「おい、知ってるか? 駅前のロータリーに屯してる、美少女達の話!」
「あぁ、噂だけはな。でも、都市伝説じゃねぇの? ありえねぇよ、そんな都合のいい話」
男達は、巷で噂になっている少女達の事を話題にし、盛り上がっていた。
見た感じまだ若く、そういった話題に敏感に反応する年頃なのだろう。この手の噂が広まるのは早い。
「でもなぁ……俺はそんな都市伝説より、リアルを尊重するね。城北高の女子バスケ部の、小さな妖精! あっちの方がいいぜ」
「あん? ……あぁ、あの子か。確かに可愛いな。でも、もう彼氏居るって話だぜ?」
「なにぃ!? どっから聞いた、そんな話! 俺は聞いてねぇぞ!」
「だって俺も、城北だもんよ」
話は益々白熱した。だが、その男達にとっては、どちらも手に入る可能性は無い高嶺の花。所詮は憧れに過ぎないのである。
「ハァ……リアルも都市伝説も、関係ねぇってか」
「だな。俺たち底辺の男は、コンビニでグラビア雑誌買って、一人満足してるのが似合いってもんさ」
「暗い! 暗すぎるぜオマエ! せめて目標だけは高く持とうぜ!」
「無駄だ無駄、高望みすれば尚更ショックはでかくなるんだぜ。でもま、男を磨いて努力するって話なら良いよな?」
「そう! そうすりゃ、夢も現実になるってもんさ!」
「そりゃー無理だと思うぜ。世の中には、分相応ってもんがあるって事を覚えた方がいいぞ、オマエは」
虚しい会話を展開させながら、二人の男は街明かりの中に消えた。しかし、男達が噂する二人の美少女──それは如何なる人物なのだろうか?
「おい、相手が乗り気かどうかぐらい、読んでやったらどうなんだ?」
「なっ、何だよ、横から口出すんじゃねぇよ!」
「ふぅん。なら、前からなら良いのか?」
「ひぃっ!」
彼は目の前の男の襟元を掴むと、グイと力いっぱいその首を吊り上げ、既に怯えている男にトドメを刺すかの如く、ギロリと睨みつけた。
「あ、う……は、放せよ。分かったよ、止めりゃいいんだろ?」
「そういう事。あと、そういう行動に出る前に、もっと女の扱い方を勉強した方がいいぜ?」
「……チッ!」
不届き者の男は舌打ちをしつつ、スゴスゴと逃げるように去って行った。その後姿を見ながら、彼は絡まれていた女の子の方に向き直った。
「ふん。おい君、大丈夫だったか?」
「あ……は、ハイ」
彼女と目が合った。正直、目の前の彼女は彼の好みだった。このまま手を取り合って歩き出したいような、そんな衝動に駆られるほどであった。
……が、ここで彼女をデートに誘ったら、いま自分が追い払った男と同じ穴の狢である。
(あーあ。せっかく好みの女の子の前で、カッコいいトコ見せたのになぁ)
惜しむ気持ちをグッと堪え、彼は爽やかに笑い、目の前の女の子に背を向けた。
「もう、あんな奴に引っ掛かるんじゃないよ? じゃ、俺はこれで……」
「……って……」
「ん?」
「待って……ください」
か細い声が、自分の背後から聞こえた。彼は『まさか』と思いつつ、振り返って女の子に尋ねた。
「俺? もしかして今、俺を呼び止めたの?」
その問いに、彼女は無言で頷き、暫し俯いたまま動かなかったが……やがてバッと顔を上げ、逆に彼に問い掛けてきた。
「教えて! どうして、お兄さんの事がこんなに気になるの!?」
「……へ!?」
な、何を言ってるんだこの子は!? 俺と君は初対面の筈だろうと、彼は暫し言葉の意味が理解できず、その場に立ち尽くした。
「えーと、何を言ってるのか、よく分からないんだけど?」
「お兄さんの事が気になってしょうがないの……お願い、教えて」
「ちょ、ちょっと!!」
「……お願い」
自分の手を掴み、潤んだ瞳で自分の目をジッと見て、女の子はとんでもない事を口走った。彼は慌ててそれを制止し、とにかく場所を変えよう、この場を早く離れようと必死になった。
「こ、ここじゃアレだ。とりあえず、君さえ良かったら場所を変えて話そうか?」
「はっ、ハイ。なら、場所は任せて貰えませんか?」
「あっ、あぁ。いいよ。何処だい?」
「来て貰えれば、わかります」
何故か顔を赤らめながら、彼女は先に立って歩き始めた。そして連れられてやって来た場所は、何とラブホテルだった。
「こっ、ここ!?」
「はい」
「い、いや……ねぇ、ここが何をする場所か、知ってるの?」
「知っているから誘ったんです。嫌ですか?」
「…………」
『せめて、もうちょっと段階を踏んでから』というモラリズムが、彼を引き止めた。が、それも束の間。彼は『モラル』の語源を持ち出して、それを自分の都合に合うよう解釈し、無理矢理に正当化させていた。要するに、誘惑に負けたのである。彼は自分の目の前にある事実を『役得』と考え、女の子の誘いに乗ったのだった。
「嫌な訳ないよ。じゃ、入ろうか」
「ハイ」
チェックインを済ませ、二人は部屋へと足を運んだ。そして少女が彼に対する好意を伝えると、彼は暫し瞑目して考えた末、お付き合い致しましょう、と返答した。その瞬間、少女はぱあっと明るい顔になり、彼に抱き付いて来た。つまり、彼女としては、単に邪魔の入らない場所で告白をしたかった、だからこの場所を選んだ。ただそれだけだったのである。
ここで彼は、漸く『本題』に入れるかな、と考えていた。些か段取りが間違っており、ドタバタした感じになっていたが、据え膳食わぬは何とやら……そう、男としての本気モードにシフトするタイミングを、今か今かと伺っていたのだ。
──しかし、彼が少女にシャワーを勧めようと口を開こうとした時、驚きの事実が明らかになった。
「え!? よ、良く聞こえなかったなぁ。もう一度言ってくれるかい?」
「だからぁ、柚子はね、まだ小学生なんだよっ!」
「う、嘘だろ!? せいぜい二~三歳年下かと思ってたのに……まさか、そんなに年下だったなんて」
「良く言われるんだぁ。でも本当だよ!!」
「……ハァ」
素性を明かして遠慮がなくなったのか、彼女は口調も態度もガラリと変わっていた。そしてその変貌ぶりを見て、思わず彼は項垂れた。この、状況に流されまくっている青年は、名を西森和哉と云った。二十歳の大学生だ。
(何だか、妙な話だとは思ったけどな。さて、どうしたもんかねぇ)
和哉は天にも昇るような快楽から、一気に奈落の底へと落とされたようなショックを受けたが、それを顔に出さないよう、必死に表情を作った。だが、内心ではかなり焦燥の色が見え隠れしていた。
「……は、早く大きくなってね」
「柚子、これ以上大きな胸、要らないもん」
「そ、そうじゃなくてね? ハァ……」
「ね! 柚子、和哉さんが好きなの!! だから、ずっと一緒にいてね!!」
柚子と名乗った少女は、その年齢不相応な体格に不満を表しながらも、無邪気にニコニコしていた。その、あまりの無邪気さに、和哉は軽い眩暈を覚えた。が、何とか自我をコントロールしつつ笑顔を作って、彼女に応えた。
「そうだね。俺も君が好きになった。よろしくな」
「うん!!」
かなり白々しい返事になってしまったが、とりあえずこの場はこうして置くのがベストだろう……和哉はそう考えた。それに、放っておけばイヤでも年は上がる。そう、年齢の問題は時間が解決してくれるのだ。が……
(しかし……この子一体、何を考えてるんだろう? ホントに、この子に恋をして良いのか? 俺は)
和哉は、ポヨポヨとダブルベッドの柔らかな感触を楽しんでいる柚子の姿をボーっと眺めながら、これからの行く先に不安を覚えた。
その時柚子は、目当ての相手を恋人にする事が出来た喜びで心満たされ、本気で喜んでいた。が、その頭の中には、彼女の年齢としては些か好ましくない台詞が展開されていた。
(これも、環たちと男を扱う練習をしてたおかげね)
自分がここまでに至った発端を思い出し、柚子は思わずニヤリと笑った。
「どうしたの? 急に笑ったりして」
「ううん、なんでもないよ。柚子、興奮してるのかなぁ?」
「普通、ここに入る時点で興奮するもんなんじゃない?」
「あ、そっかぁ。てへっ!」
「『てへっ』じゃ無いでしょ。まぁ、いいけどね……あ、これ吸っていい?」
「あ、タバコ吸うんだ? うん、大丈夫だよ」
返事を待って、和哉はタバコに火を点けた。こういう仕草の一つ一つに『オトナ』を感じる……カッコいいなぁ、等と思いながら、柚子は和哉の姿に見惚れていた。その本心に偽りは無かった。
柚子が『男と女』というものを意識したのは、環という同級生の家に遊びに行ったとき、その兄が恋人を家に連れてきて、仲睦まじくしているのを見たのが最初だった。それまでは男子という存在が嫌いで、話し掛けるのも嫌だったのだが、その時から一八〇度反対の性格に変貌したのだった。彼女は当時の事を思い出し、ニヤニヤと笑っていた。その時、彼女はまだ小学三年生だった。
***
その日、柚子は環の家に遊びに来ていた。普段であれば彼女の部屋で談笑しているところであったが、柚子が到着する前に兄が帰宅して来て、隣の部屋で勉強をするから、煩くされては困ると釘を刺されていたようだ。よって、この日はリビングに通され、テレビを見ながら過ごしていた。
「大学生だっけ?」
「うん。私より遅く起きて、ノンビリ出掛けて行くんだ。ホントに勉強してんの? って感じだよ」
苦笑いを浮かべる環に、柚子は『ふぅん?』と云った感じの表情で応えた。
この時、兄の部屋の中には客人──彼の恋人が招かれていた。環が自室から遠い場所に釘付けにされているのは、恐らくはそれが理由であろう。しかし、未だ幼い環にそんな事情が理解できる筈もなく、素直に兄の言う事に従い、大人しくしていたのだった。
「お兄ちゃんたち、いつか結婚するのかなぁ?」
「うん、あんなに仲がいいんだもん、絶対に結婚するよ」
「そうしたら、赤ちゃん生まれるよね。環もおばちゃんになっちゃうんだなぁ」
「えぇっ? 子供なのに、おばちゃんになっちゃうの?」
柚子は、まだ『年齢的な年増』と『系譜としての位置付け』の違いが分かっておらず、兄に子供が出来たら環は一気に歳を取ってしまうのかと勘違いして、真剣に心配した。
それを聞いた環は大笑いし、チラシの裏に図を書いて説明して、漸く理解を得た後、また思い出し笑いをしていた。
「そんなに笑うことないじゃない! ひどいよ環ちゃん」
「アハハハ、ゴメンゴメン。でも、あの勘違いの仕方はないわー……プッ、ククク……」
「ぶー!」
未だに笑いを堪えている環を見て、柚子は更に頬を膨らませて不機嫌面になった。と、そこへ、環の兄と彼女が顔を出した。
「お? 何やってたんだい?」
「あ、兄ちゃん。柚子ったらさぁ!」
「あー! だめぇー!」
先刻の失敗談を兄に話そうとした環を柚子が制止した。しかし、彼女の方が系譜を図解した紙を見つけ、ポッと頬を染めた。
「や、やだぁ環ちゃん、まだコレは早いよォ」
「あはは! でも、いつかこうなるんでしょ?」
「何の話?」
「ん? んーん、何でもないよ。ね、環ちゃん」
「ねー!」
頭に疑問符を浮かべながら兄は小首を傾げ、柚子はひたすら失言を隠そうと必死になっていた。だが、彼女の方には既にその失言の内容は大体見通しが付いたようで、『一つ、勉強になったね』と柚子の頭をポンと撫でて、優しく笑って見せた。
「……? まぁいいや。おい環、兄ちゃんは今夜、大学の友達と遊ぶから、晩ごはん要らないって伝えておいてくれ」
「わかったー。でも、あんまり遅くなったらお母さんが心配するからね」
「ガキじゃねぇっての! じゃ、留守番よろしくな。柚子ちゃん、またね」
「はぁい! いってらっしゃい!」
パタンとドアを閉め、兄達は出掛けて行った。環の前では最早照れは無いのか、若しくは未だ子供だからと高を括っているのか。彼は彼女の腰に手を回し、優しく抱き寄せるようにエスコートしていた。
「柚子も大きくなったら、ああいう風に男の人と仲良くなれるのかな?」
「クラスの男子で試してみたらいいじゃん、仲良くなれるかどうか」
「あいつらはやだ! 乱暴だし、意地悪するし!」
「あー……確かに、あいつらはナイわ」
環の放ったその一言に、二人は声を出して笑い合った。尤も、彼女たちの年齢に於ける男子の扱いなど、多少の差はあれど、大体こんなもので間違いないのだろうが、それにしても容赦のないコメントである。
「ところで、これから何して遊ぶ?」
「うーん、留守番頼まれちゃったから外には行けないし……そうだ、ゲームしよ! 兄ちゃんの部屋にあるから、ちょっと借りてくるよ」
「あー、待ってよー!」
考えてみたら、わざわざ二人で兄の部屋へ行く事は無かったのだが、一人にされるのが何となく嫌だったのだろう。柚子は環の後に続いて、兄の部屋へと入っていった。
「えーと、確かこのクローゼットの中に……わっ!」
不用意に開けたクローゼットの上段から、積み重ねてあったと見られる冊子類がバサバサと降って来た。恐らく、彼女に見られては都合の悪い物を慌てて隠蔽したのだろう。整理もされずに乱暴に放り込まれたそれは、扉を開けた途端にその重量を預ける手立てを失い、落下してきたのだった。
「環ちゃん、大丈夫!?」
「あっぶなー……もう、普段から片付けてないからこんな……ん?」
「どうしたの?」
落下してきたそれは、環たちが見るにはまだ早すぎる……そう、成人向け雑誌の数々だった。
「や、やだ、兄ちゃんって、こんなの見てるんだ」
「女の人の裸ばっかしだね。こんなの見て、何が面白いんだろうね?」
「わかんないけど、妹としてはちょっと見たくなかったなー。かなりショックかも」
「何で環ちゃんがショックなの?」
「あー、あのねぇ……」
環は朧げながらにではあるが、男が女の下着や裸を見て興奮するという事は知っていたようだった。が、一人っ子の柚子は、兄弟姉妹から情報が流れて来る事が無い為、そういった知識が全くと言って良いほど無いのだった。先程の『おばさん』発言が良い例である。
「とにかくぅ、男は女のこういう格好を見て喜ぶんだよ。たまに男子が女子のスカートめくって喜んでるでしょ?」
「あー、見た事ある。でも、その後すぐにボコボコにされてたから、そっちの方がかわいそうだと思っちゃった」
その回答を聞いて、こりゃダメだ……と思った環は、その雑誌の記事の、特に目立つ字句を幾つかメモし、部屋をそのままにして父の書斎に柚子を案内した。
「パパのコンピューターで、あの雑誌に何が書いてあったか、ちょっと調べてみよう」
「え? 勝手に触って、怒られないの?」
「ばれなければ大丈夫だよ。コンピューターの動かし方はクラブで習ったし、大体分かるから」
「う、うん……」
環は柚子の返事を待つか待たないかのうちにパソコンの電源スイッチを入れた。すると『ヒュウゥゥン……』という起動音と共に、OSがブートアップを始めた。
「ほら、動いたよ! 確か、ここのところに調べたい事を書いて、このボタンを押すんだよね」
「でっ、でもぉ、なんて書いたらいいの?」
「だから、さっきメモしてきたんだよ。環もコレの意味は分からないから、ちょうどいいよ」
習った知識を披露するのが楽しいのか、環は誇らしそうに、且つ手際よく、パソコンの操作を進めていった。その様子を、柚子は『いいのかなぁ?』という感じで、心配そうに見守っていた。すると……
「うわ……」
「す、凄い……こんなにいっぱい写真とか出てきたよ?」
キーワードから検索されたリンクを辿っていくと、それこそ山のように写真が表示された。まだまだ読めない字句が多かったが、画像のおかげでその検索結果が非常にヤバい物であるという事は理解できた。雑誌など比にならない、とんでもない画像が目の前に表示されていたのである。それを見て、検索を提案した環自身も、まずい! と直感的に思ったのだろう。
「やっぱり、見ちゃまずかったんじゃない?」
「う、うん……まさか、こんなモノが出て来るなんて思わなかったからさぁ」
「は、早く消そうよ!」
「だね!」
二人は、軽はずみにオトナの見るべき世界に足を踏み入れてしまった事を後悔していた。だが、二人の心の中に共通の悪戯心が芽生えつつあったのは、まだ互いに知る由も無い事だった。そして、この日の行動が自分達の性格を大きく変えていく事になるとは、まだ彼女たちには理解出来よう筈も無かった。しかし、事の重大さを分かっていない幼い女子二人が過ちを犯すには、充分すぎるほどの切っ掛けとなるのだった。
その晩、帰宅した兄は部屋の惨状を見て驚愕し、事の次第を環に問い質した。が、ゲーム機を借りようとしたら、上から本が降ってきてビックリしたと、逆に憤慨されてしまった。そして更にその翌日、柚子は環の兄が父に怒られていたと云う話を聞いた。兄は必死に『俺は知らないよ!』と弁明したそうだが、『お前以外に誰が見るんだ!』と否定され、哀れ、彼は恥ずかしすぎる濡れ衣を着せられたのだそうだ。
「やっぱり、ああいうのは、見ちゃいけないものなんだね」
「でも、どうしてばれたんだろう?」
「さぁ?」
それは言うまでもなく、父が閲覧履歴を調べた結果露見したのであるが、履歴の削除など、環がまだ知る訳は無かった。しかし、あの日の行動は、確実に柚子たちを変え、そして後に、周りにも影響を及ぼすのだった。
***
あの日から二年が経過し、五年生になった柚子は、第二次性徴の訪れに悩んでいた。普通ならば緩やかに現われる筈の身体の変化が、彼女に於いては急激に現れ、信じられないスピードで発育していたのだった。周囲の同級生の中にも胸の発育などが見られる子は居たのだが、彼女はまさに特別であった。
「あー、環! ブラし始めたんだー!」
「へへ! 私も柚子ほどじゃ無いけど、結構膨らんできたからねー!」
「やだ! もう……目立ちすぎるから、あんまり好きじゃ無いんだよ、この胸」
柚子には一歩及ばないものの、やはり五年生としては順調な発育を見せる環が、自らの胸を他の同級生たちに自慢していた。が、話の引き合いに出された柚子は、浮かない顔を見せ、出来るだけ身体を晒さないようにコソコソと着替えていた。
「ぶー! 贅沢だよ柚子っち! アタシなんか、まだこんなペタンコなんだよー!」
「り、りーやん、見せなくていいから」
成長が乏しい事をひがみ、柚子に文句を言う少女──理恵。彼女はまだ胸を見せる事に恥じらいを感じないのか、下着もつけずに堂々と未発育の胸板を晒していた。
「柚子っちー、早く着替えないと、遅れちゃうよ!」
「……!! いけない!!」
気がつけば、周囲の皆は全員着替えを完了しており、自分だけが下着姿のままだった。理恵の喚起でそれに気付き、柚子は慌てて着替えを進めた。が、その時……
「キャ!! た、環!?」
環が柚子の胸を、いきなり背後から鷲掴みにしていた。柚子は無防備な状態であった為、驚いて顔を真っ赤に染め、小さく悲鳴を上げてしまった。しかし、そんな彼女に構う事なく、環はマイペースで話を進めていった。
「柚子ぅ、せっかく胸大きいんだし、顔だってこんなに可愛いんだからさぁ、勿体無いよぉ!!」
「で、でもぉ……」
「ね、今日さ、りーやんと一葉も誘って、前に考えた『アレ』、やってみない?」
「えぇっ!? あ、アレを!?」
環の言う『アレ』とは、環が携帯電話のWebを閲覧しながら知った、異性とのデートの事であった。が、いきなり大人を相手にするのは流石にまずいと思ったのだろう。だからまずは女子に興味のありそうな男子を誘って、真似事だけでもやってみよう、という話が持ち上がっていたのである。
「大丈夫だよ、四人がかりだし……メールで呼び出せば、すぐに来るよ」
「う、うん……」
「決まりだね!! じゃ、今日の放課後、駅の南口のロータリーで待ち合わせ! 男はホラ、この二人だから」
「誰なの?」
「隣の学校の上級生だよ。塾の奴に聞いて、素性調べたんだ」
それは、とても小学生のものとは思えない行動であった。だが、興味を持ち始めたら年齢など関係ない。今はそういう時代なのだ。
「ほ、ホントに来るかなぁ?」
「来るよ、相当飢えてる感じだったもん」
「飢えてる、って……環、言い方がヤラシイよぉ」
「ヤラシイ事、しようとしてるんだもん。当たり前でしょ?」
「うん……そ、そうだね」
そしてその計画は実行に移され、女子四人、男子二人の『デート』が行われた。無論、法に触れる行為は無しが大前提。単に異性と触れ合い、談笑するだけという内容で、互いに会うのはこれっきり、という条件になっていた。
『初デート』は見事に成功した。味を占めた男子達に付き纏われそうになるというハプニングもあったが、先に相手の素性を全て調べ上げ、隙を見て相手の携帯電話からメールの履歴を削除し、更に顔写真まで撮影しておくという環の徹底した防衛策により、その危険は回避できた。
「……ね、わかった? 柚子。大きな胸と可愛い顔は、男にモテるんだよ」
「そ、そんなもんかなぁ? この胸、目立っちゃうし、あんまり好きじゃなかったんだけど」
『デート』の終了後、柚子たちは、そんな会話をしながら帰途に就いていた。自信が持てず、引っ込み思案な柚子を、環が牽引しているという感じである。
「クス……ねぇ柚子、もっともっと試してみたいと思わない?」
「えっ!? ……な、何を!?」
「今ので分かったでしょ? 私達、結構イケてるんだよ。つまりぃ……男を誘惑して、色々出来ちゃうぞってコ・ト!」
「そうそう! お金持ってそうなオトナを相手にして通用すれば、お小遣いだって思いのまま!」
「そ、それは……で、でも、好みの男の人を選べる立場なんじゃないかなって事は、何となく分かったよ」
「そういう事。私たち、黙ってても男の方から寄って来るんだよ。それを選んで、飽きたら捨てる……サイコーじゃない?」
「……!!」
柚子は今まで、そんな事は考えもしなかった。しかし、たった今、男達を手玉に取った事実は自信として彼女の気持ちを後押しし、結果としてその性格を歪める事になるのだった。実際、柚子がその容姿を武器にして男を弄ぶようになるまでに、三ヶ月も掛からなかったのだから。
***
「今日も行く?」
「もちろん!」
彼女たちが、初めて男子を手玉に取った日から、半年が経った。柚子は既に、『男を釣る』遊びに夢中になっていた。
あれから『デート』の内容も色々とアップグレードされており、ターゲットも同年代の男子から大人の男性へとシフトし、サービス料まで取るようになっていた。
……が、そこに感情は無い。男を振り向かせて、優越感に浸る……ただそれだけ。どんなにエスカレートしても、絶対に『性的接触』には及ばない。いや、させてあげないのだ。柚子にとって、男は自分が優越感に浸るだけの『道具』に過ぎず、気が向いた時に適当に漁り、飽きたら捨てる……それだけであった。恋愛対象として見るなど、夢にも思っていなかったのだ。
「一葉もいこうよ」
「んー……私、パス」
「何よ、付き合い悪いなー」
理恵が面白く無さそうな顔をして、露骨に仲間を非難した。だが、非難された少女──一葉は、逆に柚子たちに意見をしていた。
「……ねぇ、やっぱ良くないんじゃない?」
「何が?」
「男の人に声を掛けさせて、誘って、騙して……よくないよ、こういうの」
「騙しちゃいないでしょ? 声を掛けてくる、男の方がマヌケなのよ」
「でも……」
一葉は自分の意見を主張し、柚子たちの間違いを指摘した。嘗ての柚子ならば、彼女に同意を示したであろう。だが、今の彼女は環の側に付いて、そのスタンスから二人のやり取りを静観していた。
「ふぅーん……まぁ、来たくないってのを無理に誘う事は無いよ。ねぇ、一葉? やりたくないんでしょ?」
「環たちも、やめた方がいいよ」
「……それは私達の勝手だから、指図される言われは無いよ。みんな、行こう」
「あ……」
リーダー格となった環が冷たい声色で言い放ち、事を収めた。まだ何か言いたげだった一葉の手が、虚空を泳いだ。
「一葉……もう、誘っても来ないよね」
「そう思う。前からそんな感じしてたし……環、何やってるの?」
理恵と柚子が一葉の事を話している間、環は何やら携帯電話を操作していた。
「ん? 何でもないよ。ただ、あの子ってば私に指図したから、ちょっとオシオキしてあげるの」
「……? ちょ、環、それって!?」
「そ。飢えた男達に、あの子をプレゼントしてあげるのよ」
「……!!」
それは、SNSの『裏アカ』専用コミュニティであった。そこに、一葉の顔写真と、住所などを含む詳細なプロフィールが掲載されようとしていた。無論、それらしい煽り文句も添えて……である。
「環……」
「なぁに?」
「……ううん、なんでもない」
凍るように冷たい視線……彼女の目には、一片の感情も篭ってはいなかった。この子には逆らっちゃいけない……その認識だけが、柚子と理恵の心に深く刻み込まれた。そして一葉はそれ以降、暫く学校に来なかった。担任が何度も呼びに行って、やっと学校に来たとき、彼女は以前の明るさを失い、すっかり沈んだ雰囲気になっていた。
一葉は、不登校になっていた理由を誰にも話そうとはしなかった。だが、柚子には分かっていた……いや、環たちにだって分かっていた筈だ。彼女はあの後、男達の餌食になったんだという事を。その時のショックで深く傷ついて、学校に来られなくなったのだという事を……
(一葉、あんたバカだよ。普通に断れば良かったのに……あの文句は要らなかったんだよ)
男達の餌食となった友達を非情に見捨てて、柚子はその屍を踏み越えるように歩み進めた。その性格は更に大きく、確実に歪みつつあった。そして、そうした行いを続けながら時が過ぎ、柚子たちは六年生となっていた。
「今日も行くー?」
「んー……そうだね、行こっか」
この『遊び』にも、もうすっかり慣れてしまった。『入れ食い』という言葉がピッタリ当てはまるほどにまでなっており、柚子たちが街に繰り出すだけで男達が声を掛けてくるようになった。だが、相変わらず、男を弄んでは捨てる……これの繰り返しだった。しかし柚子は……どうしたのだろう、何か気が乗らないでいた。
「……どうしたの? 元気なさげじゃない?」
「なんでもないよー、考え事してただけー」
慣れ過ぎてしまったのか、それとも飽きてきたのか。この、気乗りせずに空を掻くような虚しさの正体が何なのか、柚子本人にも分からなかったのだ。と、そんな彼女の視線が、教室の窓の外の、ある一点で止まった。
(あ、またあのお兄さんだ。いつも、あのアパートから、決まった時間に出掛けて行く……)
最近、柚子は気付いていた。いつも決まってこの時間に出掛けていく男性の姿を、いつの間にか目で追っている自分に。
小学生が帰り支度を終えて学校を出る頃に見掛けるという事は、普通のサラリーマンでは無いだろう。何をしに出掛けて行くんだろう、何処に行くんだろう……なんて名前の人なんだろう……考え出すと、キリがなかった。
(……って、どうして柚子、あの人をいつも目で追っかけちゃうのかな?)
丁度、柚子たちの教室の近くにアパートの入り口があるので、顔までしっかり見えた。背が高くてキリッとした顔立ちで、ハッキリ言って、見た目はカッコいい部類に入る。が……
(わかんないなぁ。何で、あんなに気になるんだろう……どうして、あの人の事を知りたいと思うんだろう?)
「柚子っちー、どうしたの? 行こうよ」
「うん……」
「おーい、柚子っちー……あーあ、マジで上の空だよ」
「……なんでもないってば」
すっかり心ここに在らずな柚子を、理恵が構っていた。が、彼女はボーっとして窓の外に目線を向けたまま、生返事をするだけで、返事をした事すら覚えていないといった感じであった。
(ダメだ、気になって仕方ない……って、何で柚子があの人の事を気にしなきゃいけないのよ!!)
柚子は心の中で、その男性の事を知りたがっている自分自身を叱咤した。いや、常に自分の方が上位に居なくてはならないというプライドが、その想いを否定しようとしていたのかも知れない。
「……行こう! 今日も派手にやろうよ!」
「う、うん……どうしたの? 今日の柚子っち、おかしいよ?」
「そんな事ない! 柚子はいつも通り!」
「なら、良いんだけど……」
そう、気のせいだ……柚子はそう思い直し、理恵の手を引いて環の席へと向かった。まるで、あの青年の姿を、頭から振り払おうとしているように。
「柚子っち、やっぱおかしくない? さっきから落ち込んだり、ヤル気マンマンになったり」
「き・の・せ・い!!」
「……う、うん」
急に元気になった柚子を見て、理恵は戸惑いを隠せずにいた。
***
……フゥー……
和哉は煙草の煙を吐きながら、シゲシゲと柚子の姿を眺めていた。どう見ても高校生ぐらいにしか見えない……だが、中身はてんで子供だし、良く見れば顔は幼いと来ている。
「……? 何? 柚子、そんなに可愛い?」
「あぁ。しかし、信じ難いな。その豊かな胸といい、落ち着き払った態度といい……とても小学生には見えない」
「柚子、この胸あんまり好きじゃない。重いし、やたら目立つしで。友達は、コレが武器になるって言うんだけど」
「ふぅん、そうなんだ」
コンプレックスって、意外なトコにあるもんなんだねぇ……和哉はそんな事を考えながら、最後の一服を紫煙に変えて、火種を灰皿で揉み消していた。
「なぁ、初めての恋人が俺で、ホントに良かったのか? 同級生とかに結構モテるんじゃないの?」
「和哉さんじゃなきゃ嫌だったの! ずっとずっと気になってた人に助けられるなんて、こんな偶然ないんだから」
「あのさ、さっきから気になってたんだけどさぁ。俺ら、どこかで会ってたっけ?」
彼が、どうにも違和感を覚える……と思っていた点の一つが、何故か柚子が自分の事を以前から知っていたような物言いをする事だった。彼女とは、さっき初めて出会ったばかりだというのに……だ。
「和哉さんが出掛けるところ、いつも教室から見てたもん」
「あー、それで俺の事を知ってたのね。だからか」
「え?」
和哉の切り返しを受けて、柚子は思わず頭に疑問符を浮かべた。はて、何か気になるような事、言ったっけ……? と。
「じゃなきゃ、会った直後に『どうして、お兄さんがこんなに気になるの!?』なんて質問、出ないでしょ?」
あぁ、そういえば、そんなこと言ってたっけ……と、柚子は今更のように納得していた。それだけ彼女は、和哉を強く意識していたのだ。そして、その回答を受けた柚子は、偽らぬ本音を和哉にぶつけていた。
「ホントにそうだったんだもん。でも、和哉さんが好きだって気付いたのは、ここで抱き合ってからだよ」
「後から気付くような事かぁ?」
「ホントに分からなかったんだもん! でも、初めての彼氏はこの人じゃなきゃ嫌だって、そう感じたんだもん」
(それはそれは……しかし、会話もロクにしてない男に、そこまで惚れ込むもんかねぇ?)
柚子が嘘を言っているようには見えなかったが、にわかに信じ難い部分もあった。
自分だったら、例えずっと眺めていて、惚れるぐらい可愛い子でも、付き合うとなれば一定の時間を置いてからにするだろう。だが、彼女はそれをせず、いきなり好きだと言い切った。和哉は、その辺に疑念を持ちながら、彼女の次の台詞を待った。
「でもぉ……好きなんだ、って分かった時、胸のモヤモヤが一気に取れたよ。この気持ちの正体が分かんなくて、ずーっと悩んでたんだよ。そしたら、街で知らない男の人に声を掛けられて、困ってて……」
「……それを助けたのが、偶然にも俺だったってワケね?」
「そう! だから、コレはもう運命なんだよ!!」
成る程、そういう事か……と、和哉はこの点については納得した。彼女はまだ考えるより先に行動してしまう年齢なのだ。幼いのだ。だからこの結果も、怖がらずに受け容れられるのだな、と。しかし、疑問はもう一つあった。
(この子、何故こんなに落ち着いてるんだ? 異性との接触が初めてにしちゃあ、冷静過ぎる)
彼女はさっき、異性に告白したり、身体を預けたりしたのは初めてだと自称した。だが、それにしては男の扱いに慣れ過ぎていた。余裕があり過ぎるのだ。
「……また胸のトコ見てるー」
「ん? あぁゴメン。君自身がどう思おうと、俺はこの胸が好きなんだ」
「胸だけ?」
「ん。今のところは見た目に惚れただけ、ってのが正直なトコだからさ。中身はこれから見せてくれるんでしょ?」
予想外の鋭い切り返しに一瞬驚いた和哉であったが、誤魔化さず、その問い掛けに正直な本音を述べていた。疑問はまだ晴れないままであったが、今はそれ以上突っ込んで聞ける雰囲気ではなかったからである。
「うん、いっぱいデートしたい。あ、でもぉ……友達には、カレシできた! ってのは黙ってたいなぁ」
「ふーん……まぁ、学校とかで噂が広まっちゃ、やりにくいだろうしねぇ。じゃあコッソリと、いっぱい会おうか」
「うん!!」
屈託の無い笑顔で応える柚子に、和哉は無理矢理に納得させられていた。色々と謎の多い少女ではあるが、今のところ年齢差以外に不満は無い。ならば、今ある現状を素直に受け止めて、状況を楽しんでしまおう……彼はそう思い込んでいた。
***
柚子と出会ってから二ヶ月あまりが経過して、八月となっていた。その日、和哉は突き刺すような日差しの中、バイト先に向かうため、駅前を歩いていた。
「……ん? 柚子じゃないか」
友達と出掛ける所なのだろうか、数人の女の子と一緒にロータリー付近のベンチで話し込んでいる柚子を見付け、和哉は声を掛けるかどうか迷った。が、友達と一緒にいる所に声を掛けられたら体裁が悪いだろう……という結論に達し、声を掛けずに通過する事にした。
しかし、遠目に彼女たちの姿を目で追っていると、何やら彼女たちに若い男が話し掛けているではないか。
「またナンパか? いや、単独で集団相手にナンパを仕掛けるバカは居ないだろう。増して、相手は小学生なんだし」
自分が彼女と初めて出会った時の事を棚に上げ、道でも聞かれているのだろう……と、和哉はその状況をスルーして先を急ごうとした。
だが彼は、どうにも見逃せない状況を目の当たりにする事となった。柚子たちはその男を含んだ五人で歩き出し、裏通りへと消えて行ったのだ。
「道案内にしては親切すぎる。何かあるな?」
第六感とでも言おうか。何やら良からぬ予感がしてきた和哉は、コッソリと彼女達の後をつけた。すると、その集団は何と、ラブホテルの中へと姿を消してしまったのだった。
「ははぁん、そうか……柚子はあの集団とつるんで、逆ナンをやってるんだ」
成る程、それならあの冷静さも合点がいくなと、和哉はあの時抱いた疑問に対する回答を思わぬ形で得る事になった。だが、納得できる状況では無い。何しろ、自分の彼女が見知らぬ男とラブホテルの中に消えたのだ。その本心はどうあれ、明らかに浮気行為である。
しかし、柚子に性的経験が無い事は確かだった。それは彼女の言動からも見て取れた。と云うより、それを見抜けない和哉では無い。つまり柚子は、自分と知り合ってからこの遊びを始めたか、或いは、遊んでも本番にまでは至っていないか。この二通りの答えにしか行き着かないのだ。
(今度、確かめてみないといけないだろうな)
気の進まない行為であったが、無視できる状況でもない。和哉は、次のデートの際に事の真偽を問い質す覚悟を決め、踵を返して職場へと向かった。
***
「柚子。この間、駅で一緒に居たの、友達?」
数日後、デートの折に、あの日の行動の真偽を問い質す為、和哉は柚子に質問をした。彼女は一瞬意外そうな表情を見せたが、すぐに元の笑顔に戻って返答してきた。
「え? ……うん、クラスの子だよ。見てた?」
「ああ、バイトに行くとき偶然な。じゃ、あの男の人は誰?」
「……!!」
今度は明らかに焦燥の色が見えた。和哉の指摘が、あまりにピンポイントだったからだ。
「み、道を聞かれただけだよ……で、説明だけじゃ分からないって言うから、案内してあげたんだよ」
柚子は慌てて、その場凌ぎの言い訳で誤魔化しを始めた。
「ふぅん、そうだったのか」
「な、何? ヤキモチ?」
「あぁ、柚子は可愛いからなぁ」
ヘタな言い訳を……と思った和哉であったが、その場は見なかった事にすると決めた。浮気や不倫を寛容できる度量の大きさを持ってこそ、オトナってものだろう。納得はいかないけど……と。
柚子と和哉が複雑な恋愛模様を展開し始めていたその頃、隣の街でも、別の恋模様が展開されていた。そのカップルは現在、とある市民体育館でバスケットボールの試合に興じていた。
「ヤバイ、またアイツだ!!」
「あの9番を止め……ダメだ、遅い!!」
相手チームのディフェンス陣が守備を固めた。が、彼女の素早い動きに翻弄され、配置が間に合わなかった。
(クス……バスケは身体が大きければ有利って思ってるなら、それが間違いだって事を教えてあげるよ!!)
彼女──背番号9を付けた控えのスモールフォワード・佐々木玲は、その小柄な体躯を逆に生かして、守備の間を縫うように敵陣へと突っ込んでいった。そして前衛に構える選手にパスを送ろうと声を掛けた。
「先輩!!」
「OK! ナイス玲……あ!」
今の声掛けで、パスを送ろうとした選手はマークを固められ、動きが取れなくなってしまった。しかし、玲は慌てるどころか、逆にニヤリと笑みを零しながら、シュート体制に入った。前衛の選手に注意を引き付ける為の作戦だったのだ。
「え!? その位置から狙おうっていうの!?」
「無茶よ、入りっこない!!」
「クスッ……無茶じゃないんだなぁ。悪いけど、私……」
瞬間的にフリーとなった玲の放ったシュートは見事な放物線を描いてゴールへと向かい、相手チームを驚嘆の渦に叩き込んでいた。
「……スリーポイント、得意なの」
「……!! 嘘でしょ!?」
シュートは見事ゴールに突き刺さり、更に点差が開いた。その様子を客席から見て、勝利を確信した彼は、これまたニヤリと笑って、思わず大声で叫びながら、派手にガッツポーズを決めていた。
「よっしゃあ! いいぞ玲ぁ!!」
……が、次の瞬間。彼には周囲からの非難の視線が集中していた。しかし、然もありなん。女子のリーグ戦が行われている会場であったため、客席も女子だらけであり、ただでさえ居心地のよろしくない状況だったのだ。そんな中で男子である彼が奇声を上げたりしたら、悪目立ちして当然である。
(今のは拙かったか……まぁいい、残り一分で十五点差はひっくり返らないだろ。潮時だ、撤収撤収っと)
と、コッソリ会場を後にする彼の名は、久保智昌。先程から好プレーを展開している彼女、玲の恋人である。
(試合が終わっちゃうと、一気に通路が混むからな。今のうちにアレを準備して、出口に行っていよう)
そう考えた智昌は、競技場を抜け出し、エントランスホールまで移動した。彼の手には、携帯用の保冷バッグが握られている。無論、試合で汗を流した玲の為に用意したものであった。最後まで試合を見届けられないのは心残りだが、あの状況では仕方がない。彼は予てより申し合わせてあった、エントランス脇の掲示板前で立ち止まり、彼女を待っていた。
「智昌ー!」
その声のする方へ目線を向けると、ジャージに着替えた玲が、嬉しそうに手を振っていた。そんな彼女を見て、智昌の表情も自然とほころんでいた。
「おつかれー! はい、冷たいオレンジジュース、買っといたよ」
「ありがと! ……ん──! 試合のあとのオレンジジュースって最高!!」
美味しそうに喉を鳴らしながら夢中でオレンジジュースを飲む玲の横顔を見て、智昌はますます顔を綻ばせた。
「なぁに?」
「ん? 何でもないよ、フツーに見惚れてただけ」
彼らは高校一年生の夏から交際を始めたので、かれこれ一年近く付き合っている事になる。だが、二人とも未だに付き合い始めて間もない頃のときめきを忘れてはいなかった。特に智昌の方がその気持ちが強いようで、今でも玲の顔を見られるだけで満足! という具合であった。
それもその筈、彼が玲に一方的に惚れて、必死に後を追いかけて、口説いて……その結果、やっと恋人の座を掴み取ったのだから。
「あ、あんまりジロジロ見ないで……照れちゃう」
「そいつぁ無理だ」
「……バカ」
照れて俯く玲もまた可愛い……と、バカップルまっしぐらに見える彼らであったが、実は智昌が玲に一目惚れしてから交際が始まるまでには、結構な時間が掛かっていたのだ。最初はその姿が印象に残っただけだったのだが、彼女の事を調べて、追い掛けているうちにその中身にも惚れ込み、何としても近付きたい! という決心を固め、告白に至ったのである。
それはまだ、彼らが高校に入学して間もない頃。一年前の四月の事であった。
***
「ふぅ。各自モチーフを自由に捜して一枚スケッチを提出しろ、かぁ。風景・人物問わずと言っても、校内じゃ対象も限られて来るしな。さて、何を描こうかなぁ?」
智昌は、美術部の先輩から出された課題のモチーフ探しで悩んでいた。
「ジャンルは問わないと言ったって……ま、描きたいのは人物画なんだけど、入学したばかりで親しい友達もまだ居ないしな。さて、どうしたものかなぁ」
彼はウロウロと、当てもなく放課後の校内をうろついていた。しかし、闇雲に歩き回ったところで、モチーフになぞ出会える訳がない。が、テーマが無い以上、考えるよりも周りを見回した方が、まだ効率が良いと考えたのだろう。そうこうしているうちに、彼は体育館の傍まで来ていた。
「体育館かぁ。練習に励むスポーツマン……悪くは無いけど、いきなりモデルを頼めるほど、暇じゃ無いだろうしなぁ」
と、その時。バスケットコートの一面でダッシュの練習をしていた一人の女子が、智昌の目に入った。
「バスケ部……にしては、ヤケに小柄だな。ジャージの色からすると、俺と同じ一年生か?」
と、その女子がフィッと顔を上げ、額から汗が舞い……彼女の周りでキラキラと輝いて見えた。その様は、整った顔立ちと相まってとても幻想的な雰囲気を作り上げ、思わず魅入ってしまうほど美しかった。
「……!! お、俺……み、見惚れてた!? 今!!」
ハッと気が付くと、彼はその女子だけをジッと凝視していた。周りの景色など、まるで目に入っていなかった。それ程に魅入っていたのだ。しかし、見ているうちに彼女は次の部員と交代する為、コートの奥へと引っ込んでしまった。智昌は暫し、その姿を名残惜しそうに眺めていた。が、そこに通り掛かった、バスケ部員と思しきジャージ姿の女子に声を掛けられてしまった。
「ねぇ君、何してるの? あ、ひょっとして入部希望? 男子部はあっちだよ?」
「あ!! い、イエ、ち、違うんです! たまたま、通りかかっただけで……し、失礼します!!」
智昌はまるで逃げるように、慌ててその場を立ち去った。しかし、モチーフは見付けたようである。
(さっきの子、同じ一年だったよな。うん、あの子に決めた! 可愛かったし……どのクラスか調べなきゃ!)
……何やらモチーフとは関係ない感情も混じっていたが、とにかく彼は、さっき見た彼女を追いかける事にしたのだった。
***
翌日の昼休み、智昌は隣の教室を覗いてみた。すると……
(居た! 彼女だ!!)
お目当ての彼女は確かにそこに居た。しかし、彼は彼女の名前を知らない。名前を呼べなければ、呼び出す事も出来ない。さて、どうするか──と思案していた処、彼はこのクラスに同じ美術部の部員が居る事を思い出した。そうなれば話は早い。
「佐野! おーい、佐野!」
「え? あぁ、久保君じゃない。なぁに?」
その呼び声に、幼さを残す可愛らしい顔立ちをした女子が呼応し、彼のところにやって来た。美術部員、佐野有紀である。智昌は彼女を呼び寄せると、小声で囁くように問い質した。
「なぁ佐野、あ、あの……ロングヘアの、背の小さい子! あの子、何て名前なの?」
「あぁ、玲ね。佐々木玲、っていうんだけど。彼女に何か用? 呼んであげようか?」
「……! いや、な、なんでもないんだ。じ、じゃ! さんきゅ!」
アッサリと問題は解決した。が、いざ直接面と向かって話をとなると、まだ心の準備という奴が足りない感じであった為、智昌は慌てて踵を返し、有紀に礼を言って立ち去った。
「……バレバレだね」
妙にギクシャクした歩き方で去って行く智昌の後姿を見ながら、有紀はニヤリと笑みを零していた。あの焦り方を見れば、どのような用件だったかは察しが付く。いや、気付かない方がおかしいだろう。
(これはいいネタだね……おっと、早合点は事故の元。後でしっかりと確認しなくては!)
「有紀ー? 今の男子、何だったの?」
「あぁ、うん。美術部で一緒の奴だよ。ところで玲、彼氏いたっけ?」
「な、何よ? 藪から棒に。居ないけど、それが?」
「ううん、何でもないの。いや、玲に先を越されたら、アタシ焦っちゃうからねー」
とか何とか。誤魔化しながら、有紀は有効な情報を集めていった。一方、聞かれた側の玲はというと、訳がわからず頭に疑問符を浮かべていた。当然、玲としては腑に落ちないので、質問をしながら有紀に纏わり付いた。それを有紀はヒラリヒラリと躱して歩いた。二人は中学から一緒の友達だったので、この光景も彼女達にとってはお馴染みのものだった。なお、何とか玲との接点を掴む事に成功した智昌が、放課後までソワソワと落ち着かない雰囲気だった事は言うまでもない。そして放課後。智昌は美術室で、ブツブツと独り言を唱えては頭を抱え……を繰り返していた。
「『俺、君の事が気になって仕方ないんだ! どうしてだと思う?』……ただのバカだろ、それじゃ」
「……くん」
背後から有紀が近付いて智昌に声を掛けていたが、彼は気付かないようだ。
「『ちょっと、お茶でも飲みながら話さない?』……何処のナンパ師だよ」
「……ねぇ、久保君ってば」
呼び声に気付いてもらえなかった有紀は、少し声を大きくして智昌を呼んだ。だが、彼はまだ気付かなかった。
「『俺と友達になってくれ!』……やっぱ、スタンダードだけど、これかな。でも、切っ掛けが……」
面白いので、もっと見ていようかとも考えた有紀だったが、埒が明かないので、彼の耳元に口を寄せて呼んでみた。
「く・ぼ・くん!!」
「わぁっ!! ……さ、佐野……い、いたの?」
「『いたの?』じゃないよ。さっきからブツブツと、なに独り言いってたの?」
「あ、いや……その……」
無論、有紀には彼が何をやっていたかなど既に分かっていたのだが、敢えて知らぬ振りをして、呆れ顔を作って彼との会話に移った。そして彼女は、言葉を濁して逃げ腰になる智昌の退路を塞ぐが如く、魔法の呪文を唱えてみた。
「玲ちゃんの事?」
「……!! な、何で分かった!? って、あ!!」
図星を衝かれて驚いた拍子に、智昌はポロっと本音を吐露してしまった。そんな彼を見て、有紀は心の中で大笑いした。だが、この場はいかにも『推理して当てました』的な事を言っておくのが正解だろうなと判断して、それらしく会話を運んでいった。
「さっき、玲ちゃんの事、聞いてきたじゃない。で、今の呟きを聞けば、大体分かるよ」
「……ほ、他の奴にはナイショな?」
結果として自ら秘密をばらしてしまった智昌は、キョロキョロと周りを見回しながら、囁くような声で有紀に口止めをしていた。そんな彼を見て、有紀は『しめた』とばかりに心の中でタップを踏んでいた。こうなった相手は、もはやカモも同然であるからだ。
「購買のイチゴミルク、一週間分で手を打とうかな?」
「高くね?」
「イヤならいいよー? 久保君が玲ちゃんの事を気にしてるよー、って……」
「わ、わぁっ!! 分かった、分かったから!!」
手痛い出費であったが、ここで彼女を敵に回す訳にはいかない──そう考えた智昌は、渋々ながら有紀の要求を呑んだ。
「でも、意外だなぁ。久保君って、もっと大人っぽいタイプを選ぶかと思ってたのに」
「俺だって意外だったよ。でも、まだこれが恋心かどうかも分からないんだ。ただ、あの子の顔と、キラキラ光る汗が綺麗で、もう思い出しただけで胸がキューっと……」
もはや有紀に隠し立ては要らぬと腹を括った智昌は、彼女の問い掛けに対し、妄想とも言えるような台詞を吐き出していた。しかし、自分に向けられてはいないその台詞を正面から聞く羽目になった有紀は、不機嫌面を作って椅子を逆さまに向け、行儀悪く脚を開き、背もたれを抱えた格好で智昌の前に腰掛けながら、彼の疑念を解いてやった。
「あーあ。言われてみたいねぇ、そんなセリフ。立派に恋だよ、それ。ま、安心しなよ。玲ちゃん、今フリーだから」
「マジ!?」
「ただ、ウジウジしたタイプは嫌いらしいから、注意してね」
「う……俺、女子に対しては一歩引いちゃうんだよな」
有紀は早速、先程仕入れた最新情報をリークした。そして智昌はその情報を耳にして、思わず感嘆の声を上げた。が、続いて発せられる諸注意を聞いて、今度は攻め込む切り口に悩んでいた。
「久保君、モテそうなのにねー」
「案外とチキンなんだよ。自分でも分かってるんだよな……ハァ」
「まぁ、影ながら応援してるよ。イチゴミルク、忘れないでね」
「はいはい」
自信の無さそうな声を上げながら、智昌はスケッチブックを片手に出て行った。そして美術室には『私の開脚はスルーですか』と言いたげに、ぷぅっと頬を膨らませる有紀が一人残された。
***
「……?」
「どうしたの? 玲」
「んー、何だか、この間から誰かに見られてるような……気の所為かなぁ? 妙な視線を感じるんだよね」
(あはは……久保君、それじゃただの覗き魔だってば)
そう。あれから智昌は、ひたすら影から玲を見守る『だけ』の毎日を続けていた。練習中の彼女をクロッキーしたり、休み時間に教室の中を覗いたり、挙句の果てには、携帯電話のカメラで隠し撮りした写真から、彼女のポートレートを描いたりもした。そんな感じで、彼のスケッチブックは段々と彼女の姿で埋まっていった。しかし、そんな不毛な日々が、いつまでも許される筈は無かった。
「久保くーん、いつまでストーカーやってるの? 玲ちゃん、もうとっくに久保君の視線に気付いてるよ?」
「わ、分かってるんだけどさぁ。話し掛ける度胸っていうか、切っ掛けが……」
智昌は煮え切らない返事をして、更に有紀を呆れさせた。彼としては精一杯やっている、それは分かる。だが、それが結果として表れなくては、何をやっても意味が無い。いや、それどころか、今のままの状態が続けば、逆効果にもなりかねない。せめて切っ掛けだけでも作れないかと、有紀は玲と智昌の共通の話題を模索しようとした。
「久保君、何だかんだでやってる事は大胆だよねー……ふぅん、結構良く描けてるじゃない。すごーい、玲ばっかり描いてある。良くここまで描き貯めたねぇ」
「まだまださ。彼女の良さは、こんなもんじゃ無いよ」
「玲に言って、堂々と描かせて貰えば良いじゃない。その方が、もっと良い絵になるんじゃないかなぁ」
「簡単にそれが出来たら、苦労はしないよ……ハァ」
有紀の言わんとする事は、智昌にも良く分かっていた。だが自らの言い分では無いが、それが出来るのなら苦労はしない。しかし今のままでは、彼女の言う通り、ただのタチの悪いストーカーである。何とか話し掛ける切っ掛けを掴んで、堂々と正面から渡り合いたい……そう思いながらも、叶わぬままに時は流れていった。
そしてそのまま一ヶ月あまりが経過し、時は六月の中旬となっていた。智昌は今日もまた、彼女の教室を覗きこんで、その姿を捜した。が……
「あれ? 居ない?」
「……ねぇ、ちょっと」
「はぅっ!?」
背後から聞こえる声に、思わず背筋が凍りついた。毎日毎日コッソリと覗かれ、いったい何がしたいのかハッキリ聞きたいと痺れを切らした玲が、智昌の背後を取っていたのだった。
「いつもコッソリと覗いてるみたいだけど、私に何か用なの?」
「あ、イヤ、その……つまり、これは……」
「私、ウジウジした奴って嫌いなんだよね。言いたい事があるなら、ハッキリ言いなよ!」
「……!!」
智昌はもう崖っぷちだった。ここで尻込みすれば、もはや彼女との接点は無くなってしまうであろう事は彼にも理解できた。が、自分の希望をストレートに彼女に明かせば、これまた引かれてしまう事も分かっていた。どうすればいいか……葛藤の末に彼が導き出した答えは、勇気を振り絞って彼女との接点を築く事だった。
「あ、う……俺……俺は、君と……は、話がしたくて……っていうか、もっと君の事が知りたくて……」
「……はぁ!?」
「だ、だから俺は、君が可愛いと思って……で、も、もっと近付きたいと思っただけだよっ!!」
「……え? ええぇっ!? か、可愛いって……わ、私!?」
やっとの事で言葉を搾り出していた智昌だったが、勢い余って胸の内に秘めていた想いも、一緒にぶちまけてしまっていた。それを聞いた玲は、まるでぺンキを塗ったように顔を赤く染め、半歩引きながら身体をくねらせていた。が、然もありなん。無防備な状態で話を聞きに出たところに、いきなり『可愛い』などと言われてしまったのだから。
一方、思わず余計な事まで言ってしまった智昌は、もう後戻り出来ない状態になっていた。そう思うと逆に勢い付いたというか、何故か落ち着いてきて、ズンズンと玲を攻め落とすが如く流暢に言葉を紡いでいた。まさに形勢逆転、玲の方が逃げ腰になってしまっていた。
「そうだよ、君だよ……君の事だよ!!」
「ば、バカ言わないで!! わ、私……私なんか……い、いきなり言われても……困るよ! しかも、こんなトコで!」
「ハッキリ言えって言ったのはそっちじゃん。と、兎に角! 俺、君を好きになったから!」
「た、確かに、そう言ったけど……ああぁ、み、皆が見てるじゃない!!」
ここまで来たら言い切るしかないと思ったか、智昌は一気に好意の告白までしてしまっていた。その勢いに押され、玲は何も言い返せないままに、ただ赤くなってオロオロするばかりであった。このようなシチュエーションは、彼女としても初めてだったのだろう。周りの視線を気にして、まるで身を隠す場所を探しているかのようにソワソワとしていた。しかし、智昌の告白は止まらない。彼は周りの視線などには一切構わず、ひたすら玲に攻め込んでいった。
「あぅ……な、何で私なのよぉ」
「ごめん。でも俺、君を好きになったんだ……本気なんだ。だから俺、これからも君を追い続けるよ。OKの返事を貰うか、キッパリ断られるか。どちらかハッキリするまでね。じゃ、用件は言ったから」
「ああっ、ちょ、ちょっとぉ!」
玲の声が背後から追いかけて来たが、智昌は振り返る事ができなかった。彼女に背を向けた瞬間、いま自分が言った台詞の数々がドーっと頭の中に反響して、遅まきながらに恥ずかしくなっていたのである。が、今更それを取り消す事はできないし、無論、取り消すつもりもなかった。これで良かったんだ……と、彼は自分の教室に戻っていった。
そして、その場に取り残された玲の肩を背後から有紀が叩いていた。彼女は今の様子を一歩引いた位置からずっと見ており、『よくぞ言った!』と智昌を内心で褒めていたのである。
「ひゃー、堂々たる告白だったねぇ」
「ゆ、有紀ぃ……ど、どうしよう? わ、私……」
「あれ、玲って男嫌いだったっけ?」
「そういう問題じゃないってば! いきなり、何だったのよ彼!?」
玲は完全にパニックを起こしていた。それほどに今の智昌の行動はインパクトがあったのだ。
当人達以外にも、遠巻きに見ていたクラスメイトや通りすがりの者達が、何かしらのリアクションを見せていた。ある者はニヤニヤと玲の顔を覗き込んでいき、またある者はヒソヒソと彼の行動を批判したり。まさに千差万別な反応であったが、これによって、かなりの広範囲に玲と智昌の事が知れ渡ってしまう事となった。
その結果を危惧してか、あるいは単に恥ずかしいだけか。玲はオロオロと落ち着かなくなってしまった。先程までの堂々とした態度が嘘のようである。そんな玲を有紀が宥め、『アイツにはアタシからよーく言っておくから』という風に言い聞かせていた。無論、彼女は今の状況を楽しんでいるだけだったのだが……今の玲にはそこまでの深読みは出来なかった。
***
更に季節は流れ、七月。智昌は相変わらず、玲の事を追い続けていた。あれから事が進展した訳でもなく、二人の間柄はあの時と何も変わらず、玲の事を智昌が追い回し、影から見守るというスタンスである。しかし、全てが変わっていないというのは間違いで、玲が智昌の行動を知りながら何も文句を言わなくなっており、逆に智昌の姿が見えないと『あれ? 今日はどうしたんだろう』と、玲の方が気にする程になっていたのだ。告白イベントの話は数日で下火となって誰も気にしなくなっていたし、玲自身も程なく落ち着きを取り戻していたからだろうか、智昌が自分の事を見ているという事実を無意識のうちに容認するようになっていたのである。
が、それだけであった。取り立てて進展があった訳でもなく、二人が会話をする事など滅多に無かった。現に、今も智昌は、体育館の影から覗き込むようにして玲の事を見守っているだけである。無論、玲自身も承知の上ではあるが。
「く・ぼ・くん!」
「……佐野?」
「帽子ぐらい被りなよー、熱中症になっても知らないよ?」
「しょうがないだろ、この場所がベストポジションなんだよ。彼女がシュートを決める、その一瞬を捉えたいんだ」
堂々と、智昌は有紀の発言に返答した。そして、彼の構えるカメラのファインダーはずっと玲を捉えて離さなかった。今の智昌は一見すると、只の怪しい奴にしか見えないのだが、彼の狙いは玲一人だけであり、他の人物は目に入っていない感じであったし、それに何より、本人同士が承知した上での事なので、第三者に気付かれさえしなければ何も問題は無いのだ。
「ハイハイ。まぁ、無理はしないでね。ほら、飲み物と帽子、置いて行くから。私は美術室に居るからねー」
「おう。サンキュ」
「くれぐれも、他の人に見付からないようにねー」
「あぁ」
ほぼ無意識に返答していた智昌だったが、炎天下に一時間以上も張り込んでいた所為か、いつの間にか汗だくになっている事に初めて気がついた。有紀の小言では無いが、熱中症になってはいけないと思い、帽子を被り、差し入れのスポーツドリンクに手を伸ばそうとしたその時。スラリと伸びた可愛らしい脚が彼の視界に入った。
「アンタも、よく頑張るねー」
タオルで汗を拭きながら、玲が自分の隣に腰を下ろしていた。コートの中ではまだ走り回っている部員も居るので、休憩という訳ではなさそうだ。コッソリ抜け出してきたのだろう。
「言っただろ? 俺は君を追い続ける、って」
「私が振り向くかどうかも、わからないのに?」
薄く笑みを浮かべながら、智昌は自分の諦めの悪さをアピールした。そんな彼に微笑み返しながら、玲はわざと意地悪な返答をしていた。彼を試すという訳では無いが、もしここで突き放すような態度を取ったらどういうリアクションをするか、興味があったのだ。が、智昌の答えは実に堂々としたものだった。
「俺は自分から諦めたりはしない。つまり、君から『ノー』の返事を聞くまでは、ずっと追い続けるって事さ」
「……!!」
その答えを聞いて、玲は困ってしまった。安易な考えで智昌にカマを掛けたものの、その答えが実に堂々としたものだったので、どう答えて良いか分からなくなってしまったのだ。
返答に困った玲は、言葉で応える代わりに智昌のスポーツドリンクをヒョイと取り上げ、一口飲んでまた彼に返した。
「ご馳走様。美味しかったけど、私はオレンジジュースの方が好きだな」
「用意しといたら、飲んでくれるの?」
「さあね! じゃ、練習に戻るから。その位置だと、コートから見えちゃうよ。もう少し隠れた方がいいよ」
そう言い残して、玲は体育館に消えた。そのリアクションに、智昌は謎解きを出されたような気分になっていた。少なくとも嫌われては居ないようではあるが、あまりにも答えが抽象的過ぎて、理解不能になってしまったのだ。が、収穫はあった。玲の好みがオレンジジュースであるという事実は、今の彼にとってはこの上なく有益な情報だった。
……そして余談だが、玲が口を付けたスポーツドリンクをドキドキしながら飲んだというのは、彼だけの秘密である。
***
また更に時は流れて、既に夏休みとなっていた。が、智昌の方が決定打となる行動に出られないでいた為、未だに進展は無いままであった。また、玲の方も練習中に目が合っても何のリアクションも見せず、結局あの時に体育館の脇で会話したのが最後となっていた。智昌は練習後に体育館の外で所謂『出待ち』をした事もあったが、他の部員達の手前から玲も応えられず、対話する機会を得られぬまま時が過ぎていたのだ。
こうして、彼女の練習が終わるのを待って、声を掛けて──無視される事、既に十数回。今日こそはと、意気込みに燃える智昌の姿が体育館の出入り口にあった。が、バスケ部員達の中に、玲の姿が無かった。
(あれ? どうしたんだろう?)
心配になった智昌は、開いたままになっていた体育館の入り口から、そっと中を覗いてみた。するとそこには、一人で戸締りをしている玲の姿があった。
「そうか、当番だったんだな」
「……!! 何よ、ビックリするじゃない」
ビクッと身を竦めた玲が、智昌の方に振り向いた。急に声を掛けたため、驚いてしまったようだ。
「ゴメン、脅かすつもりは……っていうか、何やってんの?」
「な、何でも無いよ! ……ンッ! お、重い……!」
「もしかして、窓の鍵に手が届かないの?」
「……!! そうよ、悪い?」
体育館の上窓は些か高い位置に設置されている為、玲の背丈では鍵に手が届かないので、彼女は跳び箱の最上段を踏み台にしていた。が、その重さが障害となっていたようだ。そんな玲の姿を見た智昌は、無意識のうちに行動に出ていた。
「手伝うよ」
「べ、別に……構わないでいいよ」
「いいから。手分けした方が、早く終わるでしょ?」
「……お節介」
玲は口を尖らせて、拗ねるような表情になった。だが、彼女もそれ以上の否定はせず、上窓の施錠は智昌に任せ、自分は下窓と非常口の施錠に回っていた。
「終わったね」
「……あ、ありがと。助かったよ」
照明を落とし、出入り口を施錠しながら、玲は智昌に礼を言っていた。
「じゃ、私は鍵を返しに行くから。先に帰って」
そう言って玲は体育教官室に向かったが、そのまま帰ってしまう智昌では無い。彼は校門の前で立ち止まり、玲が出てくるのを待っていた。
「お疲れ」
「呆れた人だね、先に帰ってって言ったのに」
「君と話せる機会を、ずっと待ってたんだ。オレンジジュースでもどう? 冷えてるよ」
「あんたバカ?」
わざわざ自分を待って、おまけにジュースまで用意してくれていた智昌に、玲は呆れ顔を向けた。が、彼はニッコリと微笑んだまま、彼女にジュースを手渡した。
「何とでも言え。ほら」
「……ありがと」
あまりにも清々しい態度で接してくる智昌に、玲はいたく感心した。冷たくあしらっても、無視し続けても、決して諦める事無く、ずっと自分を見詰めてくれていた彼。この人はそんなに私を好きなのか……そう感じ始めていたのだった。
「ふぅ。美味しかった、ご馳走様。ところで……」
「……な、何?」
さっきまで堂々としていた智昌が急にソワソワとし始め、何か言いたそうなのだが言い出せないような感じになっていた。怪訝に思った玲は、逆に彼に問い質すように語り掛けた。
「私に何か、話があるんじゃなかったの?」
「あ、いや、たいした事じゃないんだ……た、ただ、その……い、一緒に帰らないか? って」
どうやら智昌は本番に弱いタイプらしく、いざ二人きりになってみると緊張してしまい、ギクシャクしてしまっていたのだ。体育館で二人きりになった時も実は緊張していたのだが、すぐに施錠に取り掛かったので、ばれずに済んでいた。が、玲が鍵を返しに行った後で、その後どう切り出して良いか分からなくなり、話の切っ掛け作りの為にオレンジジュースを購入して待っていたのだった。つまり、彼が冷静を装えたのはジュースを渡す所までで、そこから先は台本が無かった為、しどろもどろになってしまった、と。こういう訳である。あの時廊下で告白に至ったのは、彼にとってはまさに奇跡の所業であったのだ。
「ふぅん? もしかして、その為に待ってたとか?」
「わ、悪いか?」
「別に、そうは言ってないし。一緒に帰りたければ、勝手に付いて来ればいいでしょ。私、もう行くからね」
「あ……」
先程とは打って変わって、煮え切らない態度になってしまった智昌に苛立ちを覚えたのか、それともわざと突き放す態度を取ったのか。玲はプイと彼に背を向け、歩き始めた。が、彼はその場に立ち尽くしているではないか。
「……つ、付いて来ないの?」
「い、いや! ……か、帰ろうか、うん」
「何よ、その弱々しい返事は! 私の……かっ、彼氏になるつもりなら! もっとシャキッとしてよね!」
玲は頬を紅潮させながら、照れ臭そうに言い放った。口調は些か厳しかったが、その内容は智昌にとってはこの上なく嬉しいものであった。まさかの返答に驚いた彼は、一瞬何が起こったのか分からないというような表情を浮かべた後、自分の認識が正しいかどうかを確かめるかのように、彼女に問い質していた。
「……!! そ、それじゃあ、オッケーって事!?」
「あんだけ熱心に追っかけられたら、こっちだって気になるよ。それに君、芯は強そうだし……い、いいかも、って」
「……!!」
「ホラ! 何やってんのよ、帰らないなら置いていくよ?」
「わ、ま、待って!!」
再び背を向けてスタスタと歩き出してしまった玲を慌てて追いかけながら、その背中に向かって、智昌は再度問い質した。
「佐々木さん! お、俺っ、彼氏になっていいの!?」
「さっき言いました! 二回は言わないからね! ……それと、苗字呼び禁止。アキラでいい」
「……ぃやったあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ちょ、声が大きいよ!! 恥ずかしいじゃない!!」
「これが、はしゃがずにいられるかよ!!」
「……バカ」
智昌にとって、まさに念願が叶った瞬間であった。その一方で、玲も初めて出来た『彼氏』という存在に戸惑いながら、照れ臭そうに彼の手を握り、真っ赤になった顔を見られないように俯いて歩いていた。
***
「あァ……美味しかったー!」
「本当に好きなんだなぁ、オレンジジュース」
ジュースを飲み干す玲の姿を見ながら、智昌は彼女と初めて出会った時から交際に至るまでのプロセスを思い出していた。あれから一年にもなるんだなぁと思うと、感慨深いものがあった。
「しかし、今日の試合も凄かったなぁ! ヒラリヒラリと相手の死角を衝いて攻め込むのを見てると、スカッとするよ!」
「へへ! 私の得意技だもん。それと、あのスリーポイントも凄かったでしょ?」
眩しい笑顔で満足気に智昌の感想に応えつつ、玲はさり気なく自らのプレーを自慢していた。体格というハンディを背負っている分、今のポジションを勝ち取った事は、彼女の誇りでもあるのだ。
「ああ。あの右サイドからの一撃を見て、この試合は決まったなと思ってさ。そこで試合場を出て、このジュースを買いに行ってたんだ」
「え? あの後、オフェンスからボール奪って、センターサークルからシュート決めたんだよ? 見てなかった?」
「え、ええぇ!? 何だよー、それ見たかったなぁ」
「残念でしたー! へへっ!」
腕を絡めて擦り寄るように甘えてくる玲は、まるで『もっと褒めて!』と言って来ているようだった。むろん智昌も、掛け値なしで彼女のプレーを賞賛していた。が、勢い余ってという奴だろう。彼はそこで、つい彼女にとっての禁句を口走ってしまった。
「でも、玲は凄いよなぁ。その小さな身体で、大型の選手を翻弄しちゃうんだもんなぁ……ハッ!!」
「……言った? いま『小さい』って言ったね?」
しまった! と、慌てて口を噤む智昌だったが、時既に遅し。口を出た言葉は、もう元には戻らないのだ。慌てて取り繕おうとするが、彼女は一瞬でヒートアップし、もはや聞く耳持たないという感じになっていた。
「あ、いや、その……い、今のは、ほ、褒め言葉じゃん!!」
「私に『小さい』は禁句だって、あれほど言ったよね? まぁだ分かってないの!?」
「わ、悪かったってば! 玲ぁ、機嫌直してくれよー!」
「もう、知らない!!」
「あっ、玲ぁ!! ま、待てよぉ!」
智昌の手を振りほどいて、玲はその場から走り去ってしまった。運動能力で彼女に劣る智昌の脚では、もう追いつく事はできない。走り去る玲の後姿を見ながら、彼は自らの迂闊さを呪った。が、同時に、なぜ彼女があそこまで『小さい』というキーワードに過敏に反応するのか、そこが気になっていた。確かに玲は、高校生にしては小柄である。だがそれは、彼女の魅力でもあるのに……と、彼は自分の理解を超えるタブーに悩んでいた。
***
「それは玲の方が悪いよー。久保君は純粋に玲のプレーに感動して、そのセリフを言ったんでしょ?」
「あ、う……そ、それは分かってるんだけど。彼女のご機嫌を損ねるの、怖いんだよ。惚れた弱みって奴でさぁ」
週明けの月曜日。放課後の美術室で、いつものように有紀と向かい合いながらキャンバスに鉛筆を走らせる智昌が、土曜日の失敗談を話していた。その話を聞いて、君に非は無いと説いて聞かせる有紀だったが、彼はすっかり落ち込んだまま、どうやって玲の機嫌を直すかで悩んでいた。
「ハァ……そのチキンなトコ、直した方がいいね。あれだけ威勢よく告白した男と同一人物だなんて、信じられないよ」
「言うなよ、気にしてるんだからさ。それに、彼女が相手の時だけだよ、あんな弱気になるのは」
「逆でしょ? 彼女の前で、強気なトコを見せられないでどうすんのよ」
「そりゃあ、まぁ……そうだよな、うん」
有紀に説教をされ、智昌は自らの情けない点を再認識する事になった。無論、彼自身も自分の短所には気付いていた。しかし、欠点というものは、理解していればすぐに直せるというものでは無い。だから悩みの種になるのだ……と、智昌は更に落ち込み具合をグレードアップさせていた。有紀は、そんな彼に気分転換を促すため、デッサンの交代を促した。
「さ、交代だよ久保君。ポーズ取ってくれる?」
「OK。えっと、こうだっけ?」
「違うよぉ、腕はもうちょっとこうで、左脚がもっとこっちで……」
「こう?」
「違うってば! もう……いい? もっと思いっきり、こんな感じで……」
ポーズを指定する時、智昌は無論、有紀の身体に触れる事は無いのだが、逆に有紀は遠慮なく智昌の身体に触れてくる。覚えの悪い彼が悪いのだが、傍目には一歩間違えれば逆セクハラとも取れる状況だった。と、そこに……
「……!!」
「……? どうした?」
「あっ、あのね? これは、ポーズのリクエストをしてただけで……そ、そのぉ……」
急に誰かに対して説明をするような台詞を言い出した有紀に、智昌は思わず『何をやってるんだ』と問い質した。然もありなん、彼の視点からは丁度死角となる為に何が起こっているのか分からなかったが、有紀は真っ青な顔になっていたのだから。
「おい、一体何を……って! あ、玲!?」
そう、智昌の背面──美術室の入口には、額に青筋を立ててヒクヒクと震える玲が立っていたのだ。
「……あ、あんた達……何やってんのよ?」
玲は、俯いて表情を隠していたが、小刻みにわなわなと体を震わせており、まるで怒りのオーラが全身から溢れているようにも見えた。そんな彼女に対し必死に言い訳をする有紀であったが、玲の怒りは収まりそうに無かった。
「だっ、だからぁ、ポーズをね……あ、あとは任せた!! 頑張りたまえ、久保智昌くん!!」
ここは逃げるが勝ち! と、有紀は脱兎の如く逃亡を図った。
「あ! オイ、ちょ……こ、ここで逃げるかぁ!?」
無責任にもその場を逃げ出してしまった有紀に非難の声を上げながら、智昌は心の中で十字を切っていた。先日の失態に加え、たった今見られた逆セクハラ紛いのポーズ取り作業。もはや、どう申し開きをすればいいか分からなかった。
「こっ……この間は言い過ぎたって、謝りに来たのに! どうして有紀とベタベタしてんのよぉ!」
「べ、ベタベタって……違うよ! ほら、そのキャンバスを見てみろよ、な? さっきの格好と同じだろ? アイツは俺をこのポーズにする為に、指示をしてただけなんだよ!」
怒り顔から一転、半泣きに転じた玲を宥める為に、智昌は更に必死になった。なにしろ、彼女のヤキモチは半端ではないのだ。女性に道を聞かれて案内してやる所を見られただけでも、半日は機嫌が悪いという始末なのである。そうなると、いつもはひたすら謝って許しを請うのであるが、今日は些か状況が違っていた。というのも、智昌が有紀に体を触られている現場を、玲が見てしまったからである。これを許して貰うのは、生半可な事では無理だな……と、智昌が解決策を練り始めた、その時。ボソッと呟く声が聞こえた。
「もう、有紀ったら……」
「……へ!?」
玲の呟きを聞いて、智昌は思わずキョトンとした。どうやら玲の怒りは彼にではなく、有紀に向けられているようであった。
「あんなにベタベタと……智昌は私の彼なのに……」
その一言を聞いて、智昌は即座に玲の怒りを収める最良の方法を思いついた。
「やりたきゃ、やればいいじゃないか。丁度、誰も居なくなったぞ?」
「え? ちょ、ちょっと智昌、なにを……!」
フルフルと震えながら怒りを抑えていた玲の身体を、智昌はフワリと包み込むように抱き寄せた。怒りの原因が有紀に対するヤキモチなら、彼女がやっていた以上の事を、玲にしてあげれば良いのだ。無論、怒りを買った原因そのものに邪な気持ちがあったのならそれは間違いだが、今の場合は完全な誤解なので、思い切り甘えさせてあげるのが正解であり、それによって彼女の機嫌も直るだろう、と……そう考えたのだ。
「佐野にヤキモチ妬いてどうするんだよ。アイツと俺が只の部活仲間だって事くらい、分かってるだろう?」
「ちっ、違……ヤキモチなんか……」
「ふぅん? 今のがヤキモチじゃなかったら、一体なんなの?」
「う~~……」
たった今まで怒りに震えていた玲だが、智昌の腕に抱かれた途端にグニャグニャになり、怒りの焦点もすっかり有耶無耶になっていた。付き合い始めた当初は確かに彼女の方が優位に立っていたようだが、最近は逆に玲が智昌に惚れ込んでいるようなニュアンスが強くなってきており、単なるヤキモチの場合は、こうして抱いてやると玲は安心し、大抵はご機嫌が直るのである。しかし、外出時にはこの手は使えないので、いつも苦労するのだが。シチュエーションが屋内であった今日はラッキーと言えた。
「安心しろって。廊下のド真ん中で告白した、俺の気持ちは嘘じゃないんだからさ」
「わ、私だって、智昌が……ン……」
玲が台詞を紡ぐ前に、智昌はその唇を自らの唇で塞いでいた。こうなればもう、主導権は完全に智昌のものだ。智昌は玲の身体を優しく、かつ力強く抱き締め、耳元で囁いた。
「こないだはゴメンな……気にしてる事を、無神経に口に出してしまって」
「わ、私が神経質すぎたんだよ。そ、その……ゴメンね、智昌……」
この一言が、完全なトドメとなった。が、ここで抱擁を終わらせるような事は無く、二人はお互いの温もりを楽しんでいた。そして智昌は玲の身体を優しく抱き締めた。それは玲も嫌では無いらしく、気持ち良さそうにウットリとしていた。
「気持ちいい?」
「……訊かないでよ」
その答えを聞いて、玲の興奮度がかなり上がっている事を確認した智昌は、今日こそは大丈夫かな……と、腰に回していた右手をそっと腹側に回し、徐々に胸元へと近付けていった。そこで、いつものように玲のストップが掛かった。
「……ダメ、胸はダメ……お願い」
「まだ、ダメなのか」
「……ゴメン」
このように、抱擁したりキスをしたりという体験も、この一年の間に何度となく行ってきた。しかし、胸の愛撫だけは何故か未だにNGであり、一度も触らせてもらった事がないのである。
(またダメだったか……しかし、どうして胸は嫌がるんだろう?)
些細な疑問だったが、こう毎回断られていたら『何か理由があるのでは?』と考えてしまうのが当たり前である。しかし、嫌なものは嫌だよな……と納得し、智昌がそこを追求する事はなかった。
***
その夜、玲はシャワーを浴びながら、昼間の事を後悔していた。
(今日は、智昌の望むままにしてあげようと思ったのに……やっぱりダメだった)
鏡に映った自分の裸身を眺め、その胸を自らの手で揉み上げながら、彼女は溜息をついた。
(智昌が胸の大きさなんかに拘らないなんて、もう分かりきってる事じゃない。なのに何で、自分の方から歩み寄る事が出来ないの……私の意気地なし!)
彼女の最大のコンプレックス──それは低身長などではない。この、小さな胸だったのだ。『小さい』というキーワードに過敏に反応するのもその所為で、胸の大きさを示唆されているようで怖くなるのだ。
(まだ、この胸を見せる覚悟は無いのよ。ごめんね智昌……それとも、こんな小さな胸でも、アナタは満足してくれる?)
恋人として彼と付き合っていれば、いつか必ず『その日』はやって来る。その時、自分は逃げ出さず、彼の腕に抱かれる事が出来るか……彼が自分の姿を見て落胆したりはしないか……玲はそれを恐れていた。が、やがて彼女は、ギュッと口許を一文字に結び、一つの決心を固めていた。
(次の土曜日……彼に、私の全てを見て貰おう。それで彼が遠ざかって行くのなら、それまでだったって事よ)
このまま悩み苦しむ日々が続くのなら、いっそ自分から秘密を明かして楽になろう……それが彼女の選んだ道であった。結果は考えない。どちらに転んでも、後悔はしない。そこまで思い詰めての決心であった。
***
玲がそうして一人悩んでいる頃、智昌もベッドの上で、先程の事を思い出して反省していた。
(玲って、実は身体を触られるの、嫌いなのかな。嫌がってるようには見えないけど、本当は我慢してるとか?)
智昌の予想は、全くの見当違いであった。玲は智昌の愛撫を、むしろ喜んでいる節がある。だが、そのコンプレックス故に、胸への愛撫だけは身体が拒絶してしまうのである。しかし、彼女がそんな事で悩んでいるなどとは、智昌には考え及ばなかったのだ。
(もう少し、自重した方がいいのかな。玲に嫌われたくないもんな)
こうしてお互いの姿を思い浮かべつつ、二人の夜は静かに更けていった。
(無償版は此処までとなります。その後の展開は本編にてお楽しみください)