大東亜戦争も熾烈を極め、制空権など既に無くなっていた昭和二十年の春。海軍航空隊の小さな飛行場の片隅で、整備の終わった零式艦上戦闘機を見上げていた若い整備士が呟いた。
「ふぅ……一万メートル以上の高度で飛んで来る奴らに、零式じゃ対抗できねぇよなぁ」
スパナを片手に、伸びをしながら、彼は嘆くように続けた。
「こないだの空襲で、まともな戦闘機は全部やられちまって。無事な部品をかき集めて、漸く仕上がったのがコイツらだもんな。負け戦だなぁ」
と、戦いの行く末に絶望したような独り言を呟く彼に声を掛けた男があった。飛行服に身を包んだ士官である。
「おぅ、恒一郎! 手筈通りに出来たか?」
「あ? あぁ、一応な。けど、なんせ継ぎはぎだらけのボロ零戦だ。どんだけ役に立つか、分からんぞ」
彼──相田恒一郎は、ぶっきら棒にそう答えた。が、士官はニヤッと笑い、我が策に隙なし! と言って得意満面である。
「楽天的すぎないか? 他の機体はともかく、お前のは……二二型に無理やり五二型のエンジンを載せた、強引な改造を施してあるんだぞ?」
「良いんだよ、俺が指示したんだからな。それにコイツを作ったのは、他でもない。お前だ」
「……期待されすぎて、溺れそうだぜ」
相田は、士官の豪快さに、ただ苦笑いを浮かべるだけだった。
「一応、指示の通りには作ったつもりだがな。なんせ急造なうえに試験もしてねぇからなぁ」
「大丈夫だって! 同じ零式だろ?」
「五二型と二二型じゃ、部品の互換性なんか無いようなもんなんだぞ」
「飛べりゃあ上等! あとは腕で補って見せるさ」
士官は、またも豪快に笑った。この豪胆さは昔と少しも変わっていない……恒一郎はしみじみとそう感じていた。
この士官──古賀英一は、恒一郎とは同郷の幼馴染。年齢は三歳上で、友達と言うよりは、面倒見のいい兄貴代わりだった。二人は各々の家庭の都合で離れ離れになっていたが、意外なところで再会を果たす事になった。
大学で機械工学を学んでいた恒一郎は予備士官として海軍に召集され、巡洋艦の応急員として勤務していたが、基地航空隊へ配置転換され、整備班分隊士となった。そして一方、古賀は海軍兵学校へと進み士官となり、戦闘機搭乗員となっていた。
そんな二人が偶然にも、同じ部隊に配属されて再会したのだ。
「……なぁ、恒一郎」
「あ?」
問いかけてくる英一に、零戦を見上げながら恒一郎が答えた。
「この戦い、いつまでやるんだろうなぁ?」
「んー? 終わるまでだろ?」
「やれやれ……正直、ウンザリだな。出来る事なら、乗りたくねぇよなぁ。コイツには」
珍しく弱音を吐く古賀を見て、恒一郎も『コイツの目から見ても、この戦いは厳しいのか』と、改めて思った。
「やっぱ、怖いのか?」
「正直、それもある。だが……」
「だが?」
ふぅっ、と一呼吸置いて、古賀が続けた。
「俺が撃てば、相手は死ぬ……奴らにだって、カミさんや子供、家族だってあるだろうに」
「違いない。だが、それはお互い様だろう」
「まぁ、な……」
なるほど、コイツらしいなと思い、恒一郎は納得した。そして彼も、自分の素直な意見を述べていた。
「自分の大事な人を守る為に、アメ公どもを追っ払う……そう考えたらいいじゃないか。俺達は、別にアメ公が憎いから戦っている訳じゃない。むしろ、今憎いのは……」
「言うな恒一郎。言ったら俺は、お前を罰せなければならなくなるぞ」
ニッと笑って、古賀が恒一郎の台詞を制止した。
「そうだな。まぁ、この戦いを最後まで生き残ったら、その時に思いっきり叫んでやるさ」
「そうしろそうしろ……その時は、俺も呼べよな」
「あははははは!!」
二人の幼馴染が、声を揃えて笑った。この笑顔は、子供の頃に遊んでいた時のものと変わりは無かった。
……と、その時。静寂を破り、敵機の来襲を告げるサイレンが鳴り響いた!!
「ちっ……来やがったか!!」
「目標は東京か!? 畜生!! 回せーーっ!! まわせーーーっ!!」
先ほど整備の終わったばかりの零戦──古賀の乗機のエンジンを恒一郎が始動し、操縦席から叫んだ。
「英一、乗り込め! いけるぞ!!」
「よし、代われ恒一郎! 出すぞぉ!!」
操縦席に乗り込み、シートベルトを掛けながらスロットルの遊びを確かめる古賀に、恒一郎が発進OKの合図を出した。
「よぉし! ちょっと行って、追っ払ってきてくれ! 頼むぜ!?」
「おうよ……チョーク払え!!」
両手を合わせた状態からサッと広げるジェスチャーをして『車輪止め外せ』の指示を出し、英一が叫んだ。その一言を最後に、高高度を悠々と飛来するB29爆撃機と、P51戦闘機から成る編隊に向け、古賀英一大尉率いる戦闘機隊は飛び立っていった。
「英一……死ぬなよ!」
と、恒一郎は何気に、古賀の戦闘機があった場所に目をやり、ハッとした。
「なっ……潤滑油!! 漏れていたのか……英一!!」
恒一郎は空を見上げ、古賀が飛び去った方角を凝視した。
古賀は、これまでの激戦を生き残った百戦錬磨の搭乗員だ。簡単に撃ち落とされるような素人ではない。だが、機体整備が充分でなかったら……と、恒一郎は己の犯した罪の重さを噛み締めていた。
夜明けになり、戦闘機隊が、一機、また一機と帰還して来た。しかし……その中に、古賀の機体は無かった。
「隊長は……古賀大尉はどうしたんだ!?」
恒一郎は、古賀小隊の二番機を務めていた一等飛行兵曹を捕まえ、食い入るように古賀の安否を問い質した。
「隊長は、P公を一機墜とした直後、機体を翻した隙を突かれて、別の一機に被られて……それで……」
「ら、落下傘は!?」
「…………」
問い詰められた搭乗員は、俯いて首を横に振り、古賀の生存を無言で否定した。
「俺のせいだ!! 機体の異常に、もっと早く気付いていれば……いや、こうなる事が、判ってさえいれば……あの機体に、お前を乗せて、送り出す事も……無かったんだ!」
地面に拳を叩きつけながら、恒一郎は嘆いた。
『判ってさえいれば……』
その考えは、彼の頭の中でどんどん大きくなっていった。
過去の自分に、未来の出来事を知らせる事ができれば……惨事は防げた筈。英一だって、死なずに済んだ……
彼はその日以来、『過去への帰還』に、異様なまでに執着するようになり、科学者となって研究を始めた。
戦争が終わり、平和になってからもなお、彼は研究に明け暮れた。そして気が付けば時は流れ、既に二十一世紀に突入していた。
七月十日。彼は今日も、照りつける太陽の有り余るほどの恩恵を地肌にモロに受けながら、昼休みのひと時を過ごしていた。額を伝う汗も、慣れてしまえば気持ちいいもんだ……と、地面にゴロリと横たわり、ボンヤリと空を眺めていた。
「汗もすぐ乾いちまうな……これ、放っておくとカリッカリの塩の結晶になるんだよなぁ」
彼の名は相田瞬一。高校一年生である。別に彼は『昼寝が趣味』という訳ではないのだが、エアコンによる冷房を好まない為、こうして外で過ごしているのだった。
──が、しかし。無防備にゴロ寝を決め込むには、今日の日差しは些か強すぎたようだ。目の前の視界がユラユラと揺らぎ、グルグルと回り始めた。そして段々と意識が遠くなり、頭がボーっとし始めた。まさに熱中症の一歩手前、非常に危険な状態に、瞬一の身体は晒されていた。
「……い……おい」
と、自分を呼んでいる声に気が付いて、瞬一は失いかけた意識を何とか引き止め、無意識のうちにその声に対して返事をした。
「……誰だ? 俺を呼ぶのは……あ、死んだ爺ちゃんが呼んでるのか……?」
「……イチ! おい!! シュンイチ!! バカ言ってねぇで起きろっての!!」
「……んぁ?」
声の主は、呆れたような顔で瞬一の隣にしゃがみ込んだ。逆光になったため、その顔は影になって見えにくくなっていたが……身体を横たえていた瞬一が気を失っていない事を確認すると、彼は台詞に冗談を交えながら注意を促して来た。
「なぁに限界に挑戦してんだよ。お前の干物なんか、売ってても誰も買わねぇぞ」
「あ……恭平か」
瞬一のマヌケな声に、彼──守山恭平は更に呆れたような表情になった。
「『恭平か』じゃねぇよ。あーあ、顔中に塩吹きやがって。マジで三途の川の向こうに逝っちまっても知らねぇぞ」
「またやっちまったか……陽が当たらなければ、ここも結構快適なんだけどねぇ」
身体を起こし、顔だけを恭平の方に向けたままで、瞬一はポリポリと額に張り付いた塩の結晶を掻き落とした。そして、ボンヤリとした頭を揺り起こしながら、傍らにあったミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばし、一気に煽った。乾いた体に、適度にぬるくなっていた水が、心地良く吸い込まれていった。
「ところで、どうしたよ? ここ何日か、やたら眠そうじゃないか」
「ん、あぁ……ちょっと忙しくてね」
授業中もずっと居眠り寸前の状態だった事を指摘され、瞬一は頭を掻きながら生返事をした。
「藤田に相談されてた、Webサイト作りの事か?」
「あぁ。やってみると、なかなか難しくてさ」
「人が好いにも程があるぞ、瞬一。別に断っても良いじゃねぇか」
「ん~……どうにもね、断れないんだよね。困ってる人を見ると、ほっとけないっていうか……」
ここ数日の寝不足の理由を吐露し、瞬一は苦笑いを浮かべた。彼はクラスメイトの藤田からWebサイト作りの手伝いを頼まれ、彼自身も未経験に近い状態だというのにも拘らず、眠い目を擦りながら毎晩パソコンと格闘していたのだ。
「それで自分が困ってたら、話にならんぞ」
「あぁ、わかってるよ」
瞬一も、自分の世話好き……というか、お人好しな性格の事は充分に理解してるつもりだった。だが、結果として幅広い分野でのスキルアップに繋がり、大概の事はソツ無くこなせるようになっていたので、まんざら悪い事ばかりじゃない……そう思うようにしていたのだ。
「ったく……オマエのその性格、変わらんなぁ」
「言うなよ。そう簡単に直るもんじゃ無いって」
恭平が苦笑いを浮かべながら、暗に注意を促した。そして瞬一は、そんな彼の顔を眺めながら『コイツには、入学式の時から言われっぱなしだなぁ』と、その当時の事を思い出していた。
**********
「初日から遅刻とは、いい度胸だな。どうして遅れたんだ?」
「実は、学校に向かう途中で……」
「言い訳するなぁっ!!」
高校入学の日、とある『事件』に巻き込まれて遅刻をした瞬一は、理由を説明する間も与えられず、もう一人の関係者と共に体育教師と思しき強面の教師に物凄い剣幕で怒鳴られていた。その時、彼らの背後から声を掛ける者が居た。
「先生……そいつぁちょっと、酷ぇんじゃないっスか? 遅刻の理由を訊いといて、言い訳するなとはどういう了見なんスか?」
「何だぁ、貴様は!?」
「新入生ですけど……何か?」
そう、その男子生徒こそ、恭平であった。彼は何故か瞬一たちが遅れた理由を知っており、フォローを入れてくれたのだった。
「コイツらは、迷子になった女の子の世話ぁしていて、遅くなったんです。悪い事してた訳でも、すっぽかした訳でもないんです。なのに、理由も聞いてやらないで、一方的に怒鳴るだけで。そういうのを、パワハラって言うんじゃないスか?」
「無断で遅刻したのは悪い事だ……だから叱っているんだ、部外者が余計な口を挟むな!!」
と、その教師が吠えた時、別の教師が割って入り、無理矢理に会話を中断させた。どうやら上級職にある者のようで、怒鳴っていた教師も会話の主導権を渋々ながらその男に譲った。
「えぇと、相田君と栗原さん……だね。大丈夫、連絡は聞いてるよ。さぁ、この場はもう良いから、教室に行きなさい。ホームルームが始まるよ」
「ま、待ってください! 私は何も聞いてませんよ!?」
「式典の最中に、列席している教員の方ひとりひとりに遅刻者の伝達なぞ、出来る訳が無いでしょう」
「チっ……!」
舌打ちをしながら、体育教師はバツが悪そうに去って行った。その様子を見ていた瞬一たちは、呆気に取られたまま暫く何も言えなかった。が、ハッと我に返ると、自分たちにフォローを入れてくれたその男子──恭平も、既に背を向けて、体育館の外へと向かっていた。
「ま、待ってくれ!」
「あ?」
ぶっきら棒で、愛想が悪い……それが、瞬一から見た恭平の第一印象だった。が、彼は『あんな強面の教師に意見できる男が今時いたのか』という事に感心し、目の前の男に何としても礼が言いたくなり、ほぼ衝動的に言葉を紡いでいた。
「あの……さっきは有難う、助かったよ」
「お? おお。なんて事ないぜ、礼なんか要らねぇよ。けどよ、お前もお前だ。いいように怒鳴られてるんじゃなくて、自分の言いたい事ぐらい、しっかりと自分の口で言えよな」
本当にハッキリ言う奴だなぁ……と、瞬一は思った。が、悪い気はしなかった。寧ろ、その清々しさは気持ちが良かった。
「はは……気をつけるよ。あ、俺、相田瞬一。よろしく」
「守山恭平だ、恭平でいいぜ」
**********
……と、回想に耽る間に予鈴が鳴り、午後の授業の開始が近い事を告げていた。
「お、予鈴だ。次は体育だぜ」
「うげぇ……すっかり水分を出した後に、また絞られんのかぁ」
午後に体育があるという不親切な時間割に対して文句を言う瞬一に対し、恭平が冷静に指摘した。
「文句を言うなよ。それに水なら、ちっとは補給したんじゃねぇの? そいつでさ」
「お? そういえば……あれ? 俺、水なんか、いつの間に買ったんだろ?」
頭に疑問符を浮かべつつ、残りの水を飲み干そうと、瞬一はボトルに口をつけた。
「あ、それは、さっきまで俺が飲んでた残りだ。美味いだろ?」
「ぶほっ!!」
恭平のセリフを聞いた瞬一が、盛大に口から霧を吹いた。
「あーあ、もったいねぇ。世界的な水不足なんだぞ、今」
「せ、せめて口つける前に止めろよぉ~」
その瞬一のリアクションを見ても、恭平はなおも冷静な態度だ。彼のマイペース振りは大したものである。
「ほれ、早く行かないと、鬼軍曹に絞られるぞ? ゾーキンみたいに」
「う~、あとでメタノールでクチん中消毒しないと」
「悪い事は言わねぇ、そこはエタノールにしといた方が良い」
……と、自分のミネラルウォーターを奪われた挙句に文句まで言われたにも拘らず、恭平は最後までマイペースだった。
この自信と説得力はどこから出てくるんだろう……そんな事を考えながら、瞬一は恭平の後に続いて走っていた。
**********
「相田君、これから部活?」
放課後。教室で当番の作業を済ませていた瞬一に、一人の女子が話し掛けていた。
「あ、うん。ゴミ捨ててきたら行くよ。先に行っててよ」
「……あれ? 相田君、今日は当番じゃないよね?」
頭に疑問符を浮かべて質問する彼女に、瞬一は苦笑いを浮かべながら応えた。
「んー、山崎の奴、当番なのを忘れて帰っちゃったみたいでさ。もう教室には俺しか居なかったから、しょうがなく、ね」
「え!? それじゃあ、日誌も、黒板も全部?」
つまり瞬一は、当番の作業を忘れて……いや、恐らくはサボって帰宅したクラスメイトの尻拭いを、文句も言わず、自ら進んでやっていたのであった。
「もー、しょうがないなぁ。ホントにお人好しなんだから」
「君だって、似たようなモンじゃないか?」
呆れている風に瞬一に注意をする彼女──栗原あおい。だが、彼女の表情はどこか、そんな彼を讃えているかのようにも見えた。そして彼女は、瞬一の返答には応えず、彼の手伝いを申し出ていた。
「も~、ほら。いいから、そのゴミ捨ててきちゃお?」
「え? いいよ、君は先に行ってろよ」
「二人でやれば、いっぺんに終わるでしょ?」
こんな事に付き合う必要は無いと、瞬一はあおいの申し出を拒否した。が、彼女も引かない。瞬一は、少し照れた表情を隠しながら、ボソッと独り言のように呟いた。
「お節介……」
「何か言ったかな?」
悪戯っぽく笑みを湛えて、あおいは瞬一の顔を覗き込んだ。そんな彼女に感謝しつつ、瞬一はわざと拗ねた風を見せて承諾した。
「何でもないよ。じゃ、お願いします。あおい様」
「素直でよろしい!」
何故か嬉しそうにニッコリと笑ってゴミ箱を持つあおいを促し、瞬一はゴミ処理場に向かった。
「そういえば、さぁ?」
「え?」
並んで歩きながら、あおいが何かを思い出したように瞬一に話し掛けた。
「あの時は、今日と立場が逆だったね」
「あの時?」
「ホラ、入学式の日の朝だよ」
「あぁ……」
あの日の事を思い出すのは今日二度目だなぁと思いながら、瞬一は当日の記憶を呼び起こした。
「あの時は、あの子に泣き付かれてた私を、相田君が助けてくれたんだよね。初対面だったのに」
「いや、だって君、明らかに困ってたじゃないか」
「あはは。迷子の女の子にイキナリ泣き付かれたら、誰でも困るよぉ」
……と、当日の事を思い出して顔を赤らめるあおいの顔を見ながら、瞬一はまたも回想に耽っていった。
**********
「ふわぁ……眠い。いよいよ今日から高校生だってんで、少し興奮しすぎたか? 夕べは、良く眠れなかったもんなぁ」
入学式を控え、少々緊張していた瞬一は、前日の夜になかなか寝付けず、寝不足状態になっていた。彼は昔から、楽しい事や心配事など、激しく動揺する事態が目前に迫ると眠れなくなるのである。そう、今朝も例外なく、明け方になって漸く寝付いたところを、目覚まし時計のベルに叩き起こされたのであった。
「学校に着くまで、挨拶の練習でも……ん? あれは……」
未だに眠りを欲する頭をムリヤリに揺り動かし、何とか眠気を退けようとしていたその時、瞬一の視界に飛び込んできたもの。それは自分と同じ学校の制服を纏った女子が、小さな女の子に泣き付かれているという光景であった。
「何か、メチャクチャ困ってそうな雰囲気だよな……うわ、泣き出した! こりゃあ見て見ぬ振りは出来ないよなぁ、やれやれ」
瞬一はふぅっと気合いを入れ、二人の方に歩を進めた。そして、高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、その女子に話し掛けた。
「ねえ、君」
「え? あ、あの……」
「その子、迷子か何かかい?」
「あ、ハイ……あ、でも、だ、大丈夫ですから」
大丈夫だったら、そんな困った顔にはならないでしょ? と、瞬一は精一杯の笑顔を作り、泣きじゃくる少女に語り掛けた。
「えっと、ねえ君、お名前言えるかな?」
「えぐっ……えぐっ……ママ~~~!! ママはどこ~~!?」
「あー……やっぱ、そう来るよね」
やはりと云うか、少女は益々酷く怯えてしまった。然もありなん。ただでさえ母親と逸れて不安になっているところへ、更に見知らぬ人物が介入してきたのだから、無理からぬ事だろう。少女にとっては、この上なく不安を掻き立てられる状況であったに違いない。
「あ、あの……あなたもこれから武蔵野高校の入学式に行くんですよね? 私に構っていると遅刻しちゃいますよ?」
「君だってそうでしょ? だったら立場は同じじゃないか」
「それはそうなんですけど……あなたまで巻き込んでしまう訳には」
「俺の勝手でやっている事だ、気にしないで……とりあえずこの子を、交番に連れて行こう。ジッとしていても埒があかない」
「そ、そうですね」
と、泣きじゃくる女の子を連れて、瞬一たちは交番に向かって歩き出した。そんな彼らの横を通り過ぎる一台のバスの中に、彼らと同じ制服に身を包み、ボンヤリとその様子を窺う目があった。
「なぁにやってんだ? あの二人。今日制服を着てるって事は、入学式……だよなぁ。アレじゃ遅刻確定だな」
呟きながら彼は、泣きじゃくる女の子を優しく誘導するその二人の顔を、しっかりと目に焼き付けていた。
**********
「あのー、すみません。迷子の女の子なんですけど」
交番に到着し、中で何やらメモを取っていた警官に、瞬一が話し掛けた。
「迷子? あぁ、いま連絡のあった女の子かな?」
「連絡?」
「えぇ。駅向こうの交番から連絡がありましてね。四歳の女の子を探している母親が、事情を説明してるそうなんです……ちょっと待ってくださいね、確認取りますんで」
瞬一の問い掛けに、警官は意外な回答をして来た。女の子はキョトンとしているが、瞬一たちは目を丸くしていた。そして、待つこと十五分。母親と思しき、新米ママさん風の女性が、こちらに走って来るのが見えた。
「ルリ!!」
「あー! ママー!!」
不安と悲しみの涙が一気に喜びの涙へと変わり、女の子の顔に笑みが戻った。その姿を見て、瞬一たちは歓喜の声を上げた。
「よかったぁ~!」
「あぁ……ありがとうございます!!」
こうして女の子は、無事に母親の元に返す事ができた。女の子の母親に引き止められ、『是非にお礼をさせてくれ』と言われたのだが、彼らとしてもこれ以上時間を割く訳には行かず、瞬一たちはその申し出を丁重に断わったのだった。
**********
無事に少女を母親の元へと届けた瞬一たちは、再び学校の方向へと歩を進めた。だが、既に洒落にならない時刻になっていた。
「九時半、か……まぁ、あれは無視できないしな。しょうがないか」
「でも、無視しようと思えば、貴方は行けたのでは?」
「お生憎さま。俺、ああいうシーンを無視できないんだよ」
「優しいんだね」
彼女の思いがけぬリアクションに、瞬一は照れてしまった。然もありなん、彼が女子と親しげに話をする事など、指を折って数えられる程度しか無かったのだ。
「い? あ、あはは……そ、そういう君こそ、一人で歩いてる女の子なんか、よく見つけたね?」
「あぁ……スカートが脱げそうになるぐらい、思いっきり引っ張られてたから」
顔を赤らめながら、彼女がその時の模様を振り返った。瞬一はその様子を見て、今まで同行していた女子が、思いのほか……いや、思い切り可愛いという事に改めて気付いた。
「……どうかしたの?」
「え!? あ、いや、なんでもないよ!?」
平静を装う瞬一であったが、その声は裏返っていた。
(やべぇ、この子マジで可愛いよ……入学早々、こんな子と知り合えるなんて……もしかして俺、メチャクチャついてる!?)
そんな事を考えながら、自分の隣をトコトコと歩く、自分より頭一つ分は背の低い女子の顔を見詰めて、瞬一は彼女に一目惚れした事を自覚していた。
一方の彼女も、唐突に目の前に現れた、今までに出会った事の無いタイプの男子の出現に、戸惑いを隠せずにいた。自分も損をする事が明らかに分かっているのに、それでもなお困っている人に手を貸せる……そんな度量を持った男子は初めてだったのだ。彼女は無意識のうちに目の前の男子に強烈な興味を持ち、既に好感に近い物を覚えていた。
──が、今はそんな夢心地に浸っている場合ではない。一刻を争う時なのだ。彼女はトリップ寸前で自我を取り戻し、目の前の彼に対して発言していた。
「とっ、とにかく、今からでも学校に行きましょ」
「さ、賛成。初日から無断欠席なんて、洒落にならないからね」
現実に引き戻され、瞬一は冷静さを取り戻した。そして二人は現状打破に向け、最善の方法を模索した。
「学校の電話番号、確か手帳に……」
「俺が連絡しとくよ。あ、俺は相田瞬一。君は?」
「あおい。栗原あおいです」
「栗原さん、か。よろしくね」
こうして二人は、妙な縁で知り合った事を笑いながら、大幅に遅れて学校に向かう事になったのだった。
**********
「あのあと、汗だくになりながら体育館に突入したけど、もう入学式終わってたんだよね」
「いきなり鬼軍曹に絞られそうになったところを、守山君に助けて貰ったんだよね」
笑いながら、二人は入学式当日の事を思い出していた。と、そこで瞬一が、ある疑問を口に出した。
「そういえば、どうしてあの時、恭平はあの事を知っていたのかな?」
「バスの窓から見てたのさ」
「のわっ!! きょ、恭平!? いつからそこに!?」
不意に真後ろから声を掛けられ、瞬一は飛び上がるほど驚いた。そしてあおいも、やはり驚いて焦りの表情を見せていた。
「会話に熱中しすぎだぜ。で? 何でオマエらがゴミ箱なんか持ってんだ?」
「いつものお人好しパワー炸裂だよ。で、私も手が空いてたから、お手伝いを……ね」
「しょうがねぇなぁ」
予想通りの回答に呆れ、恭平は思わず溜息を吐いた。もはや小言も出ない、といった感じであった。
「ところで栗原、佑香と何か約束してたのか? 探してたぜ」
「え? いや、覚えはないけど……」
「あいつ今、自販機のトコにいるから。ゴミ箱は俺が持ってってやるから、早く行きな。待たせると後が怖いぞ」
恭平が手伝いを途中で放棄する事を躊躇ったあおいを促し、購買部付近で待つ友人の元に行く事を勧めた。この気遣いの細やかさは流石であった。
「うん、ゴメンね。じゃあ相田君、また後でね」
「おー。音楽室で待ってるよ」
恭平にゴミ箱を手渡して立ち去っていくあおいに、瞬一が先に部活へ行く旨を伝えた。その別れ際、二人が互いに微笑みあっている様を見て、恭平は何やらニヤニヤしていた。
「……? どうした恭平、なにニヤついてんだ?」
「ん? いや、お前らもやっと進展してきたのかと思ってな」
「な・な・な・なニを言ってるんだ、お、オマエ!?」
唐突に、しかも図星を衝いてきた台詞に驚き、瞬一は狼狽した。既に瞬一とあおいの双方が惹かれ合っているのは誰が見ても明らかなのであるが、本人達が互いに照れあって、仲が進展しないのである。見ていて面白いのだが、そろそろ次のステージに進んでもいい頃かな? と思い始めていた恭平は、そんな二人のアシストをする形で、こうして時折カマを掛けているのだ。
「いや、結構一緒にいる事が多いからな、オマエと栗原。かなり仲良く見えるぜ?」
「そ、そーか?」
目線を逸らし、冷静を装いながら、瞬一はバレバレの誤魔化しを試みた。しかし、そんなものは当然、恭平には通用しない。
「まぁ、伊達にペアで入学式、遅刻して来てないよな」
「だ、だからアレは~!!」
「はいはい。分かったから、廊下で大声出すのは止めような」
「うっ……さ、サッサとゴミ捨ててこようぜ!」
何とか話題を変えようと焦る瞬一を見て恭平は、これはまだまだ進展しないなぁと、苦笑いを浮かべるのだった。
**********
「ホラッ! そこ、昨日も注意したでしょ?」
「す、スンマセン。でも先輩、俺まだ、上のDより高い音、出ないんですよ」
「もー。その楽器は確かに低音用だけど、そのぐらいの音域はカバーできる筈だよ」
「はぁい」
高校入学と同時に、瞬一は吹奏楽部に入った。そして、演奏する姿がカッコイイという理由で、トロンボーンを選んだ。
瞬一の指導に当たっているのは女子の先輩で、名を赤坂留美と言った。彼より一学年上の二年生である。眼鏡着用のためか、非常に真面目そうな外見を持っているが、その実は非常に明朗な性格で、時折ジョークを飛ばしてくる事もある、親しみやすい人柄であった。しかし指導にあたる時はとても厳しく、休憩中と練習中のメリハリがとてもハッキリしていて、そのギャップに驚くほどだ。
「あー、ダメダメ! マウスピースに唇を強く押し付けちゃダメだよ」
「む、難しいっス」
「難しくても、それが基本なの! それから、姿勢! 肩はそんなに張らないで、軽く顎を引くの! 何度も教えたでしょ?」
「つ、ついクセが……」
「言い訳しない! 男の子でしょ!」
……と、留美のレッスンはいつもこんな感じであった。だが、厳しいだけではなく、緩急の付いた指導のおかげで、教わる側としても飽きが来なくて、非常に判りやすく、そして楽しかった。
「ホラ、背筋を伸ばして、肩の力を抜いて……こう、でしょ?」
「せ、先輩……近いっス」
「変なコト気にしてないで、集中して! いま言った事、分かった?」
「はっ、ハイ!」
「ん、ヨロシイ。じゃ、その姿勢のままでロングトーン、三十拍五セット……始め!」
尚、武蔵野高校吹奏楽部は、女子部員が殆ど……というか、現状で男子は彼一人しか居ないという状況だった。何でも、今の三年生が入学した年から男子は一人も居らず、瞬一は本当に数年ぶりに入った男子部員だったらしい。
「先輩、音楽室は四階なのに、どうして俺らだけ三階の、こんな離れたトコで練習しなきゃならないんです?」
「この中じゃ、君は目立つからね。皆と一緒だと、他の人がちょっかい出してきて、練習にならないからよ。だから私が強引に場所を変えたの」
確かに、最初のうちは珍しがられたけど……でも、そんなに邪魔になる程じゃなかった気が? と、瞬一は頭に疑問符を浮かべながら、何か釈然としない物を感じていた。
「よーし、休憩ー。この後、四時からトレーニングだから、休んだら楽器しまってねー」
「あ、そっか。今日はトレーニングの日かぁ」
「その様子だと、タオル忘れたでしょ?」
「バレました?」
瞬一は、冗談抜きで今日の日程をすっかり忘れていた。ジャージはいつも学校にあるから良いとして、スポーツタオルは常備していないので、汗だくになった身体を拭く為の手段が無いのだった。
「もぉ……今日は私の予備を貸してあげるから。次はペナルティつけるよ?」
「はぁい、スミマセン」
「ふぅん? 相田君には優しいんだねぇ、留美っち」
「あ、みかん先輩、お疲れっス!」
彼らに話し掛けて来たのは、二年生の三ヶ尻由宇。銀色のコルネットが良く似合う、小柄な上級生だ。まるで中学生のような幼い風貌を持っており、苗字の発音から、皆は彼女を『みかん』と呼んでいるのだが、それを下級生にも許してしまう、とても気さくな人物なのである。
「べ、別に……後輩のフォローは先輩の役目だもん、当たり前でしょ?」
「ハイハイ。じゃ、アタシは先に降りてるからね」
「あ……相変わらずフットワーク軽いなぁ。相田君、私たちも急ごう!」
そう、手をヒラヒラと振って背を向ける由宇の後姿をノンビリ見送っている場合ではない。既に他のパートは移動を開始している事が、由宇の行動から読み取れたからだ。これはいけないと、瞬一と留美も急いで楽器を片付ける事にした。
**********
「ふー……吹奏楽部は文化部なのにトレーニングあるからなぁ、疲れるよ」
「ふふっ、音楽の演奏には、とても体力がいるんだよ」
部活が終わり、帰宅準備に入った時。昇降口で靴を履き替えながら、瞬一とあおいが話をしていた。彼は吹奏楽部の基礎練習に体力トレーニングが含まれる事を知らなかった為、練習メニューに未だ慣れておらず、トレーニングのある日は必ずと言っていいほど慰労困憊となっていた。
(そういえば俺、栗原と二人でいること多いよな……俺としては嬉しいけど、彼女はどう思ってるんだろう?)
先ほど恭平に指摘された事を思い出し、あおいの顔を盗み見ながら、瞬一は考えていた。確かに自分は隣で靴を履いているこの女子に好意を抱いている。だが、彼女にとって自分はどのような存在なんだろう? と、気になり始めていたのだ。
「……どうしたの?」
「あ! ご、ゴメン。つい、ボーっとしちゃって。ちょっと疲れたのかな? アハハ」
ジッと顔を眺めていたのを気付かれ、瞬一は慌てて誤魔化した。この時、あおいも瞬一が見ている事に気付いて赤面していたのだが、夕日に照らされて全体に赤く反射していた為、それは気付かれなかったようだ。
「そういえば相田君、中学の時は科学部だったんだっけ?」
「ああ、そうだよ」
「どうして、畑違いの吹奏楽部に入ってきたの?」
「え……!? そ、それは……」
まさか『君が居るからだ』などと言える筈も無く、瞬一は慌てて言葉を取り繕った。
「なぁに、爺さんがジャズ好きでね。興味があったのさ……ほ、ほら、早く帰ろうぜ」
「う、うん! ……あ、そうそう! 今日のゴミ捨てのお礼は『クレモナ』のケーキセットでいいよぉ」
「ゲッ、俺のおごり? 君、途中で居なくなったじゃん」
「いいから! ほら、行こ!!」
……と、照れ隠しもあってか、互いにテンションを上げながら瞬一たちは昇降口を後にした。そんな様子を靴箱の陰から覗いながら、疑問符を頭に浮かべる人影があった。
「あの二人、あれが出来て、どうして進展しないのかな?」
「さぁ、俺にはどう見ても恋人同士にしか見えないんだが……なぁ佑香よぉ、あの二人、放っといても大丈夫なんじゃね?」
「ダメだよ恭ちゃん! 友達として、最後まで見届けてあげなきゃ!」
そこに居たのは恭平と、その言に対し指摘する彼の恋人──小石川佑香の二人であった。彼女は二人の後姿を目で追いながら、ニヤニヤと笑っていた。
「はぁ……お前、面白がってるだけだろ、絶対」
「そんな事ないよぉ、私は純粋に友達として……」
「説得力ねぇし。なぁ、そろそろ俺達も行こうぜ。あいつらも帰ったし、いつまでもこんなトコに居たって仕方ねぇよ」
「あ、う……う、うん、そだね。アタシ達も、か、帰ろっか」
ヒートアップする佑香の肩をスッと抱いた恭平が、さり気なく退散を促した。その仕種に弱いのか、彼女は恭平の手に頬を摺り寄せながらウットリとして、その身をすっかり彼に預けてしまっていた。
「……あおいも、ほんの一握りの勇気を出せば……アイツと、こんな風に出来るのにね。ホント、バカだね」
(その通りだ。しかし瞬一、栗原をリードすべきはお前の方なんだ。もっとしっかりしなきゃダメだぜ!)
佑香の辛辣かつ的確な指摘に頷きながら、恭平は心の中で瞬一にエールを送っていた。そんな彼の思いを他所に、瞬一はただ、隣を歩く彼女の気持ちを探ろうと、懸命になっていたのだった。
**********
「相田君、かなりスジが良いのよね。楽器を持たせて一か月とは、とても思えないわ」
「男子だからね、肺活量も基礎体力もアタシ達とは違うんだよ。まごまごしてると、追い越されちゃうかもよ?」
恭平と佑香が昇降口を出て行った直後、入れ替わりで降りて来た留美と由宇の二年生コンビが下足箱の前で話をしていた。
「そのぐらいで上等! いずれは、あの置き物同然の三年の後を埋めてくれなきゃ、困るんだからね!」
「おー、熱が篭ってるねぇ! そんなに可愛いかい、年下の男の子は?」
頬を紅潮させながらグッと拳を握り締め、これからの展望を熱っぽく語る留美の横顔を、由宇が悪戯っぽく笑みを浮かべつつ上目遣いで覗き込んだ。そんな彼女の切り返しに慌てた留美は、先程とは違う意味で顔を赤く染めながら反論していた。
「ちょ、変な言い方しないでよ! 私はただ……」
「え? 変な風に聞こえた? アタシはただ、良く面倒見てるねって言っただけなんだけどなぁ? 強引に練習場所を変えてまで」
「あ、あれは……皆が覗きに来て、練習に支障が出たからだよ! 今の彼に必要なのは、集中力なの!」
「ふぅーん?」
しっかりと揚げ足を取られた留美が、真っ赤になって由宇に食って掛かった。が、当の彼女は涼しい顔でその反撃を躱し、逆にカウンターパンチを当てて来ていた。留美は既に返す言葉を失い、拗ねて見せるのが精一杯であった。
「もぉっ、余計な詮索してないで、みかんも自分の後輩の面倒、ちゃんと見なさいよね!」
「心配御無用。我がパートは、そちらと違って層が厚いですからね」
「むーっ!」
留美は、密かに抱きつつあった瞬一への恋心を、懸命に隠そうとしていた。いや、表立って異性への想いを語れるほどの余裕が無かった、と言った方が正解であろう。ともあれ、彼女はそんな思いを胸に秘めたまま、周囲の目を誤魔化し続けていたのだ。
(もぉっ! そりゃあ、照れるに決まってるよ。仕方ないじゃない、好きなんだもの。練習場所を変えたのも、冷やかされるのが嫌だったからよ。でも、彼がウチのパートに入ってきて、私が指導係になったのは私の所為じゃないもん!)
内心でそう自分に言い聞かせながら、留美は懸命に平静を保っていた。しかし、由宇はその想いが瞬一に対する恋心である事を、既に見抜いていたのだった。
**********
翌日。瞬一は、またも昼休みを中庭で過ごしていた。冷房が苦手な彼にとって、この季節は地獄と言えた。だが、風通しの良い中庭に居れば幾分かはその苦しみも軽減できると考えて、なるべく日の当たらない木陰を選んで、ごろ寝を楽しんでいた。
「ふぅ……暑いことは暑いけど、あの中よりはマシだよな。俺はエアコンの風とは友達になれそうにないね」
瞬一は誰にともなく呟いて、昼休みの残り時間を使って寝不足を少しでも解消しようと試みた。と、その時……
「ぐえっ!!」
彼の顔面を、バレーボールが直撃していた。そのボールを拾い上げ、周りを見渡すと、それを飛ばした本人と思しき人物が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。
「ゴメンゴメン、大丈夫!?」
「こっ、小石川ぁ……」
近付いて来たのは、長い髪をポニーテールに纏めた、切れ長の瞳を持つクラスメイト──佑香であった。
「あはは、痛かったぁ? でも大丈夫だよね、男の子だもんね。うん!」
「オマエなぁ、痛いのに男も女も関係あるかい!」
瞬一はボールを手渡しながら、ブツブツと文句を言った。そんな彼を、佑香は軽く退けた。
「こらこら、過ぎた事をウジウジ言わないの!」
「それ、ぶつけた奴の台詞じゃないだろうに?」
「お生憎さま。それ、ぶつけたのはアタシじゃないんだな~」
ニヤリと笑いながら、佑香は瞬一の指摘を否定した。そして、その後ろから走ってきたのは意外な人物だった。
「えへへ、ごっめーん!!」
「く、栗原! なに、バレーやってたの?」
「うん、ただトスし合ってるだけなんだけどね」
自分の顔面を直撃したボールを放ったのがあおいだと分かり、瞬一は文句を言い辛くなってしまった。だが、ここで何も言わなかったら、彼女に好意がある事が、横に居るクラスメイト──佑香にばれてしまう。それを危惧した彼は、冗談を交えた軽い抗議をあおいに向けた。
「へぇ、最近のトスは随分と威力があるんだな?」
「あ、あははは……」
瞬一の指摘を、あおいは笑って誤魔化そうとした。そして、それをフォローするかのように、佑香が口を挟んで来た。
「あおいってば、アタシの絶妙なトスに見事に反応してね。素晴らしいアタックだったわ……って、それにしてもアンタ、何であんな所に寝てたのよ?」
「そういえば相田君、良くここでお弁当食べてるよね」
いつの間にか話題が切り替わっていたが、いつまでもボールの事を話しているのは都合が悪かったので、瞬一は内心で佑香に感謝しつつ、質問に応えていた。
「あぁ、俺はエアコンの人工的な冷風が嫌いなんだ。せめて昼休みぐらいは、あの中から脱出したいのさ」
「へぇ~。こんな炎天下でお昼なんて、物好きだなーと思ってたけど」
「メシ食ってる時は、炎天下じゃないんだよ。食い終わる頃に日が傾いて、影が動いちゃうけどね」
と言いつつ、瞬一は頭上の楡の木を見上げていた。
「ふーん、野外ランチかぁ。気持ち良さそうだね、今度は私も誘ってよ」
「え? あぁ、構わないけど?」
あおいの意外な申し出に驚きつつも、瞬一は心の中でガッツポーズを決めていた。本人は気付いていなかったが、その表情は微妙にニヤけていた。その反応を見てか、あおいも嬉しそうに微笑んでいた。
「そうだね、皆でランチタイムってのも悪くないね」
「え? あ、あぁ、そうだな」
佑香の発言で夢心地を覚まされ、瞬一は思わず落胆の表情を見せてしまった。そんな仕草を佑香が見落とす筈は無く、容赦ない指摘が入った。
「あら、なんか迷惑そうねぇ。もしかして、アタシはお邪魔かしら?」
「え!? そ、そんな事ないよ? うん、恭平も誘って皆で……いいんじゃない?」
「ん~? 何か慌ててない?」
「な、何でも無いってば!」
わざと意地悪そうな表情を湛え、懸命に誤魔化す瞬一を追い立てる佑香は、本当に楽しそうであった。そんな彼女の追求から逃れる為、瞬一は強引に話題を切り替えた。
「あー、そ、それにしても、制服のままでバレーボールか? 汚れるし、それに……」
「それに?」
「あ、いや、なんでも……」
発言してから、しまった! と気付いて、瞬一はその先を言い淀んだ。それに対して、あおいが疑問符を浮かべた事で、彼は更に答えに窮してしまった。
「ははぁん……」
「な、なんだよ?」
「ご心配は無用よ。ちゃんと……ほら!!」
と、瞬一の懸念を即座に理解し、佑香がパッとスカートを捲り上げた。が、悲鳴を上げたのはあおいだった。
「きゃ!! ちょ、ちょっとユカちゃん!! 何するのよ!?」
「ね、ちゃんとスパッツ穿いてるよ」
「も~!! 捲るんなら、自分の捲ってよ!!」
「いやーん、だって恥ずかしいじゃない」
「私だって恥ずかしいよ!」
あおいの抗議を涼しい顔で躱し、佑香はケラケラと笑った。そんな彼女の後ろから、恭平が呆れ顔で指摘してきた。
「おいおい、お前ら。ギャラリーが完全に引いてるぞ?」
「え?」
「あ、あは……」
恭平の指摘で我に返った二人が、各々に照れ隠しをした。それを見て苦笑いを浮かべた恭平は、続けて瞬一に向かって話題を振った。それは、発言に困る彼に助け舟を出すつもりの行為であった。
「それとも、オマエには刺激が強かったかな? いろんな意味で」
「う、うるさいぞ! 恭平!」
ニヤニヤと笑いながら、恭平が瞬一をからかった。その横に、スカートを捲られた事実をすっかり無視され、瞬一とは別の意味で顔を赤らめているあおいが居た。
「あ……く、栗原ゴメン、俺のツッコミのせいで」
「え? あ、その、相田君は悪くなくて……もうっ、ユカちゃんってば!」
瞬一とあおいは完全に照れてしまい、発言も支離滅裂になっていた。そんな彼らを見て、佑香は肩を竦めながら、恭平に話題を振った。
「はいはい、悪かったよ。ところで恭ちゃん、どうしてここに?」
「ん? あぁ。今日もまたコイツが日干しになってるんじゃないかと、ちょっと心配になってな」
「ひ、日干し!? 今日もまた!?」
昨日の事を知らなかったあおいが、驚いて瞬一の顔を覗き込んだ。
「あ、いや、汗をかきすぎてさ、ちょっと熱中症になりかけただけで……」
「それ、ちょっとじゃ無いよ。ダメだよ、熱中症って怖いんだよ?」
「ご、ゴメン」
瞬一を気遣って、あおいは真っ青になっていた。そんな彼女を見て、彼は心底から『申し訳ない』と思っていた。
「ふぅん、それは洒落にならないね。ねぇあおい、時々見張りに来てあげたら?」
「え? あ、わ、私は構わないけど……」
佑香の提案に、照れを隠し切れないあおいと、意外な展開に狼狽する瞬一。そんな二人を交互に見比べて気を利かせたのか、恭平が佑香を促して立ち去ろうとした。
「そうだ佑香、ちょっと付き合ってくれや。ワリィ瞬一、ちょっと用事を思い出した。また後でな」
「え? あ、待ってよぉ!」
返答を待つ事無く、恭平はそそくさとその場を立ち去った。それを追って、佑香も退場して行った。取り残された瞬一とあおいは、暫くモジモジしていたが、意を決したようにあおいの方から口を開き、時折ランチタイムに乱入する事を宣言していた。その宣言を瞬一が否定する筈もなく、まさに『瓢箪から駒』な展開となり、彼は飛んできたバレーボールに感謝していた。
**********
「相田くーん!」
「お? どうした栗原、早く音楽室行かないと練習始まっちまうぜ?」
ランチタイムの約束から数日経過したある日の放課後、教室に残って作業をしていた瞬一に、あおいが話し掛けていた。
「教室に楽譜忘れたの。相田君は……当番だよね」
「そ。ゴミ捨て場に行ってきたら終わりだから、先に行っててよ」
そんな瞬一の発言を、あおいが聞き流す筈もなかった。
「私も一緒に行くよ。二人でやれば、早いでしょ?」
「ん。じゃあ、お願いするかな。どうせ断っても、ついて来るでしょ?」
「えへへ」
こうして、またも瞬一たちは二人でゴミ箱の処理をする事になったのだが……彼らがゴミ集積所に着いたとき、そこには予想外の行列が出来ていた。木工室から木の廃材が大量に持ち込まれ、その処分に時間が掛かっていた所為であった。そして順番待ちをしている間に、音楽室から楽器の音が聞こえ始めた。
「あー、練習始まっちゃったね」
「こんなに混んでるとは思わなかったからなぁ。悪いな栗原、巻き込んじゃって」
「私の勝手でやってる事よ、気にしないで」
初めて会った日の彼の台詞を真似するあおいに苦笑いを浮かべながら、瞬一は思わず本音を口に出してしまっていた。
「あの日のあの子に、礼を言いたいよ」
「え、何?」
瞬一の漏らした本音を聞いたあおいは、とぼけて聞こえない振りをして、彼に復唱を求めた。が、当然というか、彼の返答は彼女の期待したものとは違っていた。
「あ、いや、君もかなりのお節介だな、って言ったのさ」
(もう、素直じゃないなぁ)
最初の発言をしっかり聞いていたあおいは、内心で非常に残念に思っていた。然もありなん、いま語られた瞬一の本音は、二人の間柄を進展させる切掛けに、充分なり得たのだから。
そして、やっと作業を終わらせて教室の前まで戻ってきた時……ドアの窓から教室を覗いた瞬一が、思わずあおいを制止した。
「え! 何? どうしたの!?」
「シッ!! アレ見ろよ、アレ!!」
僅かにドアを開いたその隙間から見えた光景に、瞬一たちは固まっていた。何とドアの向こうでは、恭平と佑香による熱烈な抱擁、およびキスシーンが展開されていたのだ。
「おいおい恭平~! 何で教室でそんな事してんだよ!」
「ユ、ユカちゃん……幾ら恋人同士だからって、そこまで……」
「二人の仲がかなり進んでるとは聞いてたけど、既にここまでやってるとは……」
想定外の出来事に驚き、瞬一とあおいは完全に我を忘れていた。そして彼らは無意識のうちに、教室の中で展開されているラブシーンに魅入ってしまい、固唾を呑んでその様子を窺っていた。しかし、ハッと我に返った二人は、いつまでもこうしている訳には行かないと気付き、どうすれば良いか小声で相談しだした。
……が、事態は意外な形で収拾した。
「お前ら、何やってんだ?」
「ひ、ひいいぃぃぃぃぃ!!」
「はわわわわわわわわわ!!」
彼らのヒソヒソ声に気付いた恭平が、ドアの前まで来ていたのだった。不意を衝かれる形となった瞬一とあおいは、腰を抜かさんばかりに驚いていた。
「気ィ遣うんなら、もうちょっと上手に遣えよな」
「し、仕方ないだろ!? あんな場面、見慣れてないんだから!!」
「そ、そうだよ! きょ、教室であんなこと!!」
本来ならば、文句を言うのは覗かれた恭平たちの方なのだが、動揺した二人は、逆に恭平に抗議を始めてしまっていた。そして少し遅れて、佑香も会話に参加して来た。
「ふぅん……相田はともかく、あおいまで覗いてたとはねぇ」
「べっ、別に覗いてた訳じゃないって! ぐ、偶然見えちゃっただけだよ!!」
「っていうか、俺ならともかくって、何だよ!? 俺だって、わざと見た訳じゃないんだぞ!」
佑香は、覗かれた事に腹を立てる風でもなく、苦笑いを浮かべながら、形だけ文句を言っているといった感じであった。が、その発言に対しても、あおいと瞬一は言い訳を重ねてしまっていた。そして、そんな二人の顔を眺めていた佑香が、ニヤニヤと笑いながら彼らをからかい始めた。
「羨ましいなら、あんた達もやればいいじゃない。気持ちいいんだよ?」
「そっ、そんなこと! 私たち、別にそういう関係じゃないもん! 行こ、相田君!」
「お、おう! れ、練習、終わっちまうよ!」
もはや恭平たちの顔をまともに見ることも出来なくなっていた瞬一とあおいは、そそくさと逃げるようにその場を立ち去っていった。すっかり気まずい雰囲気になってしまった彼らは、話し掛けるタイミングすら見つける事が出来ず、モジモジしていた。然もありなん。二人とも先程のシーンに夢中になり、魅入っていた姿を互いに見られてしまい、自分もそういう行為に憧れているという事を暴露した形になってしまったのだから、無理からぬ事である。
「な、なんか言ってよ」
「何か、って……」
やっとの事で瞬一が口を開くが、あおいはまだ立ち直っては居なかった。そして、また暫く無言で歩き続けていたが……今度はあおいが瞬一に語りかけた。
「ユカちゃんと守山君、幸せそうだったね」
「そ、そうだね」
「かなりビックリしたけど……でも正直、羨ましかった、かな?」
「え!?」
あおいの発言に、瞬一は驚いて……いや、どうリアクションすべきか、完全に判らなくなってしまっていた。あおいはその時、真っ赤に頬を染めて、瞬一の次の台詞を待っているようだった。だが彼は、何度か発言する素振りを見せながら、ふいと目線を逸らして、沈黙してしまった。あおいのリアクションが意外すぎて、すっかり混乱してしまったらしい。
「……いくじなし」
「え? な、なんか言った?」
あおいがボソッと放った小声の台詞を、瞬一は聞き逃してしまった。その一言は、まさに彼女の心の叫びであったのに。
「何でもないよ。さ、先輩に怒られちゃうよ? 早く行こう!」
「あ、う、うん」
次の瞬間、無理に笑顔を作ったあおいが、瞬一を促して歩を進めた。お人好し……いや、奥手すぎる二人の受難は、まだまだ続くのであった。
その晩、瞬一は眠れぬ夜を過ごした。日中に刺激的なものを見たあと、意中の彼女の意外な発言を聞いて、完全に動揺してしまっていた為である。しかもその影響で、あおいとの会話もギクシャクしたものになってしまっており、その事実が彼の動揺に更なる拍車を掛けていた。
(はぁ……今日も居眠り決定かな? こりゃ)
斯様に、瞬一は気落ちと寝不足でフラフラになっていた。と、その時、そんな彼の背後から、佑香が元気に話し掛けてきた。
「おっはよ、相田!」
「あ、おっす……き、昨日は、その……」
「え? あー、気にしなくていいよ。キスぐらい、見られたって減るモンじゃないし」
昨日の覗き事故の件もあり、瞬一は佑香に対しても後ろめたさを持っていた。が、彼女の態度は実にアッサリとしたものであり、逆に彼は呆けに取られてしまった。
「そ、そーか?」
「まぁ、あんまりジロジロ見られたら困るけどね。あのぐらいなら、どうって事ないよ」
佑香のサバサバした性格に助けられ、瞬一は少し気が楽になった。
「それより、恭平は? 一緒じゃないの?」
「え? あぁ、恭ちゃんはいつも、サッカーの自主トレやってから来るから、もっと遅くなるんだよ」
「へー、待ってなくていいの?」
普段から親密なムードを隠しもしない二人にしては妙にドライだなぁと、佑香の口から出た回答を意外に思い、瞬一は頭に浮かんだ質問をストレートに発言した。それに対し、佑香はこれまたアッサリと応えた。
「練習してる所を見られるの、好きじゃないんだって。アタシも前に、コッソリ覗いて叱られた事あるんだ」
「へえ、知らなかったな。隠れた努力家なんだな」
「そういう事。努力は自分を裏切らない、ってね。恭ちゃんの口癖だよ……って、それより……」
「ん?」
それまでの話題を打ち切って、別な話題を持ち出してきた佑香の次の台詞が気になり、瞬一は真面目に彼女の言に耳を傾けた。しかし……
「ひどい顔ねー」
「んなっ!! た、確かに美形じゃあ無いかも知れないけどな?」
次に用意されていた佑香の台詞は、容赦ないものだった。その台詞を聞いた時の瞬一がどのような表情を作ったかは……説明するまでもないだろう。しかし、彼女の真意は瞬一の予想とは違っていた。
「バカ、それはもう判ってるよ。目の下にクマ作って、どうしたのよって訊いてんの」
「美形じゃない、ってのは否定せんのか」
「否定して欲しい訳?」
佑香は瞬一の顔色を見て、体調不良を起こしているのではないかと心配していたのだ。だが、素直にそれだけを言うのも何となく悔しくなったのか、それとも照れがあったのか。瞬一の発言を冗談交じりに肯定しつつ、顔色の悪い理由を問い質していた。
「ちぇっ。このクマの理由? まぁ、若さゆえの悩みと言うか……」
「あおいの事?」
「……!! な、なんで、く、栗原がここに出てくんだよ!?」
思い切り図星を衝かれた瞬一は、顔を真っ赤にして否定してみせた。だが、その反応は逆に佑香の発言を肯定する事に等しく、却って彼女をニヤニヤさせる結果となった。しかし、彼女としても友人のプライバシーを徒につつくような趣味は持ち合わせておらず、即座に自分の用意していた回答を口に出し、瞬一への追求を止めた。まさに『武士の情け』であった。
「大方、昨日の放課後の事が頭に焼き付いて、興奮して眠れなかったってトコでしょ? 大丈夫だよ、アンタだってそのうち経験できるよ。相手さえ見付かればね」
「ふん。見てろよ? いつかお前らに負けない大恋愛、してやっからな」
口を尖らせ、拗ねたような表情を浮かべながら、瞬一は虚勢を張って見せた。彼は佑香たちを目標にしている事を思わず吐露してしまったが、それについて否定はしなかった。彼女たちの馴れ初めを聞いており、佑香がどのような経緯で恭平と交際するようになったか、その時にどれ程の努力をしたか──それを知っていた為であった。
「あははは! ま、頑張んなさいな。応援はしてあげるからさ。あおいの為にもね」
「だっ、だからそれは……」
佑香の方も多少の照れがあるのか、少しだけ瞬一をくすぐって見せた。
「あはは……あ、そうだ、また話変わるけど」
「ん?」
また唐突に話題を変えられるが、あおいへの想いについて言及されるのでなければ何でもいいと考え、瞬一は佑香の話に応じた。
「数Ⅰの課題、今日提出だよね。やって来た?」
「あァ、バッチリおわらせ……て……!!」
佑香の口から語られたのは、今日提出予定の課題の話であった。無論、その課題はしっかり完了させていたので、瞬一は自信たっぷりに返答をした。が、今朝の自分の行動を思い出した彼は、足元が崩れて、奈落の底に落ちていくかのような錯覚に見舞われていた。
「ちょ……ちょっと相田! どうしたのよ、イキナリ真っ青に……ありゃりゃ、足まで震えて」
「こ、小石川ぁ……今から電車に乗って家まで帰ったら、何分で帰って来れるかなぁ?」
流石の佑香も、その時の瞬一の顔を見て、ただ事でない状況であると察した。そして彼女は躊躇いを見せるが、すぐに冷静さを取り戻し、直前の発言から一体なにがあったのかを推理して、最善と思われる回答をしていた。
「何があったのかは大体分かったけど、落ち着きなって。数Ⅰは一時間目よ、絶対間に合わないって」
そう、今からノートを取りに行ったのでは授業開始に間に合わない。提出が遅れるだけでなく、本人も遅刻する事となり、却って被害が大きくなってしまう。佑香はそれを瞬一に告げ、諦めるように意見した。
が、瞬一の狼狽の原因は、課題を提出できないと言う事実のみにあるのではなかった。
「お、俺だけじゃないんだ」
「へ?」
「俺だけじゃないんだ……く、栗原まで巻き添えに」
「ど、どういう意味よ?」
瞬一の言によると、その課題に取り掛かった際、どうしても解けない問題があり、あおいに質問をしたというのである。そこで解答のヒントを教わるだけならば良かったのだが、彼女のノートの纏め方に感心した瞬一が、そのノートをコピーさせてくれと頼んだのだ。しかし『書き写した方が勉強になるから』という彼女の提案により、彼女のノートは瞬一の自宅に一時預けられる事になった。そして今朝、彼は自分のノートと共に、そのノートをカバンに入れるのを忘れた──との事であった。
「ど、どうしよう!? これじゃ栗原に嫌われちまう!!」
「落ち着きなって。アタシも一緒に説明してあげるからさ。どうやらノート忘れた原因、アタシと恭ちゃんの件のようだしね」
すっかり冷静さを失った瞬一は、この世の終わりの如く落ち込み、取り乱していた。そんな彼を見て、佑香も真面目に彼をフォローするしかなくなっていた。そして、真っ青な顔の瞬一とそれを宥める佑香のコンビは、のろのろと学校に向かっていった。
**********
「おはようユカちゃん。あ、相田君も一緒だったんだ。おはよ!」
「お、おはよー」
「お、お……おはよぅ……」
教室に着いた瞬一と佑香の二人に、先に到着していたあおいが挨拶した。が、彼女は二人の様子が何となくおかしい事に気付き、驚いて問い質した。
「ど、どうしたの二人とも? 何かあったの? 相田君、顔、真っ青だし」
「く、栗原……その……ゴメン!!」
「え?」
いきなり瞬一が詫びてきた事に、あおいは驚き、戸惑った。何故謝られているのか、皆目見当がつかなかったからである。
「あー、あおい。実はね~……」
真っ青な瞬一と、それを見て戸惑うあおいを交互に見ながら、苦笑いを浮かべた佑香がフォローを入れ、事の一部始終を説明した。
「えー! それじゃノート、忘れてきちゃったの!?」
「ご、ゴメン!! ほんとにゴメン!! あの時、ノート貸してだなんて言わなけりゃ……」
瞬一はあおいに対し、懸命に謝罪していた。然もありなん、自分にノートを貸したばかりに、彼女も巻き添えを食って『課題忘れ』の同罪になってしまうのだから。あおいはそんな彼に、そんなに謝らなくても良いよと言って既に赦免していたのだが、彼の方としては、自分を許せない……というか、相手があおいだったからだろう、どうにも収まらない感じであった。
「んー、困る事は困るんだけど、そんなに真っ青にならなくてもいいのに」
「いやー、持って来る気はマンマンだったらしいんだわ。ただ、ホラ、昨日の……」
「え? ……あ、そっか。あれ、ね」
昨日の教室での一件……二人が佑香と恭平のキスシーンを覗いてしまった事を回想し、あおいは思わず赤面した。実は彼女も、その事が頭から離れず、昨夜はなかなか寝付けなかったのだ。ともあれ、瞬一が翌日の登校準備が疎かになってしまうほど動揺してしまうというのは意外であったが、その気持ちを痛いほど理解出来たあおいは、その肩をポンと叩き、本当に怒ってなどいないのだという意志を告げるとともに、彼を納得させるための『代償』を提案していた。
「気にしないで! ホラ、元気出して! 帰りにケーキセットおごりで手を打つから。一番高い奴ね!」
「やさしーねぇ、あおいってば」
「あは……でも、次から気をつけてね?」
「ゴメンなさい……」
あおいの提案した『代償』により、瞬一も何とか納得する事が出来たようだった。
結局、その課題を提出できなかったのは、瞬一とあおいの二人だけ。彼らは数学の教師に軽く説教された後、夏休み中に一日補習を受けるという事で話がついた。あおいは『どうせ部活で毎日学校に来るんだし、構わないから』と微笑んでいたが、『彼女にマイナスイメージを与えてしまった』という意識は、瞬一の心の中でどんどん大きくなっていった。
**********
「ごちそうさま!」
「こんなんじゃ、お詫びにもならないけどね……」
帰宅途中、瞬一のおごりでケーキを食べて、あおいはご満悦だった。彼女の頭には、既に『課題忘れ』のダメージは微塵も残っていなかった。が、瞬一は未だにその事を気にしていた。
「気にしすぎだよ相田君! ホントに平気だから」
「そ、そうか……なら良かった」
(……それに、夏休みの補習だって相田君と二人でだもん。辛くなんかない、むしろ……)
そう。あおいは『堂々と瞬一と二人で過ごせる時間』を与えられた事の方が嬉しかったのだ。その彼女の呟きは瞬一の耳にも届いたが、内容までは聞き取る事が出来ず、それが気になった彼は思わず彼女に問い質した。当然、あおいはそれを誤魔化すのだが、彼はその呟きを、課題を提出できなかった事を悔やむが故の呪詛と勘違いしてしまっていた。
「さ、行こう。昨日寝てないんでしょ、相田君。今夜はゆっくりしなきゃダメだよ? 藤田君の用事も、今日はお休みだよ?」
(あぁ……せめて朝、家を出る前に戻れたらなぁ……)
あおいは瞬一を促し、帰宅を急ごうとした。だが、彼は何やら考え込んでしまい、気も漫ろな感じであった。
「くん……相田君? もう、ボーっとしてないで。ホラ、元気出してよ」
「あ……うん、ゴメン」
(もぉ。私、ホントに気にしてないのになぁ)
既にあおいは今朝の事を全然気にしていないのだが、瞬一は未だその事に囚われてしまっていた。彼が何を考えているのか、すっかりお見通しの彼女は、思わず苦笑いを浮かべるのだった。
**********
その夜、瞬一は自室で考え込んでいた。後悔先に立たず、覆水盆に帰らず……昔の人は良く言ったものだ。つまり『やっちまった事を無かった事に出来ないか』と考えた人は沢山居たって事だよな、と。しかし、現実に起こってしまった事は、もう取り返しが付かない。タイムマシンでもあれば話は別なのだろうが、そんなモノは、マンガや御伽話の中の創造物に過ぎない。実際にはあり得ないのだ。いや、以前に祖父がそんな研究をしていたのは確かだったが、完成したとは聞いていないし、そもそも成功などする訳が無いと、幼心にそう思っていたのだ。
そして、やっとの事で自分を納得させ、またコツコツと好感度を上げるための努力をすれば良いだけだ! と気持ちを切り替えた瞬一が机に向かった、その瞬間……
「……!! な、何だ!?」
突然、瞬一の背後で凄い音がしたと同時に閃光が走った。そして彼は、その眩い輝きの中に佇む人影を見つけていた。
「……って、あ、あの人は!?」
白衣に身を包んだ老人が、そこに立っていた。そして、その人の姿を、顔を、声を……瞬一は良く知っていた。だが……
「はて? ここはワシの研究室の筈じゃが……佇まいはそのままじゃが、家具が入れ替わって居る。引越しでもしたのか?」
「あ……あ……」
驚愕のあまり、瞬一は思わず言葉を失った。が、それは無理からぬ事だった。彼の眼前に立っていたのは、そこに居る筈のない人物だったのだから。しかし、白衣の老人は瞬一を見つけると、なんと逆に彼に質問をしてきた。これにより、瞬一は益々混乱してしまった。
「む? 誰じゃ!?」
「じっ、爺ちゃん!?」
瞬一は、漸く絞り出すようにして声を出す事が出来た。しかし彼は、信じられないものを見ているかのような、驚きの表情を浮かべていた。
「ワシを爺さんと呼ぶ……お前、瞬一か!?」
「は、はは……ありえねぇ!! 俺は今、夢を見てるのか!?」
「ぬ……いかん、この部屋の主が変わって居る可能性を考えんかったわい。まさか、見られてしまうとは」
何故、爺さんがここに? と狼狽する瞬一に対し、老人は何やらブツブツと独り言を言いながら、辺りを見回している。どうやらこの老人は、瞬一の祖父──恒一郎に間違いないようであった。
「あはは……そうだ、コレは夢だ。第一、爺ちゃんの葬式は五年前に済んでるんだしな」
その一言を聞いて、恒一郎は初めて自分がここに姿を晒していてはいけないのだと気付いた。彼は自分ぐらいの年齢になれば、五年程度で外見が変わってしまうことは無かろうと油断していたのだ。そして彼は同時に、瞬一の台詞に含まれていたキーワードに注目し、驚愕した。
「お、お前! 今、何と!?」
「だからぁ、爺ちゃんは五年前に死んだんだ! こんな所に居るわきゃねぇっての!」
そう。恒一郎は、五年前に研究中の事故で他界していたのだ。つまり、今ここに居る事はあり得ない。だが、当の恒一郎は、全然的外れな発言をして更に瞬一を混乱させた。
「なんと! ワシはあと余命幾ばくもないという事なのか!?」
「はぁ!? 何か、会話が噛み合ってないんだけど」
既に死んでいる筈の人間が、余命とか……何を言ってるんだ!? と、瞬一は益々混乱していった。
「何という事だ! 漸くタイムマシンが完成したというのに、もう時間が無いというのか!?」
「た、タイムマシン!?」
瞬一は信じられないタイミングで、あり得ない単語を聞いた。それに加え、目の前で展開されている信じ難い事実……彼の頭は、もうパンク寸前だった。
「ええい! こうしては居れん! 調整を急いで、早く過去へ行って、奴を止めねば!!」
「って、おい、ちょっと!!」
と、言い終わるや否や、恒一郎はまた光の中に消えていった。後には、呆然とした表情の瞬一だけが残された。
「た、タイムマシンだってぇ!? 爺ちゃんの研究……まさかアレ、成功しちゃったの!?」
まさかとは思ったが、今さっき見た物が、夢や幻だったとはとても思えない。いまだ半信半疑であったが、もしこれが事実ならば、とんでもない事になる。それにそれを否定したら、先刻いきなり現れた祖父についての説明ができない。瞬一は、仮定を確信に変える為、家の中のどこかに残っている筈の『それ』を探して、まずは恒一郎の研究資料を仕舞い込んだ物置に向かっていた。
**********
数十分を要した探索の末に見つけたのは、一見ごく普通の黒いアタッシュケースだった。が、裏側には放熱用のフィンがあり、ただのアタッシュケースでない事を物語っていた。と言うか、瞬一には恒一郎が部屋の中で弄っていた、その機械類に見覚えがあったのだ。子供の頃、何度も部屋の中に入って悪戯して、怒られたからである。
ケースの中には、ケーブル類とキーボード、液晶パネル、それにストップウォッチのようなものが入っていた。無論、それがタイムマシンであると言う確証は無かった。だが、もしコレで過去に戻れるなら、あの失態を無かった事に出来る。そう考え、瞬一はその機械を動かしてみる事にした。コンセントにプラグを挿し、主電源スイッチを入れる。すると、ヴ・ヴ・ヴ……と、重々しい駆動音を立て、電圧ブースターらしい物が動き出した。そしてキーボードと液晶パネルにバックライトが灯った。どうやら、壊れてはいないらしい。
更に待つと、専用OSのブートが完了し、画面にメニューが映し出された。
「『TIME KEEPER Ver.3.60D』? いかにもな感じだな」
CUIベースの簡易的な入力メニューが立ち上がり、いくつかの項目が空白になっていた。緯度や経度、時間……現在位置の座標を入力する項目もあった。瞬一は、わかる範囲で空白を埋めて行った。入力メニューはそれほど多くなく、結構単純な操作方法のようだ。だが、何故か『START』ボタンが押せない。何か条件が足りないようだ。
何が足りないのだろう? と思い、瞬一はもう一度メニューを見直した。が、エラーメッセージも出ていないし、入力漏れもない。ハテ? と思いつつ暫く待っていると、電圧ブースターの動きが激しくなり、甲高い音に変わっていった。ここで瞬一は、電圧が基準値に達するのを待っていたのであろう事を理解した。そして、待つこと三分弱。漸く『START』ボタンが青く点滅を始めた。準備が整ったようだ。
それは全く未知の機械で、どう動くかも判らない、怪しい物だった。だが瞬一は藁にも縋るような思いで、その機械の動作スイッチに手を伸ばした。
──が、その装置は瞬一の予想を超えたアクションを起こした。何と、傍らにあった小さな箱だけが、激しいスパークと共に消えたのだ。
「電撃、か? あーあ、床が焦げてらぁ」
と、瞬一が呟いた刹那。消えた筈のその機械は、全く無傷で同じ場所に戻ってきた。若干のタイムラグはあったが、ほぼ瞬間的に元に戻ったと言って良いだろう。どうやら、本体はこの小さな装置で、アタッシュケースが操作パネル。こちらで移動したい時間と帰ってくる場所を設定して、本体に転送するという代物らしい。原理は良く判らないが、物体が消えて、そしてまた戻ってきたのだ。どうやら、時間か場所、いずれかを瞬時に移動する装置である事は確かなようだ。これがタイムマシンと仮定するなら、試してみる価値は充分だ──が、しかし。
「この機械と、物理的に接触してないと……駄目なんだろうな、多分」
そう。瞬一は、先刻激しいスパークと共に消えた装置に直接接触していないと、機能が完結しない事を理解していたのだ。だが、どう見てもあれは『危険』と判断できるレベルの放電だった。素手で取り扱うのは、あまりに無謀と言えるだろう。
「電気なら、ゴムで絶縁するのがお約束だけど……手袋なんかで防ぎ切れるのかな?」
博打であった。正直、フローリングの床に焦げ目を付けるほどのスパークを、掃除用のゴム手袋などで防げるとは思えない。しかし、そのリスクに見合うだけの価値は必ずある……瞬一はそう信じていた。
──そして瞬一は、賭けに出た。風呂掃除用のゴム手袋に、一縷の望みを託して。
**********
激しい衝撃の後、瞬一は意識を手放しかけた……が、辛うじて気絶は免れたらしい。そして気が付くと、いつの間にか窓の外が明るくなっていた。
「──俺の部屋だ。こりゃあ、ビンゴだったみたいだな」
目覚まし時計のカレンダーを見ると、七月十五日の朝六時半。今日の朝だ。瞬一は賭けに勝った。過去に戻ってきたのだ。
「まるでマンガだな」
自分がしでかした事がイマイチ信じられず、まだ夢を見てるような感覚であったが、時間を遡る事に成功したのなら、やる事は一つだ。瞬一は迷わず、机の上にあった自分とあおいのノートを通学カバンに滑り込ませた。折良く、この時間の瞬一は不在のようだ。あとは、この時間の自分と出くわす前にここから姿を消せば、作戦は成功となる。だが彼は、この時になってやっと、帰り方が判らないという事に気が付いた。
「お、落ち着くんだ、俺。さっき、この機械は自力で戻ってきた。という事は、待ってりゃいつかは呼び戻されるって事だ」
と、瞬一が呟いたその瞬間。計ったようなタイミングでドアが開き、まさかの人物が顔を出した。
「はー、ねみィや。全然眠れなかったからなぁ……ん?」
「げっ、やば!!」
この時間の自分の登場であった。それを見て、タイムスリップしてきた瞬一は狼狽した。しかし、誤魔化しようがなかった。
「……え? 俺?」
焦点の合ってなさそうな視線で、自分の方を見詰めるもう一人の自分が居る。実に不思議な光景である。だが、それに感心している暇は無い。何とか状況を説明しなければと、瞬一は慌てて解説を始めた。
「あー……あのな、詳しく説明してるヒマはない。夜になったら、物置を探せ。機械が入った、黒いアタッシュケースを探すんだ。そうすれば、今何が起こってるのか、わかる……」
と、ここまで言った瞬間。手に持っていた機械が発光を始め、瞬一の身体と意識はその場から消え去った。
**********
「な、なんだったんだ? 寝ぼけてるのか、俺は?」
目が覚めたら、自分がもう一人いた。そしてそれは目の前で、凄まじい音と光の中に消え去った。寝起きにいきなり在り得ないものを目撃し、なにが何だか判らない……といった感じの瞬一だけが、その場に取り残されたのだ。
「そんな事、ある訳ないよな。寝ぼけていたんだ、きっとそうだ」
瞬一は、今見た事を夢と混同し、強引に納得していた。そして未だ眠りを欲する頭をムリヤリに振り起こし、服を着替えて、洗面所へと向かった。
**********
「おはよ、相田君!」
「あ、お……おはよ」
登校途中、駅を出たところで、瞬一はあおいに声を掛けられていた。
「凄い顔色になってるねー。夕べ、ちゃんと寝た?」
「いや、その……興奮しちゃって、さ」
「あ……」
瞬一は、全く寝付けなかった事のみを告げるつもりで、思わずその原因の方をポロリと吐露してしまった。拙い! と後悔したが時既に遅し、そこには昨日の事を思い出し、頬を染めるあおいの顔があった。
(ヤバイ、何か話題ふらないと……)
(気まずいなぁ、何か話さなきゃ……)
二人とも、この手の経験が全くなく、こういった場合にどういう対処をしていいか判らない為、言葉に詰まってしまったのだ。と、その時。瞬一たちに思わぬ救いの声が掛けられた。その声の主は、昨日の興奮の原因である佑香であった。
「あ、あおい~!」
「え? 何?」
挨拶も略していきなり声を掛けられたあおいは、驚きつつも佑香の方に向き直り、話を聞こうとした。
「数Ⅰの課題! 忘れちゃったのよ~! お願い! 写させて!!」
「あー、アレね。相田君、出してあげて」
朝っぱらから、何とも慌しい事である。そして、その気持ちは良くわかるぞと内心で思いつつも、瞬一は軽く優越感を漂わせていた。
「しょうがねぇ奴だな。課題は自力でやんなきゃダメだよ、チミぃ」
「あおいのノートを借りてた奴に、偉そうに言われたくないぞ」
ぷぅっと膨れたような表情で、佑香が瞬一を睨んだ。が、瞬一は至って涼しい顔で、それを迎え撃った。
「お生憎様、俺は丸写ししたんじゃないの。解き方だけ教えて貰ったのさ」
「えへへ。ノートの取り方が上手だって、相田君が褒めてくれたの~」
「まぁ、この俺が一発で理解できるような書き方だったからね」
ノートのまとめ方を褒められ、あおいも満更でもない表情で瞬一に微笑んだ。
(何よ、結構上手くやってるんじゃない、この二人)
そう思い、佑香は思わず一瞬微笑むが……ハッと思い直した。今は、それどころではないのだ!
「めっさ悔しいけど、今はツッ込んでる余裕ない! ゴメンねあおい、先に行って、猛ダッシュで写させてもらうね!」
「気をつけてね~」
砂煙をも巻き上げるかのような勢いで、佑香は学校へ向けて走り去って行った。そんな彼女の後姿に、あおいは心ばかりのエールを送るのだった……恐らくそれは、佑香に届くことは無いだろうが。
そして、あおいがふと瞬一の方に目をやると、彼は何やらブツブツと呟きながら、考え事をしているようだった。
「どうしたの相田君、ボーっとして?」
(俺ぁいつの間に、カバンにノートを入れたんだ? 確か机の上に置きっぱなしだった筈だぞ? ひょっとしてこれは朝見た、もう一人の俺の仕業? まさかアレ、夢とか幻じゃなかったのか?)
考え事に夢中になって、問い掛けに気付かない瞬一に、あおいは今一度声を掛けた。
「ねー、相田君? どうしちゃったの?」
「あ、ゴメン。俺、ボーっとしてた?」
「うん……っていうか、カバンの中見ながら、真剣に考え事してるみたいだった」
まさに、あおいの形容の通りだった。カバンの中を覗き込み、まるで信じられないような物を見ているかの如く、瞬一は真剣に考え事をしていたのだ。が、自分が今朝見たもの……それについて説明しても、どうせ信じてはもらえまい。そう思った瞬一は、適当に焦点をぼかした回答をしていた。
「どうしたの? 忘れ物でもしたの?」
「あははは、いや、そんなドジは……ドジ……俺ってドジ……」
「え? ……え?」
あおいの声掛けで我に返った瞬一は、改めてカバンの中に視線を落とした。そして今日も大きなミスをしていた事に、この時初めて気付くのだった。
「……弁当……忘れた」
**********
昼休み。自らのミスで昼食抜きとなった瞬一が、相変わらず中庭の『指定席』にゴロリと横になり、ブツブツと独り言を言っていた。
「は~……昼飯が無いと辛いなー。やっぱ学食行けば良かったかなー。でも、あんまり小遣い残ってないしなぁ。ここの草とか、食えないかな? 野菜だって元々は草だし」
と言って、瞬一は傍らの雑草を一本むしって、しげしげと眺めた。と、その時。背後から、彼の心拍数を確実に上げることの出来る声が聞こえて来た。
「あー、だめだよ、そんなの食べたら、お腹壊すよー」
「いっ!? あはは、まさか、本気で食う訳ないじゃん」
瞬一はパッと身を起こし、慌てて声の主の方に向き直った。それがあおいだと、直ぐ気付いたからだ。
「ホントにダメだよー? その草は苦くて、おいしくないよ」
「って、栗原? まさか、食べた事あるの?」
あおいの口から出てきた意外すぎる言葉に、思わず瞬一は目を丸くした。
「あ、あははは。子供の頃、おままごとやっててね? それで、ついホントに口に入れちゃったの。すぐに出したけど、でも、苦くてまずくて。急いでウガイしに行ったよ」
なるほど、ママゴト遊びの時の事故か……と胸を撫で下ろすと同時に、瞬一はあおいの少女時代を想像していた。可愛かったんだろうなぁ、いや、今も可愛いが……などと、想像というよりは妄想に近い思考が、彼の頭の中を支配した。
──が、瞬一はハッと我に返った。そんな妄想を彼女に悟られては、拙い。彼は咄嗟に、先の表情を誤魔化すかのような、冗談交じりの回答を返していた。
「なるほど。じゃ、こっちの草なら大丈夫かな?」
「そんなもの食べなくても、お弁当ならここにあるよ。私が作った奴で良ければだけど」
「……え?」
瞬一は思わず我が耳を疑い、驚愕の表情を隠しきれないまま返事をしてしまった。しかし、意中の彼女の手料理を食べられるとあっては、興奮するなと言う方が無理であろう。
「あ、あんまり美味しくないかもだけど」
「ほ、ホントにくれるの!? あ、でも、君の分は?」
「大丈夫。実は、お姉ちゃんが今朝、お弁当を忘れていったの。だから、お弁当が二つあるの。一人で食べるには多いから、どうしようかと思ってたの」
「そ、そうなんだ。そういう事なら、遠慮なく……いただきます!!」
「あ、あんまり期待しないで? まだ練習中だから」
と言いながら、あおいは弁当に箸をつける瞬一の顔を、不安げに覗き込んだ。
「ど、どう?」
「うん、うまい! 美味しいよ栗原、マジで美味い!」
瞬一は嘘偽りのない、素直な感想を述べていた。実際、まだ練習中だと謙遜するあおいの発言とは裏腹に、その味付けは熟練されたものであった。普段から彼女は、かなりの頻度で調理を任されているのであろう。
「よかったぁ~! えへへ、家族以外の人に食べてもらうの、初めてなんだぁ」
「じゃ、俺が初めて君の料理を食べた男って事か」
家族以外の人に食べてもらうのが初めてという事は即ち、彼女の手料理を食べた男は、彼女のお父さんを除いては自分が初、という事になる。この意味をあまり深く考える事無く、瞬一は素直に喜びを表現していたが……直後、あおいの口から紡がれた言葉により、彼は更なる興奮の坩堝に自らを投じる事になった。
「あはは、いいお嫁さんになれるかなぁ? なんてね」
「……!!」
上目遣いに、少し照れた桜色の頬……あおいの表情が、瞬一の心拍数を更に上げていた。彼は『落ち着け!! 一般論だ』と自分に言い聞かせ、懸命に平静を保っていた。そして、昂ぶる胸の内を隠しながら返答した。
「な、なれるんじゃない? 料理は上手だし、何より面倒見が良いし。大丈夫だと思うよ」
「あ、あんまりマジメに答えられると……私、その……」
精一杯の感想を、出来るだけ自然な口調で返そうと懸命に平静を装う瞬一の回答に、あおいはすっかり赤面してしまっていた。対する瞬一も、今の台詞は恥ずかしかったかなと、俯いて表情を隠してしまっていた。と、そこへ……
「なぁにやってんのよ、相田。全く、鼻の下伸ばしちゃってさ」
「なっ!! こ、こ、小石川、いつからそこに!?」
その声に驚いた瞬一は、やっとの事で声の主に向けて返事をした。
「『俺が初めての男か』の辺りからね。もぉラブラブだったから、話し掛けられなくて困ってたのよね」
「ゆ、ユカちゃん! そんなんじゃないもん、もう!」
佑香の返答は、若干ニュアンスが変わっていた。だが、それを指摘している余裕はあおいにはなく、真っ赤に染まった頬と、慌てきったその声色により、佑香の発言を肯定する結果となっていた。しかし見るからに照れまくり、互いに目線を合わせるのも恥ずかしそうにしている瞬一たちをこれ以上弄るのは可哀想かと思った佑香は、用件だけを伝えて早々に立ち去る事にした。
「じゃ、ごゆっくり……あぁ、そうそう。あおい、例の事をちゃんと伝えておいてね」
「あ、あー、うん、わかった」
あおいの返事を聞いた後、佑香は彼女にニヤリと笑みを向けた。その表情を見て、あおいは『もう!』といった感じで、更に顔を赤らめた。そして佑香が立ち去った後、瞬一はあおいに、彼女の言葉の意味を問い質した。
「ねぇ栗原、例の事って何?」
「あ、うん。ユカちゃんね、夏休みに守山君と一緒に海へ行こう、って約束したんだって。でも、二人だけじゃダメ! って、お母さんに反対されたらしくて」
「ま、まぁ、そりゃあ、そうだろうな」
あおいの説明を聞いて、瞬一はうんうんと頷いていた。然もあらん、その判断は至極当然。女子の友達同士ならばともかく、高校生の男女に、二人だけで遠出を許すような放任主義の親というものは、そうは居るまい。
「でね、守山君のお父さんが監督で付いていく事と、もっと友達を誘う事。そういう条件でOKして貰ったんだって」
「なるほど、それで俺たちに、か。うん、わかった、考えておくよ……き、君はどうするの?」
友達同士で海水浴。普通に楽しいそのイベントを、瞬一が否定する理由は微塵も無かった。だが、彼にとってはもう一つ、大事な条件があった。あおいが参加するかどうかで、重要度が大きく左右されるのだ。
「え? わ、私? うん、私もまだ、考え中なの」
「そ、そうか。うん、なるべく早く返事するよ。お袋とかに相談しなきゃまずいから、すぐには返事できないけど……今夜、電話していい?」
「う、うん! わかった、待ってるね」
あおいも、まだ家族に相談していない状況だったので、今ここで回答……という訳に行かなかったのだ。だが、恐らく彼女も、瞬一と同じ気持ちであった事だろう。でなければ、彼の回答が気になる筈は無いであろうから。
ともあれ、帰宅後の連絡を約束して、一旦その話題は終了した。そして残りの時間を全て使い、瞬一とあおいはランチタイムを共にした。周囲からは本当に仲の良い恋人同士にしか見えず、その外からの印象を知らぬのは本人たちだけであった。
**********
「うん、八月二日の九時に、駅前に集合だね? OK!」
その夜、両親の了解を得た瞬一は、約束通りにあおいの携帯電話に連絡していた。無論、あおいも参加するという事で、瞬一の心は躍っていた。
「彼女、どんな水着を着てくるのかな」
あおいの水着姿を想像し、瞬一は思わずにやけた顔になった。昼休みに体験した『彼女の手料理』の記憶も相まって、彼は今、弁当を忘れた自分に感謝していた。だが、記憶を辿るうち、どうしても理解できない一件がある事に気付いた。
「もう一人の俺、入れた覚えのないノート……どうも気になるな」
どう考えても、ありえない事だった。それはそうだろう、自分と同じ姿形をした人物が唐突に現れ、目の前で姿を消したのだ。あの時、瞬一は『寝ぼけていたんだ』と思い込んでいたが、冷静になってみるとやはりおかしい。ドッペルゲンガーにしたって、自室内で遭遇するなど、ある筈が無い。
「確か奴は『物置を探せ、黒いアタッシュケース……』とか何とか言ってたな。よし、行ってみよう」
目の前に現れた謎の人物の言葉を反芻し、瞬一はその通りに行動してみる事にした。言われてみれば幼い頃、祖父の研究を何度か見聞きした事があり、その男の言っていた『アタッシュケース』にも、何となく覚えがあったのだ。その記憶とその男の指し示す物が同じ物である確証は無かったが、とにかくこのままではスッキリしない。昔の記憶と今朝の出来事の接点を探すため、彼は物置を探索する事にしたのだった。
**********
数十分後、瞬一は、それらしきカバンを発見し、自室に持ち込んでいた。確かにそのカバンの中には液晶パネルやキーボード、更にその奥には見たことも無い機械類が収められ、ただのカバンでは無い事を物語っていた。
「見た感じ、派手なもんじゃなさそうだけど……まさか、これがタイムマシンだとでも言うのか?」
実際にその機械を見てみても、信じられなかった。しかし、その仮定が正しければ、今朝の不思議な出来事もあり得る訳で……と、瞬一はパニックを起こしそうになりながら、懸命に思考をを巡らせた。その時、階下から母親が彼に呼びかけて来た。
「瞬一! 電話だよー!」
「はいよー! ……って、家電に掛けてくる奴、珍しいな。誰だ?」
と、階下にある固定電話の受話器を取るため、瞬一は部屋を後にした。電話の相手は、彼にWebサイト作りを依頼しているクラスメイト、藤田であった。彼は自分の携帯電話から瞬一に電話を掛ける際、誤って携帯電話でなく固定電話の番号を選択してしまったのだった。時間にして数分であっただろうか、藤田との対話に興じている最中、瞬一は自分の部屋の方から激しい閃光が漏れるのを、階段の下から目撃した。藤田との会話を一時中断し、慌てて自室に戻ってみると、別に何も変わっては居なかった。
一体、なんだったんだ? と疑念を抱きつつも、会話を中断したままの藤田を放置する訳にも行かず、瞬一は自室から改めて藤田に電話を掛け、その後一時間に及ぶ長話に付き合ったのだった。
**********
「ふぃー……あちぃ。ここの廊下、やたらと風通しが悪くて、空気が凄く淀むんだよなぁ」
あの夜から数日が経過し、時は七月二十二日の午後。瞬一は、夏休みの部活に出席し、練習場所の環境の悪さに辟易していた。学校が住宅街にあるため、音漏れ問題を危惧した顧問の指示により、吹奏楽部の一年生たちは、窓も開けられない劣悪な環境で練習せざるを得なかったのだ。
「げ、このハンカチももう限界か。やれやれ、明日からはタオル持ってこよう」
と、瞬一はすっかり飽和状態になったハンカチを放棄した。実際、この気温と湿度の中では、ハンカチなど役には立たない。スポーツ用のタオルを数枚用意する必要があるだろう。そのぐらい過酷な環境なのである。
「ありゃ……水、もう無いのか。しょうがねぇ、汲みに行くか」
空になったミネラルウォーターのペットボトルに水道水を汲み入れる為、瞬一は席を立った。夏場の練習に於いて、脱水症状を防ぐ為、お茶か水の持込は認められていた。数年前に熱中症で倒れた先輩が居たとかで、がぶ飲みしなければ良いと言う事で許可されたらしい。
「おっ、栗原のアルトか。相変わらずキレイな音だなぁ」
水道からの帰り、あおいの奏でるアルトサックスの音色が瞬一の耳をくすぐった。仲間びいきをする訳でなく、彼女のアルトサックスは非常に美しい音色だった。ただ、先輩優先という風潮が強い文化部の悲しさから、中学時代に先輩を越えるキャリアを持つ彼女でさえ、上がいる間はレギュラー入り出来ないのだ。そして彼は、その音色に聴き入るうちに、無意識に音源の方向に足を運んでいた。
「栗原……おーい栗原」
「あ、相田君。やだ、ずっと見てたの?」
夢中で楽器を奏でていたあおいは、突然掛けられたその声に驚き、思わず頬を染めた。
「いま通り掛かった所さ。ほら、水汲んで来たんだよ」
「そうなんだ……ひゃー、凄い汗。シャツ透けてるじゃない」
汗だくになっていた瞬一の姿を見て、あおいは驚いた。同じような環境に身を置いてはいたが、彼女の方は瞬一ほど汗が目立たず、涼しそうな印象を与えていた。
「ハンカチなんか役に立たないよ。ワイシャツの下に、Tシャツ着込まないとダメだな」
「うん、そっちの方が正解だね。私もそうしてるし。その格好じゃ汗が冷えて、風邪ひいちゃうよ」
あおいの汗対策は、夏場の屋内練習を何年も経験してきただけあって、実に理に適ったものだった。しかも彼女は、汗を吸わなくなったTシャツを何度も着替えているとの事。かなり徹底した汗対策だった。
「それにしても、夏の練習がこれほどキツイとは思わなかったよ」
「私も、楽器を習い始めた頃を思い出すよ。こんな風に暑い日に、よく気分が悪くなったっけ」
「やっぱ吹奏楽って文化系じゃなくて、体育会系なんじゃない?」
「練習がハードで本番が華やかな所も、似てるよね」
瞬一の呟きは、当たらずとも遠からじと云うところであった。実際、吹奏楽部というところは、ステージ上の華やかな印象から上品なイメージを与えがちだが、その練習はとてもハードで、運動部並みの体力トレーニングを課すところも少なくは無い。少なくとも腹筋と肺活量強化のためのトレーニングは必須であるため、何も知らずに入部してきた者は、一度は驚くのである。
「本番、か。取り敢えず、合奏に入れて貰える様に頑張らないとな」
「文化祭が終われば、三年の先輩が引退するから。そしたら、トロンボーンはポスト空くでしょ?」
「そうだね。でも、それは栗原も同じじゃん」
「それまで、廊下で地味だけど頑張ろうね」
一年生同士……というより、水面下で想いを寄せる者同士が、互いにエールを交換し合った。そして暫し『休憩』と称する雑談に興じた後、瞬一は練習場所に戻っていった。
**********
「戻る前に、済ませておくか」
自分の練習場所に戻る途中、瞬一はトイレに立ち寄った。幾ら先輩達が居ない時間帯とはいえ、無闇に練習を中断してトイレに行くのは申し訳ないという、彼の性格の表れであった。
「ん? この匂いは……」
普段嗅ぎ慣れない、なんとも言えない匂いと……トイレの中から立ち上る煙。瞬一はそれが煙草の煙であると即座に気付き、止めさせるべきか、素通りして知らぬ振りをするか、暫し迷った。しかし正義感の強い彼は、些細な事であっても見逃す事は出来ず、煙の立ち上る個室をノックして、中に居る人物に語り掛けた。
「煙が廊下まで出て来ています、このままではバレますよ。悪い事は言いません、煙草は止めて出てきた方が……」
相手は校則を……いや、法律をも無視する不良学生。いきなり強気に出るのは得策ではないと判断し、瞬一は丁寧に注意を促した。だが、個室の中からは『うるせぇ、邪魔するな』の一言が返ってきただけ。しかし、彼にはその声の主が誰なのか、直ぐに分かったようだ。
「その声! 樋口か!?」
「……あぁ?」
ドアが開き、中から大柄な男が姿を現した。男の正体は、瞬一と同じクラスの樋口という生徒だった。
「……ンだぁ? 相田じゃねぇか。この正義カブレのお人好しが、俺に何の用だ? あぁ!?」
彼は不良学生の見本のような男で、かなりの強面だが、ケンカの腕っ節では恭平に一歩劣るというレベルであった。しかし、それでも瞬一が腕力で撃退できる相手ではない。
「もうすぐ、この近くに吹奏楽部の部員が集まってくる。ばれる前に、早く立ち去ってくれ。今ならまだ間に合う」
瞬一の言葉通り、もうすぐ合奏が休憩時間に入る。そうなるとレギュラー陣が大挙してこの付近に押し寄せてくるのだ。それに顧問教師も……それを知っていたため、彼は樋口を早くこの場から遠ざけようと説得した。が……
「テメェに説得なんかされたくねぇな、正義オタク!」
「俺は何と言われようと構わない、だが早く出て行ってくれ。じゃないと、庇いきれなくなる!」
「だから、庇ってもらう必要なんかねぇんだよ!」
と、樋口が凄んで来たその時、聞き覚えのある声が背後から聞こえ、瞬一は心強い味方の出現にホッと胸を撫で下ろしていた。
「バカかテメェは。誰がテメェなんぞを庇うかよ。ここは吹奏楽部の練習場だ、こんなトコで煙草なんか吸われたら、ここの部員が疑われる。瞬一はそれを防ごうとしてんだよ、気付けボケ!!」
「恭平、何でここに!?」
「この真下の水道で足洗ってたら、便所の窓から煙が見えたんでな。急いで駆けつけたって訳さ」
「チッ!」
流石に二対一で、しかも一人は恭平。これは分が悪いと踏んだか、樋口は吸殻を便器に流して、退散して行った。
「助かったぜ、俺一人じゃ奴は追い返せなかった」
「礼はいい、早く窓あけて匂いと煙を逃がせ!」
「駄目なんだ、練習中は窓開放厳禁なんだよ! 音が漏れて、苦情が来るんだ!」
「何だとぉ……? くそっ、じゃあコレだ!」
恭平はおもむろに携帯電話を取り出し、どこぞへと連絡し始めた。
「佑香か!? 冷却スプレーありったけ持って、第二校舎の三階まで来てくれ! 大急ぎで!」
「冷却スプレー?」
「いいから見てろ!」
そして間もなく、佑香がヒィヒィ言いながら、ダンボール箱に入った冷却スプレーを抱えて走ってきた。
「便所を中心に、三階全体にコイツを撒き散らすんだ、早く! 佑香、悪いがお前も手伝ってくれ!」
「あ、あぁ!」
「了解!」
恭平と瞬一、そして佑香の三人は、大急ぎで冷却スプレーを三階全体に行き渡るように散布した。その量、スプレー二十五本分。フロア全体が、強力なシップ薬の匂いで充満した。
「なるほど、これなら煙草の匂いなんか一発でかき消せる……けど、この匂いもキッツイなぁ」
「我慢しろ。この匂いは一過性のもんだ、すぐに収まる」
そして、スプレーを散布してから十五分ほど経過した頃。吹奏楽部のレギュラー陣が休憩に入り、トイレを求めて降りて来た。
「なんか、シップ臭くない?」
「ホントだぁ」
「あー、すんません! それ、俺っす!」
佑香に手当てをしてもらうカムフラージュをしながら、恭平が被害現場に最も近い、トイレの前の踊り場で手を振っていた。
「何でサッカー部がここに居る訳?」
「いやぁ、自主トレで階段の昇り降りやってたら、コケちまいまして。マネージャーに来てもらって、処置してもらってたんス」
その言い訳は効果絶大で、特にマネージャーの手当てまで受けるという大規模な演技付きだったから説得力も抜群。オマケに煙草の匂いはすっかりかき消され、その痕跡は一切残っていなかった。実際には怪我などしていないのだが、包帯でカムフラージュするだけで素人には大袈裟に見えるものである。そこまで計算しての、恭平と佑香の共演による大芝居だった。
「ユカちゃん! 守山君、大丈夫なの?」
「訳は後で話すから、今は口裏合わせといて。大丈夫、恭ちゃんは怪我なんかしてないから」
「え?」
訳が分からない、といった表情のあおいに、瞬一はただ苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。そしてその後、真相を知ったあおいは、恭平の判断力と佑香の洞察力、そして瞬一の正義感にひたすら驚いていた。
**********
何とか樋口の喫煙という不祥事を誤魔化しきった瞬一は、漸く自分の練習場所に戻ってきた。なぜ彼が学校にいたのかという疑問や、また同じ事を繰り返すのではないかという不安はあったが、いつまでも気にしてはいられない。瞬一にもスケジュールはあるのだ。しかし窓を開けられないという劣悪な環境は、匂いが篭る事以前に、熱が篭るという大きな問題を抱えていた。
「ふー……しかし、この汗、何とかならんもんかねぇ」
また、汗が滴ってきた。左手は楽器本体を持っているため使えないので、右手で額の汗を拭う。その時、メトロノームの音が消えた。ゼンマイが切れたのだ。
「あー、ゼンマイ巻かなきゃ」
と、瞬一がメトロノームを手に取ったその時。汗で手が滑り、楽器を支えていた左腕から注意が逸れ、腕から楽器が離れた。トロンボーンは、他の金管楽器と違って『立てる』事が出来ないため、床に寝かせるか腕で支えている以外に、安定させる方法が無いのである。尤も、専用スタンドを使えば話は別であるが、そのような洒落たアイテムなど、備えてある筈が無かった。
「げっ!!」
全身の血の気が引いた。瞬一が慌てて倒れた楽器を手に取ってみたところ、管がひしゃげて、大きな凹みが出来ていた。学校の備品で、既にボコボコに傷ついていた古い楽器だったが、流石にこれはまずい。
「しまった、楽器をちゃんと置いてからメトロノーム触るべきだった。やべぇな、誤魔化す訳にも行かないし……ん?」
その時、瞬一の脳裏に、ある記憶が甦った。あの朝、いきなり現れた、もう一人の自分。いつの間にか、カバンに入っていたノート。そして、言われた通りに探して、本当に見つかった妙な機械……瞬一は、その機械に賭けてみる事にした。
(どうせ、今日はもう練習にならないし、楽器も何とかしなきゃ……ちょっと怖いけど、先輩に打ち明けよう)
その判断は正解だったようで、留美は『あちゃー、やっちゃったねぇ』と苦笑いを浮かべつつも、怒りはしなかった。寧ろ、正直に打ち明けた事を高評価してくれていた。そして瞬一は留美と共に顧問の元を訪れ、楽器を修理に出しに行くという理由で部活を早退し、そのまま家に帰った。
**********
「凄いスパークだな。これ、マトモに触ったら火傷じゃ済まないな」
自宅に戻った瞬一は、とりあえず機械を起動させてみた。そして適当に操作したら、凄い放電と共に機械の一部が一瞬で消え、暫くしたら戻ってきた。
「この間のあいつも、スパークしながら消えて行ったよな。やっぱ、この機械を使って飛んできたんだろうな」
あの時、寝ぼけ眼で見た『もう一人の自分』が去っていく姿を思い出し、瞬一は何とか衝撃を和らげる手段を模索した。先程の失敗を無かった事に出来るかも? という期待も大きかったが、やはり感電は怖い。せめて最低限の防備は施そうと、彼は風呂場から掃除用のゴム手袋を持ち出してきた。そして半信半疑で機械を操作し、彼は一瞬、意識が遠のくのを感じていた……
**********
「ふー……しかし、この汗、何とかならんもんかねぇ」
また、汗が滴ってきた。左手は楽器本体を持っているため使えないので、右手で額の汗を拭う。その時、メトロノームの音が消えた。ゼンマイが切れたのだ。
「あー、ゼンマイ巻かなきゃ」
「ちょっと待ったあ!!」
「え!?」
突然の呼び声に驚き、瞬一はメトロノームを落としてしまった。当然そちらも気になったが、声の主の姿を見た瞬間、そんな意識は既に飛んでいた。
「ふぃー、間に合った。おい、ちゃんと楽器置いてからにしろよ。酷い目に遭うぞ?」
「え……え? あ! まさかオマエ?」
「そう、そのまさか、さ。俺は五時間後の世界から戻ってきた、お前だ」
そこに立っていたのは、紛れも無く自分自身だった。そして目前の彼は涼しい顔で、自分が未来からやって来た瞬一本人であると明かしたのだ。これで、驚くなという方が無理な話だ。だが、瞬一にはその光景に見覚えがあり、その手段にも凡その見当はついていた。
「やっぱし、あの変な機械を使ったのか?」
「そう。あのアタッシュケースの中身は、まさにタイムマシンだったのさ……いや、俺もさっき試したばかりで、未だに半信半疑なんだけどな」
驚愕の表情を浮かべつつも、瞬一は状況を把握していた。目の前に居る『自分』がそれを証明しているのだから、もはや疑う余地も無かったからである。
「マンガだな。しかしこれで、あの朝の出来事が全て納得できた。あの時は……そうか、あのノートを忘れて、栗原に迷惑をかけたのを帳消しにしたってトコだろうな」
「多分な。あのノート、カバンに入れた覚えは無かった。あの朝現れた、アイツの仕業に間違いないだろうな」
同じ姿をした二人が、過去の現象の謎解きをしていた。その光景も第三者から見れば、相当不思議なものに見えたに違いない。
「自分を捕まえて、アイツって言うのも変な感じだな」
「しょうがないだろ。自分の記憶にない自分なんて、既に自分じゃないぜ」
冷静になって考えてみれば、確かにその通りである。自分自身のしでかした事とはいえ、自らの記憶に無ければ、それはもはや他人の仕業に等しいのだ。実際、彼らにとってみれば、未来から現れた自分自身など、他人以外の何者でもないのだから。
と……謎解きに興じる『二人の瞬一』は、自分たちの犯した致命的ミスに気付いていなかった。
「瞬一、何をさっきから一人芝居……え!?」
「げ!!」
彼らは決して見られてはいけない密談の現場を、あろうことか、先刻の騒ぎで使用した冷却スプレーの空き缶を回収しに来た恭平に見付かってしまったのだった。
「きょ、恭平!! ……おいお前、上手く説明しといてくれよな。じゃあな!!」
無責任にも、未来から来ていた瞬一は、その場から姿を消してしまった。
「ちょ! お、おい! やれやれ、我ながら無責任な奴だな」
「おい瞬一、これはどういうこった? お前、双子だったのか? って、今の奴、消えたよな!?」
「う、ちょっと説明しにくい……って云うか恭平、声デカい」
第三者に秘密をモロに目撃された瞬一に、弁明の余地などある訳が無かった。そして更に、その会話を聞きつけたあおいが、彼らに近寄って来ていた。
「相田くーん、どうしたの? さっきから誰かと……あ、守山君、来てたの?」
「あ、栗原! 今な……むぐっ!!」
瞬一は恭平の口を塞ぎ、耳打ちで先ほどの事実を隠すように頼み込んでいた。まだ事情の説明も済んでおらず、かなり厳しい注文ではあったが、恭平は即座に状況を理解し、相談に応じてくれた。
「何? どうしたの!?」
「いや、俺にも出来るかと思って、こいつのラッパを吹かせて貰ったんだがな。音なんて出やしねぇよ。いやぁ、難しいなこれ? 良く鳴らせるよな、お前ら」
恭平は即興で言い訳を考え、演技をしてその場を凌いでくれた。瞬一もそれに応じ、懸命に場を繕っていた。
「あ、あー……言っちゃった。が、楽器は部外者に貸しちゃダメなんだ、内緒だって言ったのに」
「そうだったっけ? 悪い悪い」
「あー……興味あるのは分かるけどね。でも、一応決まりだし、ダメだよ?」
恭平の嘘を信じ、あおいは納得した。心苦しく思いつつも、瞬一はその場を偽って通すしかなかった。そして説得力を増すために、更に演技を重ねていった。
「ゴメン栗原、先輩達には内緒で、な、頼む!」
「ん~、しょうがないなぁ。今回だけだよ?」
あおいは悪戯っぽく笑い、瞬一に注意を促した。その姿を見て彼は、更に良心を痛めていた。
「ん! じゃ、私戻るね。守山君も、先輩達に見つかると面倒だよ?」
「あぁ、すぐ出て行くさ。さっきのスプレー缶が置きっぱなしだったんで、片付けに来ただけだからな」
ヒラヒラと手を振りながら、あおいはその場を去って行った。その後姿を目で追いながら、瞬一は額の汗を拭っていた。かなり緊張していたのだろう、その表情には未だに焦りの色が見えた。
「重ね重ね、恩に着る」
「気にすんな。で、どういう事なんだ?」
言葉少なく手短に状況を整理しようと、恭平が瞬一に問い質した。だが、先刻の二の舞を踏む事を恐れた瞬一は、この場での説明を躊躇した。
「悪い、ここじゃ説明できないんだ。誰かに聞かれちゃまずいからな。後で俺の家に来てくれないか?」
「分かった。その代わりキチンと、全て話せよ」
その一言で、恭平は納得していた。あの現場を見てもなお、冷静さを保っているのは流石としか言いようがなかった。そしてその夜、約束通りに恭平が瞬一の家にやって来た。
**********
「たっ、タイムマシン!?」
「しぃっ!! 声がでかい!!」
流石の恭平も、この事実に驚きは隠せなかったようだ。思わず大声を上げ、彼にしては珍しく取り乱していた。そんな恭平に、瞬一は懸命なる説明を試みた。が、彼としてもその装置を操作した経験が無いだけに、説明は難航した。実際に装置を見せたり、過去に二度、未来から来た自分に出会っている旨を打ち明けたりと、あらゆる手段を模索するも、ますます混乱を招くだけで、状況の把握には繋がらなかった。
「は~……頭、こんがらがりそうだぜ」
「まぁ実際、未だに俺も半信半疑なんだ。でも、幾つか、このタイムマシン説を信じないと説明できない事実が……って、なに引き出し覗いてんの?」
状況を飲み込むのに疲れたのか、はたまた既に全てを受け容れたのか。恭平は、いつもの飄々とした態度に戻り、冗談を言いながら瞬一の机の引き出しを開いて『タイムマシンのお約束』を表現していた。
「いや、タイムマシンったら、やっぱ引き出しかな、って」
「マンガの見過ぎだって」
「ま、お約束かな……ん?」
「へ? なに……あ!!」
と、ヒョイと引き出しの中を覗いた恭平の視線が、ある一点で止まった。そして瞬一も、その引き出しの中にあった『ある物』の存在を思い出し、慌てて恭平を制止しようとした。だが、その時にはもう遅かった。
「何だ、栗原の写真じゃんかよ~! しかも隠し撮り、こりゃあ決定的な証拠だな! もう誤魔化しは効かねぇぞ?」
「わ~!! 見るな見るな、見ちゃダメだ~~~!!」
タイムマシンの話題はどこへやら。恭平はニヤケ顔で写真を手に取って眺め、それを瞬一が顔を赤く染めながら追いかけた。
「アイツ、かなり可愛いもんなぁ。結構ボケボケなトコもあるけど、そこがまた、いいんだろ?」
「う~~……コイツで戻って、見なかった事にしてやる~!!」
と、瞬一は思わずタイムマシンを手に取り、操作パネルに手を伸ばそうとした。恭平は、真剣な表情でそれを制止した。
「バカ!! よさねえか!!」
「う~、だってよぉ」
鋭い剣幕に、瞬一は情けない声を上げた。そんな彼を、恭平が更に怒鳴りつけた。
「だってよぉ、じゃねぇよ! 頭冷やせ! そのタイムマシンとやらが本物なら、この世界の未来を大きく変えちまう可能性があるって事だろ! それを忘れるな!」
「あ、あァ、ゴメン。気をつけるよ」
恭平の説教で、瞬一は何とか冷静さを取り戻した。そして恭平は、全てを受け容れた上で、今見た事は全て見なかった事にすると宣言していた。
「オマエも、この機械の事はなるべく早く忘れるんだ。大事になる前に、な」
「そ、そうだな。そうしよう、うん」
確かに、こんな危ない機械の事は一刻も早く忘れてしまった方がいい。それは瞬一にも即座に理解できた。まして、彼自身はまだ、その機能を利用してはいない。だから、この場でタイムマシンを封印してしまっても何ら影響はなかった。
「よし! ……それで、この写真の件だが~!?」
「うっ! だ、だ、だからそれは……頼む、それも見なかった事にして……」
タイムマシンの話題に決着をつけた恭平は、その話は聞かなかったと言わんばかりに態度を豹変させ、あおいの写真を高々とかざして瞬一をからかい始めた。瞬一は、もう勘弁してくれとばかりに、顔を赤く染めて照れまくっていた。そして……
(こりゃあ、栗原の方をせっつかないと、進展しないかな。やれやれ、俺もとんだお節介のようだぜ)
そんな彼の姿を見て、恭平は思わず肩を竦めるのであった。
**********
瞬一が未来の自分と遭遇し、実際に会話をした日から更に数日が経過し、日付は七月二十四日。部活の練習も終わり、彼は帰宅途中にあった。駅を出て、買い物のためにコンビニ店へ向かって歩きながら、彼は翌日の練習に持ち込む飲み物について考えていた。
「確か、甘い物や炭酸はダメ、って事だったよな……熱中症対策なんだから、スポーツドリンクならOKだよね、きっと」
と結論付けてみたが、確証は無い。そこで瞬一は、あおいはどう思うか、意見を聞いてみようと考えた。早速、携帯電話を取り出そうと、ポケットに手を入れるが……無い。どうやら家に忘れてきたらしかった。
「やれやれ。気付くまでは気にならないのに、気付いちゃうと、妙に気になるんだよな……」
携帯電話という奴は、持っていると思い込んでいるうちは何とも無いが、忘れてきた事に気付いてしまうと、妙に落ち着かないものである。それに、携帯電話が無いと、アドレス帳も同時に手元に無い状態になるので、掛けたい相手の電話番号も判らず、八方塞になる事が多いのだ。
「仕方が無い、明日はお茶で我慢するかぁ」
ガッカリしながら、瞬一は駅付近のコンビニまで歩を進めた。が、そこで彼は、意外な人物に声を掛けられた。
「あれ? 相田じゃん」
「え? ……アレ、藤田? なに、お前ん家、この辺なの?」
声の主は、夏休み前から瞬一にWebサイト製作を依頼していたクラスメイト──藤田だった。
「おぅ、歩いて三分かかんないよ。ほら、道路の向こうのあのマンションだ」
と言う藤田の弁が嘘でない事は、Tシャツに短パン、つっかけサンダルと言うラフな姿からも窺い知る事ができた。彼は母親の帰りが遅くなるため、コンビニ弁当で夕食を済ませようと、買い物に来たとの事だった。
「そんなモンばっか食って、身体壊すなよ?」
「ふん、そんなにヤワじゃないよ。ところで、お前ヒマか?」
唐突に藤田は、瞬一を自宅に招こうと誘ってきた。どうやら、自宅でWebサイト製作の詰めを行おう、と言いたいらしい。その時点で取り立てて用事もなかった瞬一は、彼の家で電話を借り、帰宅が遅くなると連絡する事を条件に、彼の申し出を受けていた。
**********
「ひー、参った参った。もう十時じゃんか。早く晩飯食べて、風呂に行かないと……ん?」
全ての用事を済ませ、帰宅した時には既に十時を回っていた。流石の瞬一も、お人好しが過ぎたかと反省していた。制服から部屋着に着替え、食事を摂るために部屋を出ようとして、ふと机の上の携帯電話に目をやると、着信ランプが点滅していた。
「あ、栗原からだ!! ……八時半? けっこう前だな」
ここは食事を優先するところだろうが、相手があおいとあっては話は別だ。瞬一は、慌てて彼女宛に返信していた。
「もしもし? 相田だけど。さっき電話くれたみたいで、ごめんね」
まず瞬一は、着信に応じられなかった事を謝った。そして、時刻が遅い事を考え、即座に本題に移った。
「うん。実はお姉ちゃんから、M響のコンサートのチケットを貰ったの。それで、どうかなって思って、その……」
「え、コンサート!? うん、いいじゃない。お、お、俺でよかったら、OKだよ!?」
瞬一は思わず、喜びの声を上げた。だが、あおいの声は何となく弾まない。
「う、うん。そう思って電話したんだけど、出なかったから……ゴメン、さっきマキちゃんと電話したときに、つい、その……」
「あ、あー、そういう事か。うん、しょうがないよ、気にしなくて大丈夫だから」
最初の喜びが大きかっただけに、そのショックは半端ではなかった。しかし、それを大袈裟に嘆いたら、あおいを困らせる事になってしまう。まして、この状況は自分が携帯電話を忘れていたが故の結果なのだから……と、瞬一はムリヤリに気丈を装い、笑って会話を終了させた。だが、彼は激しく後悔していた。
「ふっ、不覚! まさか、こんなビッグチャンスを逃すとは! 藤田の家に行ってなければ、デート出来たかもしれないのに!」
その台詞を言った後、瞬一はベッドの下に押し込んだ黒いアタッシュケースを引きずり出していた。
「……行ってなければ、か。この機械って、こういう時に使うために、作ったんだよな、きっと」
抱いてはいけない考えが、瞬一の頭を支配した。先日の恭平の一言が脳裏を掠めるが……今の彼には、その言葉も通用しなかった。
「だ、大丈夫だよな。そうだよ、ちょっとだけだ、ちょっとだけ……」
そう言いながら夢中で操作パネルを叩き、瞬一は数時間前の自分に会いに出掛けていた。
**********
「確か、甘い物や炭酸はダメ、って事だったよな……熱中症対策なんだから、スポーツドリンクならOKだよね、きっと」
瞬一はそう呟きながら、あおいに意見を求めようと考え、携帯電話を探そうとした。が、その瞬間、背後から声を掛けられ、驚いて振り向いた。
「コンビニか? やめておけ。今日コンビニに行くと、大きなチャンスを逃すぞ」
「え? あ……未来の俺?」
その質問に、目の前の男は頷いた。曰く、彼は四時間後の世界から戻ってきたのだという。
「これで三度目だが、やっぱビックリするなぁ」
「まぁな。っと、それよりお前、ケータイ忘れてるだろ」
「あ、ほんとだ」
自分でも気付いていなかった状況を、既に知っていた。という事は、彼が未来から戻ってきた自分であるというのは本当なのだろう。
「八時半までに家に帰るんだ。何があるかはそこで確かめろ。絶対にコンビニには寄るなよ? まっすぐ帰るんだ。じゃあな!」
「あ、おい、ちょっと!」
サッと用件だけを言うと、彼は足早に立ち去り、姿を消してしまった。
「あー、消えちゃった。コンビニに寄るな? 八時半? 何のこっちゃ……まぁ、俺自身の言ったことだ。信じてみるか」
瞬一は、いま遭遇した『未来の自分』の言う事を信じ、素直に帰宅する事にした。自宅に到着した彼が時計を見ると、時刻は八時を少し回ったところだった。先ほどの予告が何を意味しているのかは判らなかったが、八時半頃に何かがある、それは確かなようだった。そして更に時間が過ぎ、手元の時計が八時半を告げる頃、携帯電話の着信音が鳴り出した。
「お? もしかして、これの事か? ……あ! 栗原からだ!」
ディスプレイに表示された名前を見た時、瞬一は心を躍らせた。そして彼はすかさず着信ボタンを押し、通話を開始した。
「もしもし、相田君?」
「やぁ、どうしたの? 君から電話を掛けてくるなんて、珍しいね」
禁を犯してまで、未来の自分が伝えたかった事。その答えが、この先の会話に隠されている……それを意識した為か、瞬一の声は僅かに上ずっていた。そしてその用件は、クラシック音楽のコンサートチケットを二枚貰ったので、一緒に観にいかないか、という誘いだった。しかも、相手はあおいである。瞬一がこの誘いを断る理由など、あろう筈は無かった。
「よ、よかった。じゃあ、明日、チケット渡すね……うん。じゃあ、また明日、学校で」
「うん……うん。じゃあ、またね!」
電話を切った後、すっかり興奮状態となった瞬一は、暫し我を忘れてはしゃいでいた。それはそうだろう、なにせ意中の彼女が、自分を誘ってきたのだから。
数分後、瞬一は早く食事を済ませるようにと呼びに来た母親の声で我に返り、何とか落ち着きを取り戻して、先ほど出会った『未来の自分』の行動パターンを冷静に分析してみた。
「つまり、さっきの俺は何らかの妨害が入って、これを逃した、って訳か。一体、何をやってて聞き逃したんだ……いやいや、余計な事を考えるのは止そう。今ここで起こっている事が全てだ」
この時、瞬一が大きなチャンスを掴んだのは間違いなかった。その方法は些か感心できる物ではなかったかも知れないが、今の彼にとって、それは取るに足らない事であった。しかし、その心の中に芽生えつつあった『やったのは自分じゃ無い、未来の俺だ』という免罪符が、この後、自分の運命を大きく変えて行くのだという事に、彼は気付いていなかった……
(無償版は此処までとなります。その後の展開は本編にてお楽しみください)