのだ。これまで保持していた『恋人』というアドバンテージが瓦解した今の状態では、彼女の存在がこの上なく大きな障壁となる事は確実だったのである。
**********
「……同窓会?」
香織からの提案に、興味を引かれて慎二が振り向いた。
「そう。六年のときのクラスで集まって、ワイワイやらない?」
「ふぅん……そうだなぁ、あれから四年経ってるし、みんな変わっただろうなぁ。面白そうだな」
積極的に話題を持ちかける香織に、慎二も満更ではないという雰囲気で対応した。
「決まりね! じゃ、私、幹事役やるわ。この学校にも同窓生、何人かいるしね」
「あぁ、そういう事なら手伝うぜ」
「うん!!」
香織は嬉しそうに、ぱぁっと明るい笑顔を振り撒いた。それまでは『美形だが近寄り難い』といった雰囲気を纏っていた彼女が見せた意外な表情に、教室の男子連中は沸き立った。
「な、なぁ。牧野って、あんなに可愛かったのか!?」
「なんか、今日はいつもと雰囲気が違うよな?」
「ああ、意外って言うか。確かに美形なんだけど、何となく棘があるような感じだったんだよ。でも……」
まさに、『にわかマッキーファン』急増中であった。そんな空気の中、沙希はひとり真っ青な顔になっていた。
(彼女、あの変わりようは何? まるで別人じゃない。オマケに、同窓会ですって? 思い出を武器にして、一気に攻めるつもりね!)
沙希の推測は正しかった。香織は、小学生時代の思い出と、家同士が近所という地の利を生かして、一気に慎二との距離を詰めようと画策してきたのである。
(何があったのかは知らないけど、アナタと慎二君の間に亀裂が入っているのは間違い無さそうだからね。悪いけど、このチャンス……逃しはしないわよ)
香織は振り返り、再び沙希に向かってニヤリと冷たい笑みを向けた。
(くっ……!)
慎二がああなった理由を公表する訳にも行かない為、沙希は黙って見ているしかなかった。しかし、クラスメイト同士という立場である以上、公平にチャンスはある筈。彼女は、それをジッと待っていた。
**********
「さ~て、パンでも買いに行くかぁ」
昼休み。チャイムと同時に席を立とうとする慎二を、沙希が呼び止めた。
「あ、あの、石塚君。これからお昼ごはんでしょ? 良かったら、一緒に食べない?」
「あぁ、誘いは嬉しいんだが……ちょっと、こっち来て。人に聞かれると拙い」
「え?」
にこやかな笑顔で誘いを掛けて来る沙希に対して、慎二は些か困惑気味の表情で応えた。彼は沙希を廊下に誘い出して、小さく耳打ちするように話し掛けた。
「ほら、昨日からのあのウワサ、段々と酷くなってるだろ? 今朝なんか、マッキーにまでツッ込まれたし」
「あ、あれは……」
「俺としちゃあ、あんな噂、どうって事ないんだけどね。そっちに迷惑掛かっちゃ悪いしさ」
「そ、そんなこと……私だって、迷惑だなんて思ってないし」
明らかに困惑していると思われる慎二の態度を見て、沙希は想像以上に状況が悪化している事を察した。拙い……この展開は非常に拙い!! と、そう直感した沙希は、何とか慎二の気を引こうと懸命になっていた。
「って言うかさぁ。俺、雰囲気に流されてアクション起こすの、好きじゃないんだよ」
「……!」
「じゃ、そういう事だからさ。ほとぼりが冷めるまで、暫くの間は俺に近寄んない方がいいぜ」
そう言って、慎二はその場を立ち去ろうとした。そんな彼を、沙希は何とかして引き止めようとした。が、しかし……
「まッ、待って……」
「ん? 他に何か?」
呼び止めてはみたものの、慎二を引き止める理由など、沙希はもう持ち合わせていなかった。今まで、彼に対して『受け身』の姿勢で臨む事が多かった為か、自分から誘いを掛ける際の切っ掛けとなる話題のストックが、あまりにも少なすぎたのだ。
「……? じゃ、行くわ。パン売り切れちまうし、待ち合わせしてるからさ」
「……うん」
慎二の後姿を目で追いながら、沙希はガックリと肩を落とした。近寄るどころか、彼の方から釘を刺されてしまった、と。
既に、慎二の意中に自分は居ない。予想を遥かに超える事態に、沙希は呆然と立ち尽くすしかなかった。こんな展開、計算にないよ……と。そして彼女は、大切な物を失ったという喪失感を、今更ながらに胸の奥で感じていた。
**********
風呂上がり。濡れた髪を乾かしながら、沙希はボーっと、慎二と交際を始めた切っ掛けについて思い出していた。
高校入学の当時、沙希は、原因不明の眩暈に悩んでおり、顔色も悪く、見るからに病弱で不健康そうなイメージを持っていた。彼女は未だ自分がモスキートに感染させられた事に気付いておらず、この眩暈を治す方法も分からないとあって、途方に暮れていたのだ。
そんな沙希を見かねて、何かと世話を焼いてくれたのが慎二だった。最初は警戒した彼女だったが、下心もなく、ただ、困ってる人を放っておけない……そういう雰囲気の彼に、徐々に気を許し始めたのだった。
彼女が危機を脱する事が出来たのは、本当に偶然だった。ある日、沙希と慎二は向かい合わせで話をしていたが、突然に沙希が眩暈を起こし、慎二にもたれ掛かる格好になってしまったのである。まだモスキートとして記憶を吸った事のない彼女は、ついに欠乏症を起こしてしまったのだ。そして慎二の身体にだらりと倒れこんだ彼女は、何とか体勢を立て直そうともがいた。その瞬間……彼の首筋に、彼女の唇がぶつかった。接触した部分から流れ込んでくる、彼の『記憶』。それによって、真っ青だった沙希の顔に血色が戻った。
「だ、大丈夫かい? 小野寺さん!」
「うん……平気。ゴメンなさい、はしたない事しちゃって」
「あ、いや、気にしないで。むしろラッキーだよ。君みたいな可愛い子に、首筋にとはいえキスされたなんてね。自慢のタネになるよ」
そう言って、慎二はにこやかに笑った。一方、記憶を吸って回復した沙希であったが、彼女は自分の行為がモスキートのそれであると気付いて、『とんでもない事をしてしまった』という罪悪感に苛まれた。記憶を吸ってしまったという事は、吸われた慎二もモスキートになってしまうという事だ、と。だが、彼は平然としていた。数日が経過しても、彼は全く変調を見せず、ケロリとしていた。
(もしかして、彼は免疫を持っている!?)
沙希はモスキートという病気の詳細について詳しく調べ始めた。そこで、先天的に『モスキート抗体』を持つ人も存在するという事実を見つけたのだ。もしや、彼はその中の一人なのでは? という事に気付いた彼女は、一計を講じた。抱きついたってキスをしたって、疑われない……そんな事が出来るのは、恋人という立場の人間の特権である。その為には! と、その時から沙希の猛アタックが始まり、既に友達であるという立場を傘に着て、ゆっくりと攻めてきた香織を出し抜き、みごと慎二を射止める事に成功したのである。
「マッキー……笑っちゃうね。あの時アナタを鼻で笑った私が、今はアナタに笑われてる。可笑しいね」
自嘲しながら沙希は、鏡の中の自分と対峙した。すると、ふと……つい数日前に、慎二が自分の首筋に付けて行った『恋人の証』が目に付いた。
「不器用で、無神経で、おっちょこちょいで。でも、ちょっとカッコ良くて。アハ……もう二度と、アナタを抱き締められないんだね」
慎二は、本気で自分を愛してくれていた。二人の間に温度差が生まれなかったのが不思議なぐらいに。その事に気付いた沙希は、猛烈な悲しみに襲われた。然もありなん、当初は『記憶タンク』としてしか扱っていなかった彼を、いつの間にか本気で愛するようになっていたのだから。
『恋人』という立場を失い、それを取り戻そうと奔走しているうちに、慎二が記憶を失うまでの行動が走馬灯のように思い出され、沙希の喪失感に一層拍車を掛けていたのだ。彼の為に課題を書き写している間は、自然と鼻歌が出るぐらいに楽しかった。弁当を作っている時はウキウキして、彼と一緒に食べている場面を想像してニヤニヤしていた。そして、二人きりでデートしている時はその状況を本気で楽しみ、彼のリードを自然に受け入れていた……そんな事、演技ではとてもではないが出来る筈がない。だが、彼女は今の今までそれに気付かず、無意識にこなしていたのだ。常に自分が優位に立っていると錯覚し、彼は自分の掌の上で踊り続けているだけだと、そう思い込んでいたのだ。そう……むしろ、踊っていたのは自分の方なのだという事に、今になって漸く気付いたのだ。
彼が傍にいる。それが、あまりにも当たり前の事になりすぎていた。だが、いざ恋人という立場を失ってみると、その存在はあまりに大きく、かけがえのないものだった……沙希は漸く、その事を理解したのだった。しかし、全ては遅すぎたのだ。過ぎた時は戻らない。それを軽んじた自分をこれほど悔やんだのは、彼女にとって初めての経験だった。
『抗モスキート体質』……そんなもの要らないから、貴方の傍に居させて欲しい。沙希の想いは、その一点に尽きていた。
無論、現時点ではまだ香織との決着は付いてはいない。しかし、もはや勝敗は決したも同然の状態であると、沙希は直感していた。なにしろ相手は小学校時代からの思い出をも武器にして、一気に攻め込む準備を整え、万全の態勢で臨んでいる。そして慎二は、彼女に対して好印象を持っているような雰囲気を見せている。それに比べ、自分は慎二に話し掛けても軽くいなされ、更には何となくであるが、敬遠すらされていそうな雰囲気で見られている……この差は大きい。
これらは全て、沙希の視点から見た勝敗予想に過ぎないのだが、それまで『敗北』というものをあまり体験した事のない彼女は今、限りなくネガティヴな気分にどっぷりと嵌まり込み、すっかり覇気も失っていた。
「シンちゃん……私、いつの間に……アナタに本気になってたんだろうね」
沙希の心は、大きな穴を穿たれたように空しく、悲しい風が吹き抜けていた。
※体験版はここまでで終了です。続きは正規版にてお楽しみください。