「もうすぐ到着か。今回の出張はちょっと長かったな」
旅客機のビジネスクラスシートに着席し、軽く伸びをしながら、彼──朝倉智は、誰にともなく呟いた。システムエンジニアとして社用で渡米していたのだが、システムの完成が思いのほか遅くなってしまい、当初の予定より二週間ほど遅れての帰国となったのである。
「朝倉よぉ、帰ったら社の方に顔を出すか?」
「そうだなぁ……一応、行っておいた方がいいだろうな」
と、隣に座る同僚の質問に、いかにもビジネスマンらしい返答をしてみたものの、彼の本心はそうは言っていなかった。
(かなり遅くなったからな。芽衣の奴、待ってるだろうな。社の方へはサッと顔を出すだけにして、早く帰らなきゃ)
そう、彼は自分の帰りを待っている恋人の事が気掛かりでならなかったのだ。ホテルをチェックアウトする前に電話をしてはいたが、映し出されるホログラフィー映像からは、温もりを感じ取れない。本物の彼女に早く会いたい……それが本音だった。ペンダントの中の写真を覗き、恋人に思いを馳せる……格闘技で鍛え上げた屈強な肉体を持つ彼も、やはり普通の青年であった。
「また彼女の写真、見てるのか?」
「の、覗くなよ」
「ばーか、何を今更。これまでも散々惚気てたろうが」
「それとこれとは話が別だよ」
智は恋人の事を思い浮かべていた事を見抜かれ、思わず照れた。そんな彼を横目で見ながら、同僚は『ヤレヤレ』といった感じの表情を浮かべ、肩を竦めていた。
『当機は間もなく、新東京国際空港への着陸アプローチに入ります。お席を離れているお客様は、お早めにお席にお戻り下さいますようお願い申し上げます』
機内アナウンスが流れ、着陸が近い事を告げ始めた。
「国際線、かぁ。この言葉、いつまで使われるんだろうな?」
「さあな。『統合政府』……これが現実の物になったら、消滅する言葉ではあるな」
同僚の何気ない呟きに、智はこれまた気のない感じで返答した。
「偉い政治家の方々が、百年以上議論しても決まらないんだ。そもそも全世界を統一なんて、できっこないよ」
「そうだよなぁ……まぁ尤も、その百年の間に、人類滅亡の危機という歴史が挟まってるからな。『ヒューマノイド』誕生秘話、か。これも、もう半世紀も前の話なんだよな」
「人類滅亡の危機は救えたが、全ての人類を統括する事なんか……夢物語さ。出来るわけが無い」
二十一世紀の末、人類の男性を襲った未知のウィルス。これに感染すると生殖能力を完全喪失するという、恐ろしいものだった。これに対応する為、ワクチンの開発とともに、バイオロイドの研究が急ピッチで進められ、人間とバイオロイドのハイブリッド人工生命体である『ヒューマノイド』が誕生したのである。
自然に誕生した人間と寸分違わぬ外見と身体機能を有する彼らは、人間の神経細胞をニューロンコンピュータで再現した『コア』と呼ばれる精神体を頭脳に焼き付ける『ダウンロード』を行う事で、生命活動を開始する。このプロセスを以て誕生した個体は『一世代目』と呼称され、特に区別されている。何故なら、頭脳にダウンロードした『コア』を肉体から分離し、異なる肉体へ移植する事が可能となる特殊機能を備えているからである。
彼らはヒューマノイド同士、あるいは人間との交配をする為の機能──生殖能力も有しており、それによって誕生した子孫を『二世代目』以降と呼称する。二世代目以降のヒューマノイドは、生命体としての機能は人間と全く同一であり、コアの分離も不可能であるが、生物学上は人間と異なる為、住民登録の際にはそれと記される。そして、二十三世紀後半となった現在に於いて、その数は全人類の実に七割以上を占め、純粋な人間は三割以下しか存在していないと云われていた。
そして、彼──智の肉体は、一世代目ヒューマノイドであった。
「病気を打ち消すワクチンや、人工的な肉体は科学の力で作れても……人の心は統一できないからな」
「ま、日本はまだ統一国家に賛同するかどうか、その意向をまだ決めちゃ居ないし、同じスタンスを取っている国も沢山ある。まだ先の話さ」
智は、統合政府の樹立に否定的な訳ではなかったが、実現は不可能であると思っていた。国境が消滅し、国家間の壁が無くなる事と、思想問題の統一はイコールでは無いと考えていたからである。
「っと、そんな先の事は置いといて……ホレ見ろよ、我が祖国が見えて来たぜ。ようやく到着だ」
「ん。じゃ、着陸姿勢に入る前にトイレ済ませとくか」
「おいおい、降りてからでもいいだろうに」
「サッパリした気分で、祖国の土を踏みたいのさ」
友人の制止を軽くあしらって、智は化粧室に向かった。彼は、その判断が自分の運命を大きく変える事になるのだという事を、知る由も無かった。
『……統合政府樹立に向けて、各国首脳による閣議が続けられ……』
「このフレーズ、子供の頃からずっと変わらないなぁ……っと、そんな事より、今日は智が帰ってくる。うふふ、早く電話こないかなぁ」
とあるアパートの一室で、彼女──三橋芽衣は、恋人の姿を思い浮かべながらウキウキしていた。が、然もありなん。仕事で渡米し、三ヶ月以上も離れ離れになっていた彼氏が、やっと戻ってくるとあって、彼女の浮かれ具合は既にピークに達していたのだ。しかし、その時……
『臨時ニュースが入りました……本日午後四時四十分頃、ブルースカイ・エアラインズ二〇五便が海上でレーダーから消え、行方不明となりました。現在、自衛隊と在日米軍が共同で行方を追っておりますが……』
「……え!?」
芽衣は自分の耳を疑った。ニュースで報じられた事故機の便名が、恋人である智から聞かされていたものと同一だったからである。
「まさか、ね……そんな事ある訳ないよね」
と思いつつも、芽衣は電話のログを遡り、彼からのメッセージを再生していた。今の報道が聞き間違いである事を確認する為に、だ。
『……明日の五時に到着予定だ。えっと……ブルースカイの二〇五便だな。だから、七時ぐらいには帰れると思うよ。そしたらさ……』
「……!! いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
にこやかに笑みを浮かべながら自分に語りかける智のホログラフィー映像の前で、芽衣は絶叫しながら両手で顔を覆った。
「ウソよ……ウソよウソよ!! そんなの、何かの間違いだよ……」
先程までの明るい気分は完全に消え、彼女の胸の内はすっかり真っ暗になってしまっていた。そしてその数十分後、航空会社からの連絡で、智の名も乗客名簿に入っている事を知らされ、彼女は更に追い討ちを掛けられていた。一世代目ヒューマノイドである智に、両親は存在しない。そのため彼の緊急連絡先は、常に恋人である芽衣の電話が指定されていたからである。
**********
航空会社からの手引きで、芽衣は犠牲者の身体が集められる一時安置所に通された。既にそこには知人や肉親の姿を確認して号泣する者も居り、まさに地獄絵図と形容してもおかしくないぐらいの様相が展開されていた。
(智はここには居ない、居る訳がない!)
未だに芽衣は、智の生還を信じて疑わなかった。だが、彼は一向に姿が発見されず、行方不明の状態が続いていた。判別不明になるぐらいにまで消し飛んでしまったのか、あるいは自力で事故現場から脱出したのか……それは分からなかったが、とにかく彼の身体はいつまで経っても安置所には運ばれて来なかった。
「乗員・乗客合わせて四百五十五名……一人を除いて、全て身元が確認されています……全員が死亡です。でも、朝倉さんだけが、何故か……」
そう、智の身元だけが、いつになっても確認できなかったのである。
「墜落現場にはもう、生命反応が無いそうなんです。自力で安全圏まで脱出なさったか、或いは……あ、いや……」
最悪の事態を想像し、思わずそれを口に出しそうになったところで、芽衣の傍にいた航空会社職員が慌てて口を噤んだ。
「何処に行っちゃったの……智……」
不安に押し潰されそうになり、芽衣はすっかり憔悴しきっていた。が、そんな折、安置所の代表電話に自衛隊の救難部隊から一本の緊急連絡が入った。
『精神体分離状態のヒューマノイドが一体、病院に向けて緊急搬送されていたという情報が入りました! 発見場所は墜落現場より約四キロ南東に離れた地点、行方不明になっている乗客と思われます! 確認を急ぎ、続報致します……以上!』
「……!!」
報告を聞いた職員は、真っ青な顔で俯き続けている芽衣にその情報を伝えた。と、次の瞬間、呆けにとられたような顔を見せた芽衣だったが……その表情は驚きと期待に満ち溢れたものへと変化し、職員に喰らいつこうかというような勢いで質問を始めていた。
「ど、何処ですか!? 智は何処の病院に居るんですか!?」
「お、落ち着いて下さい! 現在、その肉体の身元確認を急いでおります。どの病院に搬送されたかも、追って情報が来ると思いますので……」
「智……智!!」
興奮状態の芽衣を宥めようと、職員は懸命になった。が、彼女はもう完全に取り乱してしまっており、彼の説明など殆ど耳に入っていなかった。そして第一報から十数分置いて、安置所に続報が届いた。
『……搬送されたのは、朝倉智さん……二十四歳、男性。搬送先は……』
情報を得た芽衣は、早速タクシーを呼んで搬送先の病院へと急いだ。どうしてコアが分離された状態になっているのか、その理由も引っ掛かったが……とにかく、彼は生きていた。芽衣にとっては、その事実だけで充分だった。
**********
(……ここは……何処だ?)
白くモヤの掛かったような状態、とでも形容すれば良いだろうか。とにかく、焦点の合わない視界の中で、智は意識を取り戻した。
(俺、どうしたんだっけ……あ……確か飛行機で帰る途中だったんだ……)
それが何故、眠りから覚めたような感覚になってるんだろう……と、智は頻りに首を傾げた。だが、激しい衝撃を身体に感じた後の記憶があやふやで、どうにもハッキリしないのだった。いや、それどころか、どうして自分の手足が思うように動かないのか、それが彼には理解できなかった。
「……意識、回復しました。ダウンロード手術成功です」
(ダウンロード……? 俺の事か……何で?)
聞き覚えのない男性の声が、智の耳に入って来た。会話の内容は聞き取れるのだが、言っている意味が分からない。ダウンロード手術といえば、かなり大変な事である。ヒューマノイドの肉体からコアを分離し、それを再び肉体に戻す事を指すのだから。それが自分に施されているなど、そんなバカな? と思っていたのだ。
「う、う……」
どうにか声を出せるようになって来たらしく、智は必死に意思表示をしようと試みた。しかし、ダウンロードされたばかりのコアが肉体に馴染むまでには、かなりの時間が掛かる。意識が戻り、周囲の声が聞こえるようになっても、自分の意思通りに肉体をコントロールする事は、すぐには無理なのだ。
「拒絶反応なし。肉体とのマッチングも、ほぼ問題無しのようですね」
(当たり前じゃないか……自分の体だぞ? 合わない訳ないだろ……)
いったい何を訳のわからない事を……と、智はハッキリとしない意識の中で声の主の言葉に異を唱えた。しかし彼は、自分の体に何が起こったのかを、未だに知らないままだった。
「では、マッチングテストを終了します。続いて定着処置の用意を……」
(……説明無しかよ……)
智は、無言ではあるが、耳に入ってくるその声に対して異を唱え続けた。が、程なくして彼の意識は、再び闇の中へと誘われていった。コアと肉体の相性をテストし、問題ないと判断されたら、定着させる為に肉体とコアの動きを完全に停止させ、神経系の命令伝達情報を新たなコアの物に書き換える処置を施す必要があるからだ。つまり、強制的に眠らされてしまうのである。
(しかし……どうして俺、こんな事になってるんだ……?)
完全に混乱した意識の中で、必死に考えようとした。だが、智は睡魔に勝てず、再び深い眠りの中に落ちていくのだった。
**********
「う……む……? ここ、何処だ?」
見慣れない景色の中で、智は再び目覚めた。真っ白い壁に、真っ白い天井。この殺風景極まりないカラーリングは、間違いなくどこかの病院であろう。首を回して周囲を見渡すと、室内にベッドはひとつしかない。どうやら個室のようだ。
『意識が戻ったようですね』
「……ここは、何処ですか?」
どこかに設えられたカメラでモニターされていたのか、目覚めて間もなく天井のスピーカーから声が聞こえてきた。その声に対し、まず智が行ったのが現状把握の為の質問であった。しかし、返って来たのは質問に対する返答ではなく、機械的な問い掛けだった。
『聴覚に異常は無いようですね。目は見えていますか?』
「えっ……? あ、はい、見えますけど」
質問してるのはこっちなのになぁ……と、智は不満を抱いた。だが、スピーカーからの声はなおも続いた。
『手足は問題なく動きますか?』
「……はい、動くようです」
このような問い掛けが数分続き、それに応えながらも、何故こんな事を聞かれているんだ? と、智は疑念を抱いた。一体、自分に何が起こったのか、まずそれを知りたいのに……と、彼は苛立ちを覚え始めていた。
『では、少々診察をします。そちらに行きますので、お待ち下さい』
「……ハイ」
スピーカー越しの対話が終わり、ようやく声の主が目の前に現れる事になった。これで、此方からも質問できるだろう……と、智はふぅっと息をついた。
「それにしても……」
何かがおかしい。まるで自分の身体じゃないような……そんな違和感を覚えながら、智は自分の手を顔の前にかざして見た。
「やけに、腕が細くなったような? 動くことは動くが、体の反応が妙に鈍い気がする」
それに何やら、声もおかしい。何がどうなっているのか全く分からず、智はただ首を傾げるばかりであった。
「朝倉さん、入りますよ」
ドアの外から訪室を告げる声が聞こえ、医師と思しき男が顔を出した。
「主治医の川上です。よろしく」
主治医を名乗る男と、看護師が数名、部屋に入ってきた。そして医師は、聴診器で心音を聞いたり脈を測ったりして、簡単な健康診断を実施した。その結果にウンウンと頷くと、ようやく智に質問の機会を与えてくれた。
「如何ですか? 身体の調子は」
「調子も何も。俺はどうして、こんな所に寝かされているんです? 俺は確か、飛行機に乗ってて……」
智は、自分の記憶にある中で一番新しい情報を手繰り寄せ、その後、自分がどうなったのかを聞き出そうとした。
「君は、ここに来た時には既にコアを分離された状態だったよ。つまり、そこまで逼迫した状態だった、という事だ」
「コ、コアを分離!? って事は、この違和感は、もしかして……!?」
智の不安は見事に的中した。医師が目配せを送り、看護師に手鏡を持って来させた。そして、それを覗き込んだ彼は絶句した。然もありなん。そこには、それまで見慣れた自分の姿とは全く異なる人物が映っていたのだから。
「……これが、俺!? こ、この身体は?」
「コア異常で空き家となっていた、同世代の青年の物だ」
「お、俺の身体は?」
「修復を試みようとはしたが、医学レベルで修復の効く状態では無かったので、登録抹消の後、廃棄されたよ。君は、同世代の男性の肉体を譲り受けて回復したんだ」
「……なんてこった」
驚きよりも何よりも、まず智の口を割って出て来たのが、その台詞だった。が、然もありなん。知らぬうちに、見知らぬ姿に変えられていたのだ。思わず言葉を失ってしまうのも、無理からぬ事である。
「一世代目ヒューマノイドの君だから、出来た措置だったんだよ」
「身体からコアを外さなきゃ、命が危ないような状況だったって事ですか? 俺の身体、治らないんですか!?」
本来の自分の肉体がどのような状態だったのかを知りたくて、智は食い下がった。だが、医師の口からは、期待する答えは返って来なかった。
「四肢は揃っており、頭部も無事だったがね。脊椎の損傷が激しく、神経系がズタズタだった。欠損が無いとは言え、その状態は酷いものだったよ。映像が残っているが、見てみるかね?」
「……結構です」
医師の回答から、智は自分の身体はかなり酷い状態で、修復は絶望的だという事を理解した。しかし……
「参ったな」
智の口からは、最早それしか言葉が出て来なかった。が、然もありなん。記憶と人格を引き継いでいるとはいえ、完全な別人になってしまったのだ。すぐに納得して、現状を受け容れろと言われても無理な話である。
「とりあえず移植手術は成功、経過も順調だ。あとは、新しい身体に馴染むまでリハビリをして、それから退院……という事になるね」
複雑な心境に陥る智に、医師は淡々とこれからの予定を話し聞かせた。智はそれを受け容れつつ、ふとした疑問を口に出した。
「ひとつ、教えて下さい。俺のコアを新しい身体に入れて、復活させようっていう決断をしたのは誰なんです?」
「君の恋人さんだよ」
「芽衣が?」
「とにかく、今は休んだ方がいい。少しずつ、落ち着いて現状を受け容れるんだ。いいね」
「はぁ……」
驚きの連続で、既に言葉も出ない状態の智に一言添えて、医師は去って行った。
「……あ、ここが何処なのか、聞きそびれちゃったな」
ま、それももう、どうでも良い。乗っていた飛行機の事や、会社の事も気になるけど、それも後回しでいい。とにかく、自分自身が今の状況を受け容れなきゃ話にならない……と、智は再びベッドに横たわった。が、ボンヤリと考えるうち、彼の脳裏に恋人の姿が浮かび上がった。
「芽衣、どうしてるかな……」
この措置を芽衣が嘆願したのなら、彼女は自分の回復を心待ちにしている筈。なら、意識が回復したこの事実を、早く知らせてやらないとな……と考え、智は傍らにあった室内電話の受話器を取り、彼女の電話にアクセスしようとした。だが何故か電話は繋がらず、ひたすら無機質な電子音を鳴らし続けるだけであった。
「壊れてるのかな?」
業を煮やした智は、ナースコールを利用して看護師を呼び、自分の意識が回復した事を伝えたいと訴えた。だが、その訴えに看護師は答えられず、一旦退出して行った。そして暫く待たされた後、医師が入室して来て、誰に連絡したいのか? と質問して来た。何故そんな事を? と疑問に思った智であったが、どうやら質問は許されないらしく、病院側からの質問に対する回答しか受け付けないと言い切られてしまった。彼は渋々、芽衣を筆頭にして会社の上司や友人など数名をリストアップしたが、芽衣以外への連絡は認められないという回答が返って来て、益々彼を混乱させた。
「……分かりました、彼女だけでいいです。話をさせて下さい」
「電話機の操作は私がします。他へのアクセスは絶対禁止です、いいですね?」
何故そこまで徹底するのか、智は病院側の態度にも違和感を覚えた。が、ともあれ芽衣だけには連絡が付けられると分かり、医師の監視の元、彼女の携帯電話にアクセスした。
**********
「智……だよね?」
「あぁ、俺だ。外見はともかく、中身は間違いなく朝倉智、本人だ」
程なくして病室を訪れた芽衣は、智の姿を見て、まず開口一番にその質問をしていた。どうやら、手術後にどのような姿になるかは、彼女にも知らされていなかったらしい。
「良かった……ホントに生きてたんだね」
「フツーの人間や、二世代目以降だったら、こうは行かなかったみたいだけどな」
見た目は大きく変わったが、その物言いや態度は全く変わっていない。そんな智の台詞を聞いて、改めて彼の生存を実感し、芽衣はその身体に抱き付いてポロポロと涙を流した。
「良かった……ホントに良かった、生きててくれて……」
「見た目には拘らないのか? 随分と変わっちまったが」
「智は智だもん」
「芽衣……」
二人は暫し、再会の喜びを分かち合った。姿形は変わっても、自分は自分……心底からそう言い切ってくれた芽衣の台詞で、智の心の中から、肉体が替わった事に対する拘りは一切消えていた。
「ところで芽衣、この手術ってかなり値が張るはずじゃあ?」
「あ、うん。航空会社の方から損害賠償が出たの。それで……」
「なるほどな」
「でもね、その決定が出るまでに、時間が掛かっちゃったの。あの事故は一月だったけど、今はもう四月だもん」
「エアコン効きまくりだから、分からなかったぜ。道理で薄着な訳だ」
智は少しずつ情報を得て、どういう経緯で自分がこうなったのか、徐々に理解していった。そして何より、唯一の身内となる彼女──芽衣が自分を拒絶しなかったという安心感で、ショックはだいぶ和らいでいた。元々彼は、それほど物事に拘るタイプでは無いので、多少の事であれば受け流せてしまうだけの強さを持っていたのである。
「芽衣の顔を見たら、元気が出て来た。少し外の風を浴びたいな」
「歩けるの?」
「分からない。でも、怪我してる訳じゃないし、大丈夫だと思う」
智はゆっくりとベッドの下に足を下ろし、慎重に立ち上がった。しかし、実質三ヶ月以上も立ち上がっていなかった所為か、両脚に体重を預けた瞬間、バランスを崩してよろけてしまっていた。
「……っと!」
「だ、大丈夫!?」
芽衣にもたれ掛かる格好になり、智は何とか転ばずに済んだ。が、ここで二人は同時に、違和感を覚えた。以前は、こんな姿勢になれば芽衣の方が押し倒されてしまうほど体格に差があったのだが、なんと今は、芽衣の力だけで智を支えきれているではないか。これは一体、どうした事だ……と、二人は軽いパニック状態に陥った。
「……軽い?」
「っていうか、小っさ!!」
芽衣の肩を借りつつ何とか自立した智は、彼女と並んで立ってみて、自分の身体が思いのほか小さい事に気が付いた。二人とも直立している筈なのに、それほど変わらぬ高さに双方の顔がある。そう、先ほど覚えた違和感の正体は、これだったのだ。
「前は、見上げるぐらい身長差があったのに……」
「そんなに変わらないじゃないか。一六〇あるかないか、ってトコか? ……って事は、もしかして……」
と、智はバッと上半身をはだけてみた。すると案の定というか、以前の彼が誇ったマッシブな肉体とは掛け離れた、殆ど鍛えられていない華奢な身体が現れたのである。
「これは……相当鍛えないと、使い物にならないな」
「う、うん。前の身体が凄く逞しかった分、ギャップが凄いね」
智がごく普通の、標準的な青年であればこれで良かったのかも知れない。しかし、格闘技の達人で、アクティブな動作を身上としていた彼としては、この身体では不足……というより、彼が思い切り動いたら、感覚について来れずに身体の方が先に参ってしまうだろう。
「しかしまぁ、見事にガリガリだなぁ。どんな奴だったんだ? 前の身体の持ち主は」
「……智の鍛え方が凄かったんだよ。普通の男子は、そんなもんだって」
「そうかなぁ?」
芽衣に説明されながらも、智は納得いかないと言った感じだった。
「ま、退院してからジックリ鍛え上げる事にするわ。身長低いから、あまり筋肉つけると不恰好になりそうだけどな」
そう言いながら智は、明るくニッと笑って芽衣をリードしようとした。だが、まだ脚のほうは上手く動いてはくれず、芽衣の肩を借りながら、ゆっくりと歩くのがやっとであった。
**********
「ふぅ。屋上に来るだけで、メチャクチャ疲れた」
「仕方ないよ、もう三ヶ月以上も歩いてないんだもん」
屋上へと移動した二人は、テラス付近に設けられたベンチに腰掛けて一休みしていた。その時、智は既に肩で息をしており、疲労困憊と言った様相を呈していた。
「ところで。俺って、一応は航空機事故の被害者って事になるんだろ?」
「一応じゃなくて、立派に被害者だよ」
「だとすると普通、警察が事情聴取に来たりとか、マスコミが取材に来たりとか……そういうのがあるんじゃないのか?」
「そ、そういえば静かだね」
「……? ま、来ないに越した事は無いけどな。何か聞かれたって、なにも覚えちゃ居ないからなぁ」
一瞬、ギクリとしたような表情を見せた芽衣を怪訝に思った智であったが、恐らく事故の直後に過剰なインタビュー攻めにでも遭ったのだろうと思い、その場は流す事にした。
「そういえば、どこかの山の中で、星空を見上げたっけ」
見上げた──と言うよりは、真上しか見えなかったというのが正解なのだが──その星空が、智本来の肉眼で見た最後の景色だという事は間違いなかった。
「どうやって助けられたか、覚えてないの?」
「ぜんっぜん。気が付いたらこの身体に入れられて、ベッドの上だよ」
「そう……」
芽衣は智の回答を聞いて、事故発生から救助まで、かなり時間が空いていたんだな……という推測をするに至った。だが、そんな事が分かったところで今更どうにもならないと、彼女は軽く首を振って思考を散らした。
「そういえば芽衣、他の乗客はどうなったんだ? 何か聞いてないか?」
「え、いや、あの……」
智の質問に、芽衣は困ったような表情を見せて答えに詰まった。病院側の応対も何か引っ掛かったし、何かある……と思った智は幾分か目線をきつくして、更に彼女を問い詰めた。
「芽衣、さっきから何かおかしいぞ? 何か隠していないか?」
「う……」
芽衣は困惑した表情を隠しきれず、徐々に追い詰められていった。が、智の真っ直ぐな視線に耐え切れず、遂に観念したか。彼女は俯きながら、ゆっくりと口を開いた。ただし、その声は消え入るように弱々しかった。
「隠しきれるわけ無いよね。分かった、話す。でも、驚かないで聞いてね……あの事故は生存者ゼロ、全員死亡って報道されてるの」
「……え? ちょっと待てよ。俺、こうして生きてるじゃないか」
智は同乗していた同僚の安否について訊こうと思い、芽衣に質問したのだが、それに対する回答は、彼の予想の遥か上を行くものであった。
「あとね、私……事故の生還者が居る事を明かしちゃいけないって、口封じされてるの。本当は死者四百五十四名、生き残りは……智、貴方だけよ」
「……!!」
それは、あの事故について、何らかの報道管制が入ったのだと云う事を示唆していた。つまりは、自分が生きている事自体が極秘事項だと言えるのだ。インタビュー攻めなんてとんでもない、彼女が先程見せた表情の裏には、こんな秘密が隠されていたのか? と、智は愕然とした。
「あ……智だけは墜落現場からかなり離れた所から救助された、だから助かったとも聞いたよ。勿論、これも内緒だけどね」
「……俺だけ?」
芽衣の説明を聞いて、智は更に首を傾げた。つまり、彼だけが皆と違う所に落着した、という事になるからだ。
「妙な話だな。何で俺だけ、離れた所で発見されたんだろう?」
「分からないの。とにかく、私が病院に駆けつけた時は、貴方はコア保存用の端末に入った状態だった。身体は、見せてもらえなかったよ」
「ふぅん……」
そもそも、何故あの飛行機は墜落したのか。衝撃と共に聞いた、あの爆発音は何だったのか……不可解な事が多すぎて、智の頭は既にパンク寸前だった。
「……考えても、仕方ないか」
「そうだね」
空を見上げ、二人は暫しの静寂に身を任せた。が、エアコンの無い屋外テラスに居る為か、段々と汗が出てきた。
「戻ろうか。汗かいちゃう」
「……だな」
と、智は再び芽衣の肩を借りて、ゆっくりと歩き出した。ふと彼女の顔を見ると、足運びに夢中になっているのか、下を向いていた。が、智の視線に気付いたのか、彼女はパッと彼の方へ向き直り、微笑んだ。
「早く良くなってね」
「頑張ってリハビリしないとなぁ」
そんな会話を交わしながら、二人は病室へと歩を進めていった。
**********
「あれ? ドアの前に誰か居るぞ?」
やっとの事で自分の病室に戻ってきた智は、見知らぬ人物がドアの前に居るのを見付けて、傍らに居る芽衣に耳打ちしていた。だが、芽衣の方は、智とは違った反応を示していた。
「あ……あの人」
「え?」
智が芽衣の意外な反応に驚いていると、どうやら向こうも智たちを見付けたらしく、此方を向いて声を掛けて来た。
「よぉ、泣き虫のお嬢ちゃんじゃないか!」
「あ、その節は、どうも」
「……?」
男は、ドアの前にもたれ掛かったままの姿勢でヒラヒラと手を振りながら、智ではなく芽衣に話し掛けて来た。
「あの時の要救助者が息を吹き返したって聞いたんでな、挨拶に来たぜ。もしかして、そのダンナが?」
「あ、ハイ……そうです、あの時の彼です」
「え!?」
芽衣と男の言葉を聞いて、智は思わず目を丸くした。今、サラリと凄い事を言わなかったか? ……と。「芽衣……この人、誰?」
「あ、うん。自衛隊の隊員さんで、その……智、貴方を助けてくれた人だよ」
「……!!」
「ふぅん、随分とちんまい身体に収まったんだな? 拾った時は、もっと精悍でガッシリした印象だったのに」
上から下まで、嘗め回すように智の事を見回して、その男がまず放った一言がそれであった。そして智は、その一言を受けて、やっとの事で状況を把握し、搾り出すように言葉を発して質問を試みた。
「あ、あの……俺を助けてくれた、って仰いました?」
「まぁ、廊下でするような話じゃない。中に入れてもらって良いか?」
「あ、はぁ……どうぞ」
未だに驚きの表情を隠せないまま、智は『とりあえず』と言った感じで了承した。いや、そのリアクションが取れただけでも上出来であろう。何しろ、未知なる事実を次々と、それも一方的に突き付けられているのだ。並みの精神力であれば、当の昔にパニックを起こしている所である。
「よっ、と。お邪魔するぜ」
男はドアの縁に頭をぶつけないよう、身を屈めながら部屋に入って来た。身長は二メートルを軽く超えるであろうか、かなりの巨躯だ。しかも彼は、戦場からそのまま駆けつけたかのような物々しい装備を付けたままだったので、その威容はまた凄い物だった。
「とりあえず自己紹介しとこうかな。俺は北見弦斗。陸上自衛官で、特務部隊所属の二等陸尉だ」
「あ……朝倉智です。助けていただいて、どうも……」
「アハハハ。まぁ、緊張しなさんな」
豪快に笑い飛ばす弦斗を見て、智は内心で『緊張じゃなくて、出かたが分からないだけなんだけど』と思っていた。
「さて、ダンナの意識も戻ったって事で……簡単に話を聞かせて貰おうかな。あぁ、そう硬くならないで」
と、弦斗は胸ポケットからノートとペンを取り出し、智から事情を聞き出すための質問を始めた。
「状況っていうか……俺は、着陸姿勢に入る前にトイレに行こうと思って、個室に入ってドア閉めて。その時に『ドン!』って音がして、部屋ごとひっくり返ったんです」
「じゃあ、事が起こった瞬間、アンタは一人だけ機体最後尾に居た訳だな?」
「一人だけ……かどうかは分かりませんが、あのタイミングであの位置に居たのは確かです」
フムフムと頷きながら、弦斗は慣れぬ手つきでメモを取った。そして筆を止めると、おもむろにノートを閉じ、独白するように呟き始めた。
「なるほど。だからアンタだけ、あんなトコに落ちてたんだな」
「……は?」
ちょっと待て、トイレに行ってたのと、俺だけ皆と別の場所に落ちた事に、何の関連性があるんだ? と、智は更に首を傾げた。
「いや、アンタを見付けたのは俺だ、ってのはもう説明したと思うが……アンタだけ、墜落現場からかなり離れた所で遭難してたんだよ。それを、俺が見つけたって訳だ」
「それ、さっき彼女からも聞きましたが、どういう事なんです?」
「あの飛行機……二〇五便の機体には、三ヵ所にプラスチック爆弾が仕掛けられていたという事が、事故調査委員会の調べで分かったんだ。両翼の付け根と、尾翼の付け根……油圧パイプの集中してる箇所だな」
声量を落とし、弦斗は事故機の状況を説明しに掛かった。
「機体の構造上、尾翼の付け根に操縦系の油圧パイプが集中する。そこを破壊されれば、航空機は一気に制御を失うからな」
「成る程。だから、そこから更に後ろの位置に居た俺は、爆薬で吹き飛ばされて、部屋ごと機体から放り出されたって訳だ」
「着陸アプローチに入ってたから、高度が下がってたのも幸いだったな。ま、救命エアバッグが上手く作動してくれた、ってのもあるが」
と、自分の肉体が完全に破壊されなかった理屈は理解したが、当然というか……他の乗客の常態も気になる智は、思わず弦斗に質問した。
「他の人たちは、どうなったんです?」
「聞かない方がいいぞ。DNA鑑定で身元が判明したっていう人が殆どだからな」
「……!」
弦斗の短い台詞で、智は墜落現場の惨状を想像し、戦慄した。
「とにかく、お前さんはラッキーだったんだ。だから、これからの人生を大事にしろ。折角助かったその命、粗末にするんじゃ無いぜ。いいな?」
「……ひとつ、教えて下さい。俺はコアを分離された状態でここに運ばれたと聞きましたが、コアを分離したのは、一体?」
「俺だよ。俺は救急救命隊員の資格も持ってるからな、コア分離の簡易端末も操作できるのさ」
「そこまで、切羽詰ってたって事ですね」
「あと数分、処置が遅れてたらヤバかったと思うぜ」
聞けば聞くほど、智は『あの時トイレに立った事が自分の運命を大きく左右したんだな』と実感した。だが、ふと今になって気付いた事があった。
「そういえば、機体には爆弾が仕掛けられてたって言ってましたよね。一体誰が、何の為にそんな事を?」
「…………」
智の質問を受けて、弦斗は暫しの間、瞑目して考え込んでいた。そして沈黙を破り、彼は重々しく、その口を開いた。
「落ち着いて聞けよ……あの便の墜落はな、反統合政府運動のテロ行為だったんだよ。オマエさん達は、その犠牲になったのさ」
「……!!」
驚愕のあまり、智は言葉を失った。然もありなん、その余りに衝撃的な一言に、彼の頭の中は真っ白になってしまったのだ。
「そんなバカな……日本ではまだ、統合政府に賛同するかどうかは未定の筈じゃないですか」
「事件の二週間ほど前から、統合政府推進派から議会に圧力が掛かり始めてな。世論が推進派に傾くよう裏工作がされてたんだ」
「…………」
「なるべく表沙汰にならないよう、内々で処理が進んでいたらしいんだが。どこからか情報がリークして、アメリカに居たテロリストの耳に入ったんだな」
そして、今回の事件の実行犯は中東某国の武装テロリストである事や、アメリカからの帰国便を日本国内に墜落させる事で、日本政府への見せしめ的な意味合いを持たせようとしていた事実などが、弦斗の口から説明された。
「テロ行為があった事は、まだ内密になってる。市民がパニックになる事を恐れて、この件の真相については厳重な情報操作がされてるんだ」
「……それで、マスコミの取材も、警察の事情聴取も来ないんですね?」
「そういう事だ。まぁ、助けたよしみでアンタには話したが……分かってるな? アンタがあの事故……いや、事件の生き残りだって事も、全ては機密事項だ。絶対に喋るなよ? あの事件は、乗員乗客共に生存者なし。そういう事になってる」
「分かってます、ここだけの話にしておきますよ。しかし、これからはテロ行為、エスカレートしていくんでしょうか」
智は思わず胸の内に沸き起こる不安を吐露していたが、それについて弦斗は冷静に回答していた。
「あの墜落事件以来、同様の事件は起こってないし、テロリストも日本国内じゃ行動は起こしにくいだろう。たぶん大丈夫だと思うぞ」
「ホッ……」
その答えを聞いて、安堵の表情と共に思わず声を漏らしたのは、智ではなく芽衣の方だった。
「こんな事、二度とイヤだからね」
「俺だってイヤだよ」
「ま、ダンナも無事に生き返ったし、良かったな! って事で」
「死んでませんって」
思わずジト目になりながら、智は洒落にならないジョークに軽く抗議した。だが、弦斗はそれもガハハと豪快に笑い飛ばすと、ポンと膝を叩いて強引に話を終わりに持っていった。
「っと、これ以上ヤバイ情報をリークする訳にもいかねぇし、そろそろ原隊へ戻らなきゃならねぇ」
「あ、はい。どうも、お世話になりまして……えぇと……」
と、ここで智は、弦斗の名を呼んで挨拶をしたかったのだが、その名を度忘れしてしまったため、ヒョイと彼のドッグタグを盗み見てみた。
「……あれ? お名前、妙に長いですね?」
「ん? あァ、オヤジがロシア人でな。本名はこっちだ。面倒くせぇから、日本国内じゃ母親の姓を名乗ってるんだ」
「あ、じゃ、それ……ロシア語? 何て読むんです?」
「『弦斗・コブリン・コルニーロフ』だ」
「何だか、舌を噛みそうな名前ですね?」
「だから、ここじゃ日本名の方を名乗ってるんだよ。北見弦斗ってな」
なるほど、その巨躯も銀髪碧眼も、ロシア人の父親譲りだったのか……と、智と芽衣は納得していた。
「っと、いけねぇ。長々と邪魔する訳にもいかねぇんだよ、仕事を抜け出して来てるからな」
「仕事、って?」
「市街地戦を想定した演習だよ。この近所でやってんだ」
「……だから、その装備なんですね」
堂々と言い切る弦斗を見て、智は呆れたような顔になった。が、そんな彼の様を見てもなお、弦斗は大らかに笑っていた。
「そういう事だ。サボりが見付かったら、まぁた減棒だからな。サッサと戻る事にするぜ。あぁ、次は非番の時に遊びに来るからな。譲ちゃんも、またな」
と、手をヒラヒラと振りながら病室を後にする弦斗を見送りながら、智は思わずボソッと呟いていた。
「……俺、あの人に助けられた……んだよな?」
「うん。あの人が智の身体とコアを担いでここまで駆けつけたんだって……そう言ってた」
「あの人、どうして墜落現場からかなり離れた場所に居た、俺を発見できたんだろう?」
「あ、そういえば……そうだね?」
何故、現場から遠く離れた位置で遭難していた自分が、絶命前に発見されたのか。その理由は、今の彼には分からなかった。
「それにしても……」
「ん?」
「あの人、歳は若そうだけど……妙にオッサン臭くない? 雰囲気が」
「あ、芽衣もそう思った?」
「うん。喋り方っていうか、仕草とかが……ね」
二人とも、弦斗の仕草が自分達と同世代とは思えない……そんな感想を持っていたのだった。彼との会話は、どちらかと言えば上司や父親世代の人と話をしているような感触なのである。
「ロシア系、だっけ?」
「そう言ってたな」
「やたら長い名前だったよね……えーと……」
「……ゴブリン?」
「そうそう、確かそんな響きだったね」
……微妙に間違った覚えられ方ではあったが。その名も含めて、智の命の恩人の姿は彼らの胸にしっかりと刻み込まれたのであった。
**********
「サイボーグ!?」
「あぁ。俺も元は、二世代目ヒューマノイドだったんだがよ。アンタと同じように、事故で重傷を負ってな」
軽く流せる雰囲気では無い話を、弦斗は豪快にガハハと笑いながら語った。ちなみに今日は非番である為、私服を着ての訪問であったが、彼の体躯に適合する市販服は滅多に無く、新調するのに苦労するとかで、かなり着込んだ感じのシャツと、ダメージジーンズなのか本当にダメージを受けたのか、ハッキリしないクラシカルなパンツを穿いていた。
「一世代目だったらアンタと同じ選択肢もあったんだが、俺は二世代目だったからな。改造手術を受けて生き長らえるしか道がなかったんだ。肉体を取っかえられんのは、一世代目だけの特権だからな」
弦斗が言うには、一世代目ヒューマノイドの恋人と一緒に旅行をしている最中に事故に巻き込まれ、互いに重傷を負い、自分は辛うじて意識があったために自ら改造手術を受ける決断をして生き長らえたが、恋人はコアを分離された状態のままで放置せざるを得ない状況だったという。
「って、それ……いつ頃の話なんですか?」
「かれこれ二十年前になるかな。あの頃は二十二歳、若かったんだぜ」
「って事は、いま四十二歳な訳ですね?」
「そうだが。それがどうかしたか?」
「いや、見た目若いのに、何か仕草がオッサン……あ!」
「……バカ!」
思わず口を滑らせた芽衣を、智が制した。が、弦斗は気に留めた様子も無く、カラカラと笑い飛ばしていた。
「まぁ、サイボーグって奴は見た目上、歳を取らんからなぁ。そのうえ、生身よりも頑丈に出来てるからな。今の俺にはうってつけ、って訳だ」
「身体、張ってますもんねぇ」
元々がかなりの巨漢だった上、改造手術で全身の六十パーセントほどを機械化してある弦斗は、その特徴を生かして自衛隊の特殊部隊に志願。常に最前線の現場に駆り出され、危険な任務も厭わずに出動していくという。
「……あ、だからかな?」
「何が?」
「いや……例の事件で、俺だけ離れた所で遭難してたのに、良く発見されたなぁ、って。もしかして高性能なセンサーでも付いてるのかなぁと」
「はは、そんな高級装備は付いとらんよ。アレは、ちょっとした偶然なんだ」
「偶然……?」
ベッドの傍らでリンゴの皮を剥いていた芽衣が、智に成り代わって聞き返した。
「あぁ。警察の特殊部隊と俺たち自衛隊の本隊は、まず墜落現場を特定してそこに向かうよう指示されたんだな。けど、俺達の部隊には、爆散した胴体後部の落下地点を特定せよ、という指示が下ったんだよ」
「成る程。そこに偶然、俺が居たって事ですか」
「そういう訳だ。だから、胴体部分の火災に巻き込まれる事も無く、生き残ることが出来たって訳だな」
「今思うと、すっげぇ偶然ですね。あの時トイレに立ってなければ……」
「運も実力のうちだぞ。何でも良い、生き延びられれば勝ちなんだ。とにかく、命は大事にする事だ」
ニッと笑って、弦斗は諭すような一言を智に向けた。が、智はそれに対し、納得いかないという風に言葉を返した。
「……そう言う割りに弦斗さんって、危険度の高い現場にばかり行ってません?」
「ん? あァ。難度の高い現場は、危険手当が高いんでな」
「手当……お金ですか?」
弦斗の口から飛び出した意外なキーワードに、智と芽衣は驚いた。
「なにしろ、ヒューマノイドの身体ってのは高価いからな」
「……! そっか、恋人さんが居るんでしたね」
「ま、つまらない拘りなんだがよ。コイツをな……あの時と同じ姿で、この世に甦らせてやりたいんだ」
ペンダントのボタンを押すと、そこにホログラフィー映像が浮かび上がった。長いブロンドの髪を持った、美しい女性だった。
「アリーシャ……」
「わぁ、綺麗な女性ですね!」
「あ、あァ……ま、まぁな」
思わず本音で感想を述べた芽衣の一言に、弦斗は本気で照れていた。
「弦斗さん、意外とウブなんですね?」
「バッ、バカヤロ! そんなんじゃねぇやい!!」
「顔、真っ赤ですよ?」
「う、うるせぃ!」
本当に真っ赤になりながらホログラフィーを隠してしまう弦斗を見て、智と芽衣はクスッと笑った。そして、人にはそれぞれに、それぞれの人生があるんだな……という事を、智は再認識していた。
「とにかく俺、今回の事件に巻き込まれたおかげで、統合政府樹立運動そのものを素直に受け容れられなくなりましたよ」
「んー……そりゃ、トバッチリを食った訳だからな。無理もねぇか。でも、今回テロを起こしたのは運動反対派だぞ? そっちに付くのか?」
「いや、俺はどっちも支持しませんよ。むしろ、この運動自体が白紙になればな、と思ってます」
「……なるほどな」
国際的な事業として見れば、とてつもなく大掛かりな運動ではある。しかし一市民にとって見れば、まるで雲の上を覗くような話には違いない。増して、そんな夢物語を追う者たちに殺されそうになったとあっては、運動そのものを敵視しても無理は無いなと、弦斗は智の心情を読んでいた。しかし、未だに内紛の絶えないユーラシア大陸の中で生まれ育った彼が、この運動の成功に一縷の望みを託していたというのは、まさに皮肉としか言いようが無かった。
「え? ……事務見習い、ですか?」
「あぁ。君が居ない間に、吉村さんが寿退社したんでな」
智が職場復帰して間もなく、彼の職場に、寿退社した事務員の穴埋めとして中途採用の新社員を入れる事になった。なお、智と、彼と共に行動していた同僚はあの事故機ではなく別の便で帰国、その後に交通事故に遭って智だけが助かった……そのように情報操作され、会社にもそのように報告された。
部内の一名が死亡、一名が肉体を喪失して生存という大事件であったため、暫く重苦しい雰囲気が漂っていたが、当の本人である智の働きかけにより、事故の事は早く忘れよう! と言う風潮が広まり、今に至るのだった。
事故から半年あまりが経過し、その傷跡も癒えた頃になっての、女子従業員の補充という決定である。これを聞いた独り身の男性社員たちが、浮き足立たない訳が無かった。
「何か、若い女らしいぜ。ふふっ、久々に職場に潤いが戻ってくるぞ」
「……その飢えた視線を何とかしなきゃ、ダメだと思うぜ?」
「ウルセェよ! 彼女が居る奴は黙ってろ!!」
「ハイハイ」
同僚の必死すぎる姿に、智は苦笑いを浮かべつつ応対していた。まぁ、独り者の巣窟に若い女性が入って来るとなれば、こうなるか……と、ある意味余裕を持ったスタンスで、彼は上司に先導されて入室して来るその女性の姿を目で追っていた。
「小田原美樹です。宜しくお願いします」
彼女が自己紹介を終えると同時に、一部の男性社員から喝采が起こった。それもそのはず、彼女はスラリとした小柄な身体に豊かな胸を持ち、顔かたちはこれでもかというほどに整った美形。独り者の男性社員が狂喜するのも、無理からぬ事であった。
「……ん?」
男性社員たちが妄想を膨らませるのに夢中になっている最中、智は、挨拶を終えた新入社員から視線を向けられているのに気が付いた。
(気のせい……かな? 彼女、こっちをジッと見てたような……)
智と目が合うと、美樹はフイと視線を逸らし、何事も無かったかのように振舞った。しかし彼女は、指導役となる女子社員に先導されて退出する前に、もう一度智の方に目線を送った。無論、彼もそれに気付いていた。
(気のせいじゃ無い……な。確かにこっちを見てた)
美樹が自分の方を見ていた、それは確かだった。が、こちらからそれを確認するのも、理由を問い質すのも、今の状態では難しい。なにしろ彼女は、大多数の男性社員の注目の的だ。不用意に声を掛けようものなら、変な誤解を招きかねない。
(ま、慌てる事は無いか。用があるなら、向こうから声を掛けて来るだろう)
その時を待って、理由を問い質しても遅くは無い……智はそう考えた。が、その機会は、存外に早く訪れるのであった。
**********
「……完全に、酔い潰れちゃってるな」
「こんなに酒に弱いとは、思わなかったな」
彼女が皆に挨拶をした、その数時間後──勤務明けに執り行われた歓迎会の席で、アルコールに負けて熟睡してしまった美樹を囲んで、男性社員たちは途方に暮れた。
「どうする? 送ろうにも、住所を知ってる課長は先に帰っちゃったし……」
「流石に、放置して帰る訳にも行かないしなぁ」
「こりゃ、誰かが代表してホテルか?」
「そりゃあマズイだろ」
競って美樹の恋人の座を狙った男子社員たちではあるが、流石に出会った初日に、しかも泥酔状態の彼女を連れて一泊しようだなどと考える者は居なかった。確かに彼女の体を楽しむチャンスには違いない。だが、それが一時的な快楽に過ぎない事を、彼らは良く知っていたのである。
「俺の彼女に頼んでみるよ。同性の家にだったら、泊めても問題ないだろ?」
「それしかないかな。スマン朝倉、交渉してみてくれ」
彼らが導き出した打開策がそれであった。つまり、智の恋人……芽衣の家に美樹を預かってもらおう、と考えたのである。
芽衣はその話を快諾し、美樹の安全はこの時点で保障された。無論、そんな事になっているなどとは本人は知らないままではあるが、彼女が意識を回復しないのだから仕方がない。
「しかし、ビール一杯でコレとはねぇ」
「今後の参考になったじゃないか。ま、この程度の酒量なら、最悪でも明日、二日酔いになるぐらいで済むだろ」
「うん。彼女に酒は禁物、って事だな。明日が土曜で良かったな」
などと話している間に、電話で呼んだタクシーが到着。送り役の智が同乗し、芽衣の家へと向かった。
**********
「……う、うーん……」
「あ、起きた?」
「……!?」
見慣れぬ部屋で目覚めた美樹は、その直後に見知らぬ女性に声を掛けられ、一瞬軽いパニック状態に陥った。
「ここは……一体、何が……?」
「アハハ、覚えてないかー。しょうがないね、グッスリ寝てたもん」
「寝てた!?」
美樹は必死に、意識を失う前の記憶を辿っていた。確か自分は、歓迎会の席で、主役として挨拶をして、その直後にビールで乾杯して……
「……そっか、あのビールで酔い潰れちゃったんだ」
「メチャクチャ弱いねー。コップ一杯で寝ちゃうなんてね」
芽衣は明るく笑いながら応対し、酔い覚まし用にとスポーツドリンクを用意していた。そんな様子を見ながら、美樹は考えていた。
(この身体、凄くアルコールに弱いんだ。気をつけなくちゃ)
俯いて考え込む美樹を見た芽衣は、またも明るく笑った。
「アハハ。まぁ、智から電話が来た時は、流石にビックリしたけどね」
「智? もしかして、朝倉さんの事?」
「うん。私、智の彼女で、芽衣っていうの。よろしくね!」
自身も少し酒を帯びているのか、芽衣はやや高めのテンションであった。だが応対は決して荒っぽくはなく、むしろ手馴れた感じで、的確な措置をこなしていた。恐らく、大学のコンパで鍛えられた結果であろう。
「あ……わ、私は……」
「聞いてるよ、小田原さんでしょ? 小田原美樹さん」
「……ええ。ゴメンなさい、見ず知らずなのに、いきなりこんな事になってしまって」
「気にしなくて良いよ。ところで、頭痛くない? 大丈夫?」
すっかり恐縮している美樹にスポーツドリンクを勧めながら、芽衣は明るく接した。
「少し。でも大丈夫ですから」
まだ少々揺れる視界を気力で支えながら、美樹は必死に笑顔を作って応えた。
「無理しないで、辛かったら寝ててね。あ、水分はたくさん補給した方がいいよ」
「あ、ありがとうございます……美味しい」
「でしょ? やっぱりお酒の後はスポーツドリンクよ」
無論、飲んだ直後に効果が現れる訳は無いのだが、飲酒後の水分補給は医学的な見地からも推奨されており、特に泥酔時には必須とまで言われている。それに芽衣による明るい応対と仕草が加わって、美樹は徐々にリラックスしていった。
「あ、ところで……今、何時ですか?」
「一時過ぎだよ。もうちょっとしたら、私も寝ようと思ってたんだ」
その台詞を聞いて、美樹はハッと気付いた。この部屋にベッドは一つしかない。それを自分が占領したら、彼女はどこで寝るんだ? と。
「ご、ゴメンなさい! ベッド、一つしかないのに」
「え? あー、大丈夫だよ。あっちのソファーもベッドになるから」
そう言って、芽衣は部屋の向こう側にあるソファーを指差した。もう寝る準備を整えてあったのか、既にソファーは両端を倒してフラットに変形してあり、そこに毛布と枕が用意されていた。
「わ、私がそっちに行きますから」
「いいんだよ。具合が悪い人がちゃんとしたベッドで寝なきゃ。それに、しっかり介抱しないと、智に怒られちゃう」
「あ……」
美樹は『そうか、この人は朝倉智の恋人なんだ』と再認識した。そして、自分がどうしてその職場に入り込んでまで、彼との接触を望んだか……その理由を考えたら、この状況はむしろチャンスではないか? と気付き、彼女は芽衣に話し掛けた。
「あの……芽衣さん?」
「え?」
寝間着に着替えようとして、洋服のボタンに手を掛けていた芽衣が、そのままの格好で振り向いた。
「朝倉さんって、前はどんな姿だったんですか?」
「……!?」
美樹の口から紡がれたその質問で、和やかだった場の空気は一瞬にして緊迫したものに変わった。それまでニコニコと笑っていた芽衣の表情も、一気に凍り付いてしまった。
「古い同僚の方なら、昔の彼を知っているんでしょうけど。私、航空機事故で肉体を取り替える事になった事情しか、知らないもので」
「ちょ、ちょっと待って! どうしてそれを知ってるの!?」
芽衣の回答は、美樹の質問を質問で返す形になってしまった。だが、無理も無い。それほどに、美樹の一言にはインパクトがあったのだ。智は自動車事故で肉体を破損し、代替の肉体で蘇生した……このように情報操作されていた筈。だが、美樹は今、確かに『航空機事故』と言った……そして、美樹の言葉はこれに留まらなかった。
「今の彼の身体には、以前は私が入っていたんです」
「も、もう一回言って?」
「朝倉さんの身体は、元は私の身体だった……と言ったんです」
その言葉を聞いた直後、芽衣は完全にフリーズしてしまった。
「私の名前も、本当は『みき』ではなく『よしき』と読むんで……って、芽衣さん? 聞こえてます?」
目の前で茫然自失となっている芽衣を見て、美樹は初めて自分の発言が相当なショックを与えると言う事に気付いた。しかし、彼女もそれほど必死だったのだ。事情を鑑みれば、それを責めるのは酷であろう。そして、芽衣が話を出来るようになるまで、暫しの時間を要したのであった。
**********
『……はぁ!? 俺が小田原さんだって、どういう意味だよ芽衣?』
「だからぁ、智と入れ替わりで美樹さんが……」
『益々ワケわかんないって』
美樹から事情を聞いた芽衣は、慌てて智に電話を掛けた。歯ブラシを咥えたままの智のホログラフィー映像が、更にマヌケな表情を作り出していた。
「私から説明します。いいですか?」
その様子を見かねた美樹が間に入り、すっかりパニック状態の芽衣に代わって説明を始めようとした。
『あ、あぁ、うん』
「……まず、朝倉さんが事故に遭って入院していたのと同じ時期に、私も入院してたんです」
『うん』
「その時、私もコアを分離して、治療を受けてたんです」
『ん? って事は、君も一世代目……あれ? 待って、まさか!?』
直球を避け、少しずつ事実を明かす美樹の説明を聞き、智はある結論を導き出した。そして、その推測は正しかった。
「ご推察の通りです。その身体は、元は僕の身体なんです」
『……どうして、君の身体がこっちに回ってきたんだ?』
「書類上の手違いで、僕にこの身体が手配されたんです。名前が名前だから、ダウンロード担当の技師も疑わず、そのまま……」
説明を続ける美樹の声も、段々とトーンが落ちて来た。が、然もありなん。この状況で笑っていられるほどの、強メンタルの持ち主など、そうは居ないであろう。
「本来ならば、一年待って再手術する筈だったんですけど、その手続きが完了する前に、朝倉さんのオペが実施されて……」
『君の身体に、俺が入れられた、と……こういう訳か』
種を明かせば、極めて単純なヒューマンエラーであった。しかし、医療機関が起こしたミスとしてはあまりにも間抜けで、お粗末と言わざるを得ない事例に、被害者である二人はそれぞれに腹を立てた。
『とりあえず、今からそっちに行く。電話だと盗聴される恐れがある』
「その方が良いですね。芽衣さん、宜しいですね?」
「え? ……あ、うん」
やっとの事で状況を飲み込んだ芽衣の承諾を得て、智は再び芽衣の家に行く事になった。時刻は午前一時半を回ったところ。酒気帯び状態である為に自力で運転する訳にも行かず、彼は急いでタクシーを呼び、移動を開始した。
**********
「まず、病院の中央管理センターに問い合わせよう。これは立派な事件だよ、プライバシーと人権の侵害だ」
「ですね。この身体を捜すために、どれだけ苦労をしたか」
代表して智が、手術を担当した病院の管理センターに電話を掛けた。深夜ゆえに係員の数も減らされており、対応に時間が掛かり、彼らはかなり待たされた。だが、その結果、やっと返ってきた回答が『重要機密に抵触する為、対応は出来ない』というものだった。これでは話にならないと、智は更に食い下がった。しかし病院側から一方的に電話を切られてしまい、そこで通話は強制的に終わりにされてしまった。
「酷い対応だな」
「入院してる時もそうだったけど、ちょっとやり過ぎな感じはするね」
「俺の名前が、禁則事項のキーになってるみたいだな。こりゃ厄介だぜ」
「やはり、あの事故は……ただの墜落事故ではなかったんですね?」
「……!?」
美樹の台詞を聞いて、智と芽衣は一瞬にして凍りついた。特に芽衣は、先程の告白の時以上に狼狽していた。
「君は一体、何処まで知っているんだ?」
「朝倉智と言う男性が、『あの』二〇五便に乗っていた事までは知っています」
「……!!」
智と芽衣は絶句した。情報操作は完璧だったはず。なのに、どこかでリークしている。一般人の調査で露見してしまうような杜撰な管理で、機密保持も何もあった物ではないと、二人は先程とは違う理由で憤慨していた。
「明日にでも、弦斗さんに相談してみよう。これは、俺達だけで解決できる話じゃなさそうだ」
「そうだね」
「教えてください。どうして嘘の報道をしてまで、真実が隠されているんですか? 機密って何なんですか?」
美樹の質問に、智たちはすぐにでも答えたい気持ちでいっぱいだった。だが、今ここで答えてはいけない、自分達が口を割る訳には行かない……彼らはそう考え、グッと堪えた。
「済まない、それを、俺たちの口から言ってしまう訳にはいかないんだ。明日、自衛隊にいる知り合いを通して、指示を仰ぐ。それまで、答えは待って欲しい」
「……分かりました」
残念そうな表情を浮かべながらも、智たちの言葉を真摯に受け止め、美樹は引き下がった。そしてふと芽衣が時計に目をやると、既に午前四時近くになっていた。
「遅くなっちゃったね。智、泊まってく?」
「そうして貰えると助かるかな。今からじゃタクシー拾うにも一苦労だし、明日は早くから行動しないとならなさそうだからな」
そう言って、智と芽衣は何の躊躇いも無く抱き合いながら、狭いソファーベッドに寝転がり、毛布を被った。
(じ、自分の体でああいう事をやられちゃうと……ちょっとなぁ)
そんな二人を、美樹は複雑な表情で眺めるのであった。
**********
翌日、土曜の昼過ぎ。智たち三人は陸上自衛隊の駐屯地の中にある、会議室に通されていた。室内には航空会社の幹部役員、事故調査委員会の係員、そして直接救助に当たった自衛隊の面々、それに幕僚たちが顔を連ねていた。
「小田原美樹さん……あなたは何処で、朝倉智さんが航空機事故により負傷した事を知ったのですか?」
「ネットで、彼の名をキーにして検索した結果、当該便の乗客名簿がヒットしたのです」
事故調査委員会からの質問に、美樹が答えた。その回答を聞いて、質疑者側にどよめきが起こった。
「何故、ネットで検索しようと考えたのですか? 病院に事情を説明すれば、朝倉さんとのコンタクトは可能だった筈では?」
「いや、それは無理です。本件は重要機密ゆえ、病院は勿論、各機関にも厳重な箝口令を敷いてありますので」
美樹が回答する前に、自衛隊の幕僚長付き高級士官・伊藤聖司一等陸佐が答えていた。機密というキーワードを出されては、事故調側も深く追求は出来ない。
「そう、病院で聞いても、何故か自分の身体を誰に提供したかすら、教えてはもらえませんでした。ですが偶然、病室のドアの隙間から、自分の顔を見つけたのです。つまり、ベッドの上で談笑する朝倉さんを……」
「成る程……それで、彼の名前を知るに至った訳ですね?」
「はい。ですが、その時に出て来た自衛官の方に咎められ、訪室は認めてもらえませんでした。その後も、何故か彼の病室には入る事が出来ず、手をこまねいているうちに、朝倉さんは退院してしまいました」
そう回答をしながら、美樹はチラリと弦斗の方を見た。その視線を受けて、弦斗はポリポリと鼻の頭を掻いた。そう、その時の自衛隊員とは、紛れもなく弦斗の事だったのだ。
「ネット検索に頼った理由は、本名で個人ブログを開いている方も居るので、そういった手掛かりだけでも無いかと思ったからです。事情を説明すれば身体を返して貰えるかも知れないと思い、執拗に追跡したのです。その後の経過は、先程お話した通りです。名簿は、CSVファイルで配布されていました」
「相手の名前が分かっていたのなら、興信所などを利用する事も出来たのでは?」
「探偵を雇うお金などはとても……入院代だけで精一杯でしたから」
美樹の報告は以上だった。が、事故調、航空会社の各面々と自衛隊幹部は、深刻な面持ちで唸るばかりであった。
「本件がテロ行為であると判明した時点で、一切の情報は機密扱いとなり、持ち出しは厳重に取締りの対象となった筈」
「左様。同時に情報操作を行い、生存者の存在は秘匿された」
自衛隊幹部の発言に呼応し、事故調が情報操作を行った事を強調した。その発言に皆が頷く中、美樹だけは他の誰とも違う反応を示した。然もありなん、その場に於いて、彼女だけがその事実を知らなかったのだから。
「……テロ!?」
その反応を見て、事故調の一同は『しまった』という顔になった。そんな中、弦斗が挙手し、意見具申した。
「彼女……もとい、彼……小田原美樹さんは、病院側のミスによって違う肉体にコアをダウンロードされ、その間に本来の肉体を本件の生存者である朝倉智さんに横取りされる形になった、いわば間接的な被害者です。この件の関係者であることを証明出来ない限り、彼は本来の肉体を取り戻す事が出来ません。よって、彼も事の真相を知る権利を充分に持ち得ると思われます」
シン……とする幹部連。だが、事故調の係員が呟くように漏らした一言を皮切りに、場の空気が動き出した。
「小田原氏は、既に二〇五便についての報道が虚偽の物である事を暴いている……」
「ふむ……事情が事情だけに、問題が解決するまでは個人的な追及を繰り返すでしょう。その行程でデマが拡散するよりは、我々の口から真相を伝え、その上で箝口令を敷いた方が良いかと考えますが。如何でしょう?」
航空会社の役員がそれに呼応し、自衛隊の幕僚に目配せを送った。それを受けた幕僚は、暫し目を伏せて考え込んで居た。が、やがて静かに口を開き、美樹への真相の公開を許可した。そして、事故調側から改めて、美樹に対して事の詳細が説明された。その真相を知った美樹は、驚きのあまり暫し放心していた。
「単なる事故じゃなく、そんな大規模な事件だったなんて……」
「俺もビックリだったよ。でも、これが真相なんだ」
真っ青になる美樹に、現実を直視しろ……という意味を込めて、智が言葉を添えた。
「……宜しいですかな? では、会議を再開します。機密保持について、航空会社側ではどのような措置を取っていましたか?」
「不法アクセスに関する対策は、完璧であった筈です。更に当該便に関する情報は、箝口令が敷かれた直後に全て破棄しました」
「ですが、現実にこうしてリークしているではないですか! 完璧な対策が聞いて呆れますな」
航空会社側の発言に、事故調の代表が声を荒げた。が、それを意にも介さず、弦斗が美樹に直接問い掛けていた。
「なぁ、アンタ。さっき、この旦那の名前で名簿がヒットしたって言ってたな」
「え? ええ、英語表記と日本語表記で検索して、英語の方でヒットしたんですが……それが?」
「そりゃあ、おかしいじゃねぇか。そんな重要機密が、どうして暗号化もされないでポンと置いてあるんだよ!?」
「あ……!」
自衛隊、事故調、航空会社の面々が、一斉に緊張し、そしてざわめき立った。
「……確かに、我が社で取り扱っている情報は、全てプロテクトが掛けてある。万一持ち出されても、判読は不可能な筈だ」
「プロテクトを解除するには、専用のプログラムが必要になる。一般のデバッガーではロードする事すら出来ないのに……」
テロリストによるハッキングか、それとも調査関係者からのリークか、それは分からなかった。だが実際に、情報は漏洩していた。しかも、暗号化されている筈のデータは、一般人による検索でアッサリと判読出来てしまったのだ。それはつまり、全てのセキュリティを完全に無効化されていたという事になる。これに、航空会社の面々は大きなショックを受けていた。
「その時に行き当たったURLを、思い出せますか?」
「はい。それに、ヒットと同時にダウンロードが始まったので、ファイルも此処にあります」
ポンと提出された小さなメモリースティックをまじまじと眺めながら、事故調・航空会社の面々はひたすら唸り声を上げていた。そして幕僚たちの指示で、自衛隊の特務部隊から情報処理部門のスペシャリストが呼ばれ、そのファイルが保管されていたサーバーの捜索が開始された。URLが分かっているのでファイルそのものへのアクセスは容易に行えるが、削除するためには管理者権限でログインするか、或いは……不正行為ではあるが、そのサーバーにハッキングを掛けなくてはならないからである。
「さて、サーバーの検索は彼らに任せて……」
「これは……間違いありません。当該便の顧客リスト、それに当該機の設計図や諸元表、当日のフライトプランまで……見事に盗まれていたという訳ですな」
その検証結果を聞いて、一同は唖然とした。固く秘匿されている筈のデータが、すっかり丸裸にされ、平文の状態でHTTP上に放置されていたのだ。つまり賊は事故の直後か、或いはそれ以前にデータを持ち出し、解析していたという事になる。が、それが可能な者は、航空会社の情報部門に籍を置く専門家か、或いは彼らに対する発言権を持つ人物に限られる。なのに何故……と、場は騒然となった。しかし、驚いている場合ではない。急ぎサーバーの場所を特定して、この漏洩情報を完璧に削除しなくてはならないのだ。
「とりあえず、URLからサーバーのIPアドレスを割り出して、経路を特定する事は出来ましたが……」
「パスワードが難解ですね。幾重にも疑似エントリーが展開してあって、解析にはもう少し掛かりそうです」
流石のスペシャリストたちも、自分と同等レベルの能力を持つエンジニアの作ったトラップを解除するのには手こずるようで、その防壁突破は至難の業であるようだ。そんな彼らを横目に見ながら、智たちもハラハラとしていた。が、此処で弦斗がある事に気付いたのか、傍らに居た美樹に問いかけた。
「あのファイルに行き当たったのも凄いが……一体、どうやって勤務先まで調べたんだ?」
「うん。あのリストには、名前と番地抜きの住所、それに携帯電話の番号ぐらいしか載ってない筈なのに」
「え? どの町に住んでるかが分かれば、後は簡単じゃないですか。街中で聞き込み……ムグッ!」
サラッと危ない事を言いそうになった美樹の口を、弦斗が慌てて塞いでいた。
「お前さんが執念深いのは良く分かった。だが、その先は言っちゃならねぇ」
「うん。ストーキングされてたのは水に流すから、もうやらないで……な?」
「こ、こういう場合じゃなきゃやりませんよ、こんな事……」
美樹の場合、智の名前と凡その住所は判明したのだが、如何にして接触するかで悩んだのだった。何しろ、ヒットしたのは『あの』二〇五便の乗客名簿だったのだ。同姓同名の別人かも知れない。しかし、もしかして……という可能性に賭け、その住所付近まで赴き、張り込みを続け、自分の顔写真を用いて聞き込みをして、漸くアパートを突き止め、住人の顔を見たら……案の定、元の自分の身体がそこにあった。美樹は早速コンタクトを取り、事情を説明して……と思ったが、よく考えれば色々と無理がある。いきなりこんな話をしても門前払いになるに決まっているし、過度に警戒されて警察沙汰にでもされたら堪らない。ならば、まず仲間になるところから始めれば良いとう結論に至り、結果としてそれは成功だったのである。
と、その時。漸く防壁を突破する事に成功したのか、ハッキングを行っていた技術者たちが歓声を上げた。
「やりました、プロテクトが解除できました!」
「ロサンゼルスですね。恐らく個人運営のサーバーでしょう、他のアカウントは存在しないようです」
その報告にホッと胸を撫で下ろした航空会社の面々は、急ぎデータの削除を実施。これにより、このサーバーからの情報拡散を抑止するという目的は達成された。が、まだ問題は残っていた。こうして情報漏洩が発生しているという事は、他のサーバーにもデータが複製されている可能性があるからだ。寧ろ、大変なのはこれからなのである。
「でも、弦斗さん。随分と大事になっちゃいましたね?」
「あぁ、面倒な事になった。まさか、あんなもんがリークしちまうとはなぁ」
「そのお陰で僕は、こうして元の身体を見付ける事が出来た訳ですが……でも、一体誰が、何の目的で?」
その、美樹の疑問は尤もだった。その情報を見て得をする者など居そうに無いし、特定の人物に対する嫌がらせとも思えない。そして、最大の疑問は漏洩箇所だ。何処から漏れたのか? それによって目的の規模も質もガラリと変わる。だが、航空会社から漏れたとは考えにくい。それは即ち、自社の信頼を貶める事に直結するからだ。かと言って、事故調や自衛隊内部からの漏洩も考えにくい。しかし、この三者のどこかに犯人が居る可能性は否定できないのだ。
「外からのハッキングだろう、多分」
「そうですね……それも、恐らくはテロ犯の仕業でしょう。他に、この情報を欲しがる奴が居るとは思えないですし」
「僕もそう思います」
「…………」
「……な、何です!?」
美樹の発言の後、彼女……いや、彼を除く三名は、ピタリと喋るのを止め、暫し沈黙していた。が、まるで申し合わせたかのように揃って目線を上げると、三者三様に同じ事を指摘した。
「なぁ……」
「頼むから、その姿で……」
「『僕』はやめて……メチャクチャ似合わないから!」
「なっ! 何を言い出すかと思ったら……シリアスぶち壊しじゃ無いですかっ、もう!」
真っ赤になって膨れる美樹を見て、三人ともゲラゲラと笑った。それぞれに、ずっと言いたいのを我慢していたのだろう。
「アハハ、悪い悪い。でも、外じゃ女で通してもらわなきゃ困るんだ。一人称には気をつけてくれよな」
「大丈夫ですよ、僕……いや、私にだって、この容姿に男の一人称が似合わない事ぐらいは分かりますから」
膨れたまま、美樹はプイと横を向いてしまった。そんな彼に、弦斗が更に追い討ちを掛けて遊んだ。
「そう怒るなよ、ミキちゃん」
「ヨシキですっ!」
そう言いながら、美樹が恨めしそうに智の顔を凝視した。
「そ、そんな顔で睨まれても困るよ。俺だって、望んでこの身体に入ったんじゃないんだから」
「う~……早く半年経たないかなぁ」
「ま、参ったな……弦斗さん、あんまりからかわないで下さいよ」
怒る美樹と、困る智を交互に見ながら、弦斗はガハハと笑った。が、お笑いはそこまでだった。彼はひとしきり笑ったかと思うと、キリッと顔を引き締めた。
「今日はお疲れさん。ショックな出来事が続いたとは思うが、気を落とさないで頑張ってくれ」
「大丈夫ですよ。私たちの問題は、半年後には解決するんだし」
「そうそう。それに大変なのは寧ろ、あの方々でしょ?」
重い足取りで帰路に就こうとする事故調の面々を目線で追いながら、智が然も気の毒そうに言い放った。
「そうだね。今回の情報漏洩がテロ犯の仕業だとしたら、もっと危ないところも探さなきゃいけないかもだもんね」
芽衣も、引き続き調査を担当する事になる係員たちに、同情の目線を送っていた。データの追跡自体はそれ程危険を伴う作業ではないが、アクセス対象はテロ犯である可能性が高い。それなりに腕の立つハッカーも、メンバーとして控えていると考えて良いだろう。もし逆ハックを受ければ、侵入経路から端末の位置を特定され、攻撃の対象となってしまうかも知れない。まさに命がけの追跡作業となる訳だ。しかし、その様を傍で見ていた智が、とんでもない事を美樹に尋ねていた
「なぁ、小田原さん。さっきのファイル、コピー取ってある?」
「え? えぇ、ありますよ。って云うか、さっき渡したのがコピーした奴で、オリジナルは……ほら、ここに」
「……って、まさか!?」
美樹が智の問い掛けに応じると、芽衣は驚きの声を上げた。が、然もありなん。この状況で、当該データを欲する理由など、素人の彼女にも直ぐに察しが付くというものだ。
「あ、危ないよ智! 相手はテロ犯かも知れないんだよ!?」
「大丈夫、心配すんなって。俺だってシステム屋の端くれ、足跡を消しながらハッキングするなんて朝飯前だからな」
その回答に、芽衣は不安そうな表情を浮かべたが、智はそれを笑顔で受け止めた。しかし、重要なのは何処の誰が、何の目的で情報を漏洩させたのかという事であって、それを突き止める為には多大なリスクを冒す必要がある。ゆえに、彼女は智の身を案じて、懸命に止めようとしていたのだ。
なお、美樹も既に事件の真相に行き着いてしまった為、病院側の責任に於いて、朝倉智には新たな肉体を探し、小田原美樹は元の肉体に戻すという処置が、自衛隊側からの指示で実行される事になった。
「……半年で済んで良かったね」
「そうですね。このままの状態で長く過ごしていると、各々がそちらの肉体の方に馴染み過ぎてしまいますから」
「うん、それもあるんだけど……えっと、筋肉質な体はお好き?」
「え!?」
芽衣が苦笑いを浮かべながら、美樹に尋ねた。それは智の肉体の、元の持ち主が彼女であったと判明してから、ずっと考えていた事だったのだが……どうやらその懸念は、的を射ていたようだ。
「さっきの質問の答え……ほら、これが昔の智だよ」
芽衣は未だロケットのホログラフィーに入ったままになっていた、以前の智の姿を映し出した。それを美樹は何ともいえない表情で見詰めていた。
「安心して。事情が分かった以上、この身体を必要以上に鍛えたりはしないし、乱暴に扱って傷つけたりもしないから」
「……そうして貰えると助かります」
どうやら美樹は、筋肉質な肉体はあまり好きではないようだ。ともあれ、彼らに改めて措置が為されるのは少なくとも半年後、つまりコアを肉体に入れてから一年が経過した後でなくてはならない為、それまでは現状のままで過ごす事になったのである。と、その時。智たちの会話に割って入る声があった。
「北見二尉! 必要以上に民間人と接触する事は禁じた筈だぞ」
「も、申し訳ありません、一佐殿! ……すまんな。立場的にヤバいんだよ、俺がアンタらと私的に話すのは。また今度、次は上役の目の届かない所でな」
この場に於ける、自衛隊の最高責任者──伊藤一佐である。弦斗は彼からの厳しい叱りを受けて、そそくさと退場して行った。その姿を見て、三人は『嫌な事件に巻き込まれたものだ』と顔を見合わせて溜息をついていた。
**********
「ふぅ……」
「お疲れ様、コーヒーでも如何?」
「有難う」
言葉少なく、智は美樹が手にしているトレイからコーヒーカップを受け取り、一口その香りを楽しんだ後、カップを机の上に置いて、目頭を強く押さえた。
「あまり根を詰めると、身体に毒だよ?」
「分かってるさ。けど、コイツを早く仕上げちゃわないと、チーム全体に迷惑が掛かるからね」
智の目の前には、複数の画面が宙に浮いて表示されていた。その何れもが、プログラムのソースリストと、その実行画面と思しき物を表示しており、現在の彼の忙しさを物語っていた。だが、一つだけ何やら違う作業の経過を映し出す画面があり、美樹はそれに注目した。
「やはり、同じキーワードでは見付からない?」
「あぁ。他にも便名、航空会社の名前なんかも試したけど、どれもアウト。本職の方々もまだ獲物を見付けていないようだし、もしかしたらあの一件だけで終わりなのかも知れんな」
智は、漏洩データの検索を事故調任せにはせず、自動情報検索プログラムを自作し、考えられる全てのキーワードを入力してネット上を洗っていた。だが、有効な結果は得られないままだった。また、彼が『本職』と称した事故調に於いても、事件に携わった者全員に対する厳しい聞き込み、及び墜落現場に残留する証拠物件の調査を強化し、多方面から『獲物』を探していた。しかし機密事項ゆえに極秘裏に動かねばならず、捜査は困難を極めた。
「あの情報がサーバーに残っていたのは、やっぱテロ犯のミスだったのかな?」
「だろうな。恐らく犯行に使ったデータを消去せず、放置していたんだろう」
その一言を聞いて、美樹は神妙な面持ちになった。よもや彼が……いや、彼に渡った自分の身体が、このような大事件に関与している等とは、思いもしなかったのである。
「……あんまり気にすんなよ、悪いのは情報をハックされた航空会社なんだから」
「うん、でも……ごめんね」
申し訳なさそうに頭を垂れる美樹の肩をポンと叩きながら、智はにこやかに笑った。と、その時。不意に彼の携帯電話が着信を告げるアラーム音を発した。
「ん? ……番号非通知か。誰だろ」
怪訝に思いながらも、智はその着信に応じてみた。が、相手は何も言わず、シンとした静寂だけが耳に届いていた。
「何だ、イタズラか? ったく、人騒がせな……」
軽く苛立ちを募らせながら、智は通話を終了させ、携帯電話をポケットに仕舞った。その様を見て、美樹は益々心配になった。
(ああ、やっぱりストレスなんだな……あんなにイライラして)
自分の行動が無ければ、情報流出の事実も明るみには出なかった。問題の早期発見には繋がったが、それは飽くまで結果論であり、単なる偶然に過ぎない。美樹は、結果的に自分の所為で智を苦しめる事になったのだと、それを気にしていた。
(せめて、彼の気を紛らすぐらいの事は、してあげないとな……)
しかし、美樹のその気遣いは、社内に於いて不穏な空気を作る元凶となっていたのだった。
**********
会社に泊まりこむこと三日目。智たちソフトウェア開発チームの面々は、疲労のピークを迎えていた。ある者は栄養ドリンクの空き瓶に埋まり、またある者はプログラムがテストに回っている僅かな時間を利用して少しでも仮眠を摂ろうと、アイマスクと耳栓を装備して体力の温存に努めていた。智も例外ではなく、徐々に虚ろになっていく意識を何とか気力で支えつつ、必死にキーボードに喰らいついていた。が、睡眠不足から頭痛を誘発し、我慢が出来なくなった彼は、携帯していた頭痛薬を服用する為に、自販機へミネラルウォーターを買いに行こうとして席を立った。
「工程に無理がありすぎなんだよ、納期に対して工数が足りなさ過ぎるんだ……これだから現場を知らない設計者は……」
ブツブツと文句を言いながら、智がベンチに腰掛け、せめて眩暈が治まるまで休ませて貰おうと目を閉じた、その時。鈍い音を立てて、彼の側頭部に硬い物がぶつかった。しかも、丸みを帯びた物ではない。何か、箱のような物の角だ。
「つつつ……な、何だぁ!?」
「おぅ、わりぃな朝倉。こっちもフラフラでよ。つい、よろけちまった」
ぶつけられた側頭部をさすりながら、智は声のする方に目線を向けた。するとそこには、プラスチック製のコンテナを両脇に抱え、いかにも重そうにそれを持ち歩く同僚の姿があった。
「平田か。気をつけてくれよ、誰かが怪我でもしたら、お前らだって困る事になるんだぞ?」
「あーあー、すまねぇな」
一応詫びの言葉は貰えたが、何やら気持ちが篭っていない。本気で詫びる気があるのか? と智は腹を立てたが、今はそんな事に体力を割いている余裕は無い。とにかく頭痛薬が速く効くことを祈りつつ、彼は自分の部署へと戻っていった。
「三時か……あと二時間もすれば夜明けだな」
そんな事を呟きながら、智は空き瓶やゴミがあちこちに転がる通路を潜り抜け、自分のデスクに向かおうとした。が……
「うおっ!」
「あぁ、ワリ。引っ掛かった?」
ダラリと通路に放り出された同僚の足に躓き、智は危うく転倒しそうになった。彼は思わず、その同僚に文句を言った。
「中村ぁ、何てだらしない格好だ。せめて通路は確保しろよな」
「悪いねぇ」
先程といい今といい、何となくだが悪意を感じる謝られ方だった。またもカチンと来た智だったが、こんな処で体力を費やす訳にはいかない。苛立つ気持ちを抑えて、彼はデスクに戻った。そして仕事を再開しようと、キーボードに向き直ったその瞬間……彼の端末はいきなりその動きを止め、全てのモニターが消失した。
「なっ……!?」
「あれぇ? これじゃなかったかぁ? わりぃわりぃ、誰の端末だ?」
「お、岡部ぇ! お前これ、洒落になんねぇぞ!?」
「あぁ何だ、朝倉のかぁ。お前ならすぐリカバー出来るだろ? 大丈夫、大丈夫!」
コンセントの誤抜をした事に対して詫びも入れず、あっけらかんと笑い飛ばす、少々小太りの同僚。これは流石に受け流す訳にはいかず、智はその男の胸倉を掴んで睨み付けた。
「バックアップは取ってあるがな……作業の遅れを取り戻すのにどれだけ掛かるか、知らない訳じゃないだろ!?」
「謝ったじゃーん、怒んなよぉ」
「いつ謝った!! 俺にはそうは聞こえなかったぞ!?」
「えー? 岡部ちゃん『わりぃわりぃ』って言ってたじゃん? 耳悪いんじゃないの?」
先程、足を引っ掛けた男が、岡部という男を擁護する発言を智に浴びせ掛けた。
「ま、彼女いるくせに、女子社員に贔屓されてる甘ちゃんには、いい薬だろうよ!」
ロビーで智に箱をぶつけた男が後に続き、その後は我も我もと言った感じで、智を罵倒する笑い声が響き渡った。
「そうか……さっきから何かおかしいと思ったら、テメェら……わざとだったのか!?」
「おいおい、人聞きの悪い事を言うなよ。偶然だろ、ぐ・う・ぜ・ん!」
その岡部の発言が智の逆鱗に触れ、彼はついにその顔面に拳を入れてしまった。鍛えていない華奢な肉体ゆえパワーは無いが、的確に相手の急所を打ち抜く技量は衰えてはいない。僅かな力でも、相手に強いダメージを与える事は充分に可能なのだ。
「岡部っ!」
「畜生、やりやがったな!? この野郎!」
「うるせぇ! みみっちい真似しやがって、モテねぇのはテメェら自身の所為だろうが!!」
ただでさえ苛立ちもピークに来ていた面々が、理性を失って争いを始めたのだから堪らない。しかも、最初からターゲットは智一人。他の全員が結託しての嫌がらせだったのだから、勝敗は目に見えていた。不意打ちを喰らった岡部という男を除いて、連合軍は無傷、智だけがボコボコにされるという結果に終わった。そして智へのささやかな報復を終えて溜飲を下げた彼らは、やれやれといった感じでサーバーに残ったログを遡り、最終バックアップの入ったフォルダを探し始めた。
「バックアップは最終時の二時間前……二時間丸々遅れる訳だな」
「手分けして掛かれ、そうすりゃ労力は六分の一だ!」
ひとしきり暴れた後、遅れた作業の穴埋めの為、チーム一同は超人並みの力を発揮した。いがみ合っていても、流石は社会人。責任という言葉だけは忘れてはいないようだ。が、わだかまりが解けた訳ではない。
午前八時過ぎ、部内の清掃が日課になっていた美樹が出社してきた。が、彼女は部内の惨憺たる有様を見て絶句した。
「なっ、何ですか、これ!?」
「おー、小田原さん。おはよう」
「なぁに、ちょっと部屋の中で嵐が起こっただけさ。大したこと無いよ」
各々に軽口を叩いて、部員たちは皆で何事も無かったとアピールした。だが、怪訝に思った美樹は、一際散らかり方の酷い智のデスクに近寄り、そっとパーティーションの中を覗いて……その中で端末に向かっている彼の姿を見て、思わず大声を上げた。
「あっ、朝倉さん! どうしたんですか、それ!!」
智は、目の周りに青タンを付けられ、頬は腫れ上がり、口元には血を拭った跡が付いていた。鼻にはティッシュが詰めてあり、それも赤く染まっていた。おまけに、ワイシャツにも血痕が点々と付いており、明らかに暴行を受けましたというのが見え見えの様相を呈していた。
「……連中も言ってたろ? 嵐がな……来たんだよ。そんだけだ、気にしないで」
そう言いながら、智は付箋にサラサラと簡単なメモを書いて美樹に手渡し、まず手を顔の前にかざして詫びのポーズをした後、これ以上騒がないようにと、口元に人差し指を立てるジェスチャーをしていた。
『身体を傷つけてスマン、後で謝る』
メモにはそう書かれていた。智の他には誰も傷ついている者は居らず、彼だけが集中攻撃を受けたことは明白だった。が、彼は『騒ぐな』と言っていた。
(……一体、何があったの?)
小声でそう言いながら、美樹は救急箱を用意し、智のダメージ箇所を手当てし始めた。
(ったく……みっともねぇったらありゃしねぇ)
(……?)
何か言いたそうな美樹を、智が目線で制した。そして、この続きは後で……と短く伝え、互いに頷いて会話は終わった。
「いててて! そ、そこ、もうちょい優しく頼むよ!」
「動かないで! 消毒できないでしょ、もう!」
パーティーションの内側に向かって座り、智と顔を突き合わせて手当てをする美樹の背中を見ながら、他の五人は『自ら彼らを近づける要因を作ってしまった』と、地団駄を踏むのであった。
**********
「はあぁ!? ヤキモチぃ!?」
「あぁ。言うなれば、男の嫉妬って奴さ。目も当てられないよ、みっともなさ過ぎてさ」
要は、美樹が自分の肉体を監視する為に、暇さえあれば智の方を見ている事が、美樹による智への好意の表れであると勘違いした男性社員の癇に障った……と、こういう訳である。
「ついでに言えば、良く俺に差し入れを持って来たりしてくれるだろ? アレも、連中は気に入らんらしいぜ?」
「あ、アレは! 例の件で神経を遣ってる君に、少しでも元気になって貰おうとしてるだけで!」
「分かってる、ありがたいと思ってるよ。でも、真相を知らない連中に、そんな裏事情は分からない。傍目には、依怙贔屓しているようにしか見えないのさ」
「そんな……」
ガックリと肩を落とす美樹に、智は『お前の気持ちは、痛いほど分かるんだけどねぇ』と、同情の視線を向けた。そして彼は、天井を仰いで一呼吸すると、ゆっくりと口を開き、提案した。
「要するに、あの事件との関連性だけを黙っていれば問題は無い訳だろ? 俺は自動車事故で身体を失くした事になってるんだからさ」
「あ……そうか!! その身体が本当は僕の身体だって事自体は、ばらしても問題は無いんだ!!」
「まぁ、中身が男だって分かったら、連中はガッカリするだろうけどな」
「男に求愛されたって困るし、丁度いいよ」
その一言に、智は『そりゃそうだ!』と、腹を抱えて笑った。睡眠不足でナチュラルハイになっていた彼は非常に陽気だった。そして昼休み、深夜に騒動を起こした五名をミーティング室に集めて、美樹が自ら事情を説明した。
「あのぉ、プライバシーに関する事なので、あまり大声では言いたくないのですけど……実は……」
何だ、交際宣言でもする気か? と、呼ばれた男子社員たちは不機嫌そうな顔をしていた。が、美樹の説明が進むに連れ、彼らの顔色は徐々に青くなっていった。
「朝倉さんの事を見ていたり、彼を気遣うような素振りを見せたのは、自分の身体を乱暴に扱われたくないからで……決して、彼に好意があった訳ではありませんから、誤解なさらないで下さい。繰り返しますが、僕は男です」
「分かったか? これが真相だ。いいな? 分かってると思うが、必要以上にこの事を言い広めたりするなよ?」
その説明も、聞こえているのか、いないのか……茫然自失となった五人は真っ青な顔をして俯いたままだった。が、そのうちに気を取り直した一人が、顔を背けたままで呟くように言い放った。
「分かったよ……って言うか、真相が知れたら、恥をかくのは俺達の方だからな。言いたくても言えないよ」
その男の発言を発端に、屍となっていた他の連中も徐々に正気を取り戻し、諦めの表情を浮かべるようになった。
「それにしても……半年経ったら、小田原さんは居なくなっちゃうのか。俺、割と本気だったんだけど」
そう発言したのは、智の端末のコンセントを抜いて大打撃を与えた岡部という男であった。美樹は彼の発言を聞いて、全身に鳥肌を立て、思わず身震いしていた。
「交際を申し込まれる前で、良かったな?」
「申し込まれても、丁重にお断り……あっ、僕が男だからですよ? 決して岡部さんがキモイとか、そういう訳じゃ……」
「……それ、ちっともフォローになってない。むしろ塩すり込んでるぞ」
智が目を覆いながら美樹を窘めたが、時既に遅し。目の前にはガックリと肩を落として嘆く岡部と、それを取り囲んで大爆笑する男子社員の姿があった。ともあれ、この日を境に、美樹を目当てに近付いてくる男性は激減したという。だが、社外に於いてはその限りではなく、彼もまた智とは違う意味で神経をすり減らしていたのだった。
(無償版は此処までとなります。その後の展開は本編にてお楽しみください)